「お経 真言宗」

「お経 真言宗」(勝又俊教/講談社)

→考えるまでもなく、お坊さんほど役に立たない存在はめずらしいよなあ。
お坊さんとは葬式や仏事、法事に呼ばれ、
偉そうなパフォーマンスをするゴロツキのことだが、
民主主義でみんなが大声で葬式(坊主)なんか必要ない!
と言い切ってしまえば、大勢のふところに余裕が生まれるのである。
いま葬式に坊さんをひとり呼ぶのって、いくらかかるんだろう(10~100万?)。
でも、別にお坊さんはなにをしているわけでもないでしょう?
ああそう、法話というのがあるけれど、あれはマニュアル本があるわけで。
在俗のひろさちや先生の法話マニュアルもけっこう売れているみたい。

高僧とかいったいなんのために存在するのだろうか?
親も高僧でぜいたくざんまいの青年時代を過ごし家族を持ち、
お仲間と肩を組みながらいま高僧となった中年は「使えない」わけでしょう?
たぶんコンビニバイトひとつできないと思う。
けれども、そういう役に立たない高僧のほうが、
底辺バイトよりも偉いことになっている。
いまの世の中の理不尽の象徴が、
いわゆるお偉いお坊さんたる高僧に象徴されている気がしてならない。

天皇陛下もそうだろうと言われたら、たしかにそうだから、
高僧が偉ぶる理由もわからなくはないのだが。
皇族ってまったく役に立っていないところが逆説的に役に立っているのだと思う。
役に立たないところが役に立っているといったら矛盾になるのだろうけれど。
天皇制なんか必要ないけれど、その無用なところが有用なのだと思う。
天皇なんか道路掃除ひとつできない使えないゴミだが、そこが偉いわけでしょう?
ああ、身の保全のために言っておくと、わたしは左翼嫌いの天皇制支持者だから。
とはいえ、佳子さまとお話してみたいという願望はまったくないけれど。
人間味がないのでヌードどころか水着姿も関心がない。
けれども、佳子さまは真言宗の坊さんよりは、
庶民のアイドルとして人の役に立っているとは言えなくもない。

真言宗の坊さんも、自分の存在が人の役に立っているとか信じているのだろうか?
人の役に立つのが自分の存在意義だっていうのは、なにかが違う気がするけれど。
人間はみんな「自分のため」に生きているというのが本当ではありませんか?
「自分のため」に生きるときに他人を必要とするので、
「自分のため」なのに「他人のため」に生きたいとか思う人が現われる。
「自分のため」に「他人のため」に生きたい。
本当に「他人のため」ではなく、あくまでも「自分のため」――。
そう自覚している援助者は本物なのだが、なかなかそういう人はいないだろう。
「他人のため」にこんなに尽くしたのに報われないと嘆いている人がいかに多いか。
それは「自分のため」にやっていたのだと、どうして気づかないのだろう。
そもそも恩返しを求めて「他人のため」に動くというのが嘘くさい。
恩返しを求めるのならば、それは「自分のため」なのだから。違う? 違うなら、どこが?

このように考えると徹底的に「自分のため」しか考えず、
「他人のため」にはなにもしないで、
意味不明のお経をあげている役立たずのお坊さんが偉く思えないこともない。
「他人のため」にはなにもしないで、そのくせ高額を請求するのだから、
その「自分のため」マックス利己主義はかえって気持のいいところがなくもない。
みんなお葬式で「自分のため(気持整理)」や
死んだ「他人のため」に坊主なんか呼ぶのをやめればいい。
みんながそうしてはじめて「他人のため」に生きているという坊主連中の嘘がばれ、
偉そうに群れた彼たちはそれぞれ「自分のため」のことを考えるだろう。

最後にちょろっと書くが、「悟る」の本当の意味はこうだから。
「悟る」とは、弟子ができること。
釈迦は35歳で悟ったわけではなく、この年齢で弟子が複数誕生して、
以降お仲間と群れて生きることを決めたから、
後世このときに悟りを得たとされているのである。
真言宗トップの空海も36歳のときに群れを上から認められたから偉くなった。
「悟る」とは孤独な行為ではなく、手下をつくるための集団操作術なのであろう。
ある人が悟ったと客観的にみなされるのは、弟子ができたときしかないということだ。
一番弟子がもっともおいしい思いをできることが多いが、
反対に師匠などただの人であることを知るがゆえに、
裏切り者として集団から追放されるリスクもあるので、プラス即マイナスである。

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