「インド仏教思想史 下巻」

「インド仏教思想史 下巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→上巻は釈尊(釈迦)の教えから大乗仏教誕生まで。
下巻はインド大乗仏教の変遷(へんせん)である。
わたしは大学でまじめに学問したことがないから、
以下のような文献学(?)の考え方でさえ新鮮だった。
インド大乗仏教の3人の有名な哲学者は龍樹、世親、無着。
世親と無着はきょうだいだったとされている。
さて、インド大乗仏教は初期、中期、後期と分類される。
(初期)~龍樹まで(主に空思想)。
(中期)~世親・無着まで(主に唯識思想)。
(後期)~仏教消滅まで(主に密教思想)。
大乗仏典(お経/仏の教え)はいろいろあるが、こう分類されるという。
龍樹の著作に引用されている経典が初期大乗仏典。
龍樹の著作にはなく、世親・無着の著作で引用や言及されているのが中期大乗仏典。
龍樹や世親・無着の著作にいっさい言及のない経典が後期大乗仏典。

大乗仏典の名前なんて、みなさんご興味がないでしょうけれど――。
(初期大乗仏典)
「般若経典」「維摩経」「華厳経」「浄土三部経」「法華経」
(中期大乗仏典)
「涅槃経」「楞伽経」「勝鬘経」「解深密教」
(後期大乗仏典)
「大集経」「地蔵十輪経」「大日経」「金剛頂経」
ほとんど読んだことのあるお経マニアの自分が抹香くさくていやになる。

(A)初期大乗仏教

さて、いまでもいろいろなトラブルの原因になっている法華経である。
じつのところ、学会員さんでも法華経をぜんぶ読んだことがある人は少ないでしょう?
はっきり言って、おもしろくないし独善的でむかつくお経だから。
よく法華経は文学的だといわれるけれど、
その意味は、ほかのお経と比べたら物語性があるってくらいだから。
それほど法華経以外が退屈だから法華経程度でもおもしろく思えてしまうという。
法華経は学者のあいだでも古くからふたつの批判があるらしい。
1.これから教えを説くぞと言いながら結局最後まで教えは説かれずに終わる。
2.自画自賛してるだけじゃねえの。
わたしも最初読んだときにそう思ったし、みなさまもお読みになられたらそう思うはず。
ひろさちや先生の解釈をまじえながら、わたしの考えを書くと、
法華経は革命的な小乗仏教批判のお経なのである。
要するに小乗仏教っていうのは先輩や古株が偉いって教えなわけ。
より古いほうが釈尊(釈迦)に近いのだから「正しい」だろうっていう話。
それに対して、法華経はおまえらのいう釈迦は本物じゃないと主張したんだな。
本物の仏は永遠の世界にいてこの世に生まれて死んだあれは仮の姿であると。

☆「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」→「この世」→「真理の世界」……

こういうふうに往復運動をしているのが本物の仏であると法華経は主張した。
法華経はこの世以外の永遠の「真理の世界」をつくってしまったわけだ。 

☆「真理の世界|この世」

むかしのブログ記事では「真理の世界>この世」「絶対世界>相対世界」
とわたしは表記していたが、はっきり断絶していると、
つまり「絶対世界|相対世界」と書いたほうがわかりやすいのかもしれない。
わたしは仏典(お経/仏の話)は得意(?)なのだが、
龍樹が書いたような論書(哲学書)はまったくの苦手である。読めない。
このたび、どうして龍樹が「空(くう)」の思想(哲学)を言い出したのかようやくわかった。
龍樹が(「色即是空」の)空(くう)とか言えた背景には法華経の世界観があったのか。
どういうことかというと、法華経はこの世のさらに上にある永遠の世界を創造した。
永遠の仏がいるとして、釈尊(釈迦)なぞそのうちのひとりに過ぎぬと軽んじた。
繰り返すが、その世界をわかりやすく表示するとこうなる。

☆「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」

法華経世界にあるこの対立を見て取り、龍樹はある結論にいたった。
龍樹はむかしカジろうとしたが、
あたまがパッパラパーになりそうだったのですぐ閉じた。
ここはもうひろさちや先生のわかりやすい解説を頼りにしよう。
先生にとっても龍樹は難しいそうである。

「哲学書というものは、どうしてこんなに晦渋(かいじゅう)なのであろうか……。
とくにナーガールジュナ(龍樹)の『中論』は、
注釈書なしではなかなか理解が困難である。
しかし、まあ、ナーガールジュナの言いたいことは、
世界の真実の姿をわれわれ人間の不完全な言語でもって正確に表現できそうもない
――ということであった。
人間の言語には、どうしようもない限界があるからだ。
『中論』において彼が語っているのは、いわばその絶望である。
微に入り細に入り、ナーガールジュナは人間言語の
――したがって、人間の認識の――限界を告発しているのである」(P189)


☆「真理の世界(絶対世界=無言語)|この世(相対世界=言語説明可能)」
☆「真理(絶対世界)|法華経、華厳経、般若経典、浄土三部経、維摩経(相対世界)」


龍樹はこの言語で説明できない絶対の真理を「空(くう)」と呼び、
言葉でなんとか説明できる世界を、それに対して「仮(け)」と呼んだ。

☆「空(絶対真理)|仮(相対真理=善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死)

言葉には限界があるということを、ひろ先生はわかりやすく説明する。
たとえば、「ないものはない」――。これは正反対のふたつの意味を表わせる。
1.ここは大型店だから「ないものはない」(=ある)。
2.いくら泣いたって「ないものはない」(=ない)。
わたしも考えてみた。「お礼をしなきゃな」――。
1.さんざん意地悪されたから「お礼をしなきゃな」(=復讐)。
2.いろいろお世話になったから「お礼をしなきゃな」(=感謝)。
おなじ言葉でもふたつの意味を持つことがある。
それから言葉の意味は体験に左右される。
「結婚」という言葉は結婚生活をしたことがあるかどうかで意味は変わるでしょう。
「同性愛」なんかもそう(わたしにゃわからん)。
「犬」と言われても、それぞれイメージする犬が違う(どうでもいいが犬は大嫌い)。

さらに言葉の限界と言えば「クレタ人は嘘つきだ」の問題があるでしょう。
クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と言ったら、本当のことがわからなくなる。
「クレタ人は嘘つきだ」を信じたら、この言葉も嘘になってしまい、
ならばクレタ人が本当のことを言ったことになる。
このパターンでひろ先生が考えたのは「例外のない規則はない」。
「例外のない規則はない」という立言そのものが規則であるから、
この規則そのものに例外があることになる。
つまり、「例外のない規則はない」という規則にも例外はあることになる。
そうすると、「例外のない規則」が例外的にあることになる。

おなじパターンでわたしが考えたのは「絶対的真理はない」。
「絶対的真理は存在しない」が真理ならば、
「絶対的真理はない」というのが絶対的真理になってしまい矛盾するでしょう。
しかし、この矛盾こそわたしは真理だと思うし、
どうでもいいが「絶対的真理はない」は河合隼雄が信じていたことだ。
「絶対的に正しいことはない」という真理もそうでしょう?
「絶対的に正しいことがない」という主張が正しいのならば、
絶対的に正しいことがあることになってしまう。
こういうパラドックス(矛盾)は考え続けていると発狂するから注意してね(笑)。
「池田先生は絶対に正しい」で心を落ち着かせるの一興だと思う。
まあ、「山田太一さんの言うことはほぼ間違いないな」もおなじだけれど。
「さすがに新聞やテレビは嘘を言わないだろう」くらいが平凡だが安心できよう。

ことほどさように言葉というものは、相対しか表現できない不便なものかもしれない。
言葉では絶対の真理を表現できないのかもしれない。
言葉にできない絶対体験というものを目指して修業する人もいるわけでしょう?
まあ、それは単にボキャブラリー(語彙/ごい)が貧困なだけかもしれないけれど。
こういうことはヴィトゲンシュタインやラカンよりもはるかむかしのインド人が考えている。
「ウパニシャッド」に登場する哲人(紀元前650~550年)がこう言っているそうだ。
ひろさちやの言葉ばかりだと権威がないので、中村元先生の本から孫引き。
ひろさんは中村先生の不肖の弟子になるのかなあ。

「アートマン[絶対真理]は、それによってこそ
人がこの一切のものを認識し得るところのものである。
したがってアートマン[絶対真理]それ自身はもはや何ものによっても認識され得ない。
それ[絶対真理]は把捉し得ざるものであり、不可説である。
もし強いて言語をかりて言い表わそうとするならば、
ただ『しからず、しからず』(neti neti)と否定的に表現し得るのみである」(P183)


究極の真理、最高の真理、絶対の真理は言葉では表現できない。
しいて表現するならば「~~ではない、~~ではない」と否定的にしか表現できない。
むかし講演会で聞いたけれども()、
山田太一さんの好きな詩人に川崎洋という人がいて「私の歌」という作品があるらしい。
いまネット検索してみたらそんな詩は見つからなかったが、
「私の歌」は「~~でもない、~~でもない」と繰り返していく詩らしい。
「私」なんかもそうだよね。「私」とはなにか。
「女ではない、学生ではない、夫ではない、社長ではない、まじめではない……」
「私は○○である」と絶対的に言い切ることはできず、
「○○ではない」と言っていくしかない。
有名な般若心経も「無~~、無~~、(~~もない、~もない)」の世界である。
さて、中村元の文章は意味不明だったが、ひろさちや先生の説明はわかりやすい。

「……ヤージニャヴァルキヤ[インドの哲人]は、
究極・最高の原理(アートマン)が、言語によって表現できないものであり、
強いて表現すれば、
「ネーティ、ネーティ(そうではない・そうではない)」
としか言えないものだと断言している。
つまり彼は、最高の真理(原理)を表現することを権利放棄してしまったのだ。
究極の真理を言語でもって把捉[はそく/把握]することはできぬと、
あきらめたわけである。そしてその代りに、
究極の真理のうちに飛び込み、究極の真理に同化する道を選んだのである。
要するに、恋人をことばでもって口説くことをやめて、
からだでもって恋人と一心同体になることをねらったわけだ。
わたしの譬(たと)えはちょっと際(きわ)どいが、
哲学の話はこれくらい大胆に解説したほうがよい。
そうしたほうが、ともかくもわかりやすいのである」(P184)


うちのブログは偏差値40の高校生でもわかるように書いているつもり。
このため、もう一度繰り返しになるが、これまで書いてきたことを赤字で説明したい。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
↓ ↓ ↓
☆龍樹=「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」


この真理の世界の仏さま(永遠仏)のことを久遠実成(くおんじつじょう)と言うのだが、
こんな言葉は忘れてくださっていい。
わたしもむかし久遠実成とか本で読んで「うげっ、わからん」って思ったもの。
ちなみに、ひろ先生は本書で一度も久遠実成という専門用語を使っていないからすごい。
話を戻すと、言葉は絶対的真理を表現できない(のかもしれない)。
というのも、悪は善ではないということ(絶対悪はわからん)。
正しいというのは、誤りではないということ。
正義は不正はしていませんよということ。美人は醜くないということ。
きれいはきたなくないということ。
長いものは短いものに比べたら長いけれど、もっと長いものに比べたら短い。
大きいものは小さいものと比べたら大きいが、もっと大きなものよりは小さい。
コップ半分の酒に感謝するものも、あとこれしかないと嘆くものもいる。
以上、なんの話をしていたかというと、じつはこれが空(くう)の説明なのである。
空(くう)というのは、ものごとに実体はなく、
すべては縁起(えんぎ)によって成り立っているという思想(ものの見方)である。
「色即是空(色=空)」というのは、赤に「絶対的な赤」のようなものはなく、
青や黄色やほかの色があるから結果として、
相対的に赤が縁起(ご縁/関係性)として存在しているということだ。

龍樹から法華経にまた話を戻す。
法華経はなんの教えも説かれていないとも言えるが、
「諸法実相(しょほうじっそう)」という言葉が出てくる。
お経はサンスクリット語(古代インド語)を漢訳したものである。
この諸法実相をサンスクリット語の意味どおりに読むとしたら、
「諸法の実相」(=世界の真実)が「正しい」という。

「ところが、中国や日本では、サンスクリット語にない解釈がされるようになる。
漢字というものは便利(?)なもので、わりと自由な解釈ができるのである。
すなわち、サンスクリット語では「諸法の実相」としか読めないものを、漢字では、
――「諸法は実相なり」
と読んだのである。
中国の天台宗でそう読まれはじめて、それ以後その読み方が定着してしまった。
したがって、いまでは「諸法は実相なり」が、このことばの意味になっている。
そういうふうに読むことで、
これが大乗仏教の根本思想を表明したことばになるのである。
サンスクリット語に戻って「諸法の実相」と読んだのでは、
あまり深い意味があるとは思えない。
思想の歴史は、あんがい誤解の上に構築されるものかもしれない。
誤解がひろく世の中に通用すれば、誤解が正解になる。
「諸法実相」は「諸法が実相なり」と読むのが正しいのである」(P225)


では「諸法実相」=「諸法は実相なり」はどういう意味かと言うと――。
「諸法(世界)は実相(真実)である」。なんのこっちゃい、である。
ここで言葉を追加するのである。この追加が「正しい」かはわからない。
「諸法(世界)はそのまんまあるがままで実相(真実)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のある世界はそのまんまで真実(真理)である」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで正しい」
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれが存在理由がある」(ひろさちや流の解釈)
「善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽のそれぞれがそのまんまで美しい」
「すべてがあるがままでいい」
「すべてはうまくいっている」
「なるようになっているし、なるようにしかならない」
「諸法実相」という言葉を噛み砕き過ぎたので復元していく。
「諸法(相対世界)は実相(絶対真理)である」
「諸法(偶然)は実相(必然)である」
「諸法は実相なり」――。
龍樹の説いた「空(くう)」に戻る。龍樹は世界を空(くう)と仮(け)に分けた。
そうだとしたら、以下のようなステップを踏むと「空=諸法実相」ではないか。

1.龍樹→「空(くう)|仮(け)→善悪、正邪、正誤、美醜、長短、大小、増減、生死」
2.「諸法実相」→「実相(真理)」=「諸法(善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」=「仮(け)」
3.「空」=「諸法実相」


おわかりいただけましたか?
「空=諸法実相」はひろさちや先生の珍説(奇説)なのだが、わたしはこう理解した。
ひろ先生がお読みになったら、ああ、こいつわかってんじゃんと思われるだろう。
ご理解いただけなかった場合の言い訳も、ひろさちや氏から借りておこう。

「……わたしたちの言語は、ほとけの世界(極楽世界)の真理を
記述するに適していない。「男性」と書けば「女性」が予想され、
「中性」と書いても「男性―女性」が予想され、
「無性」と表記すれば反射的に「有性」が意識される。
わたしたちの言語は、相対世界をしか記述できないのだ。限界がある。
その言語でもって、
絶対世界(ほとけの世界)を実現することはあきらめざるを得ない」(P200)


そうそう、浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)についても書いておこう。
学会員さんは読みもしないで法華経のほうが浄土三部経より上だとか思っていそう。
たしかに浄土三部経というのはどれも、あの法華経よりも退屈なのである。
しかし、浄土三部経のほうが法華経よりも上という見方もできるのだよ。
まあ、大乗仏典なんかすべて後世の創作、
つまりインチキだから優劣を語るほどバカがばれることはないと言うこともできるが。
浄土三部経のどこが法華経よりも優れているかというと――。
以下はよほどの仏教関連者しかわからないでしょうから読み飛ばしてください、
法華経に描かれている仏は時間的に永遠の仏でしょう(久遠実成ってやつよ!)。
法華経の仏は時間軸しかない(永遠仏)。
いっぽう浄土三部経で描かれる阿弥陀仏のサンスクリット語源は、
「アミターユス/アミタ・アーユス(無量寿)」と
「アミターバ/アミタ・アーバ(無量光)」とふたつある。
阿弥陀仏という名前はサンスクリット語から音訳しているわけ。
よって、意味の上では、阿弥陀仏は無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれる。
無限の寿命を持った永遠仏であり、無限の光を持った太陽仏ということ。
法華経の仏は永遠仏でしかないけれど、
阿弥陀仏は永遠仏というだけではなく空間的な広がりもある無限仏と言える。
だから、勝った、勝った、浄土三部経は法華経に大勝利! なんて叫んだら、
まるで(一部の)学会員さんみたいなのでやらないよ、アッカンベエ!

しつこく浄土三部経の擁護を続けると、法華経の仏って偉そうじゃん。
「おれに逆らったら地獄に堕ちるぞ」とか
「おれに逆らったら来世で障害者にするから覚えとけ」とか言っているしさ。
法華経の仏はなにさまって感じで、人間に仏罰を加えてくるのである。
しかし、浄土三部経の阿弥陀仏はそんなことはない。
インチキ物語には違いないが、阿弥陀仏は人間出身なんだよ。
阿弥陀仏は法蔵菩薩(凡夫/人間)が長いあいだ修行した結果なのである。
このため、法華経の仏よりも苦労を知っているというか人間味があるとも言える。
まあ、浄土三部経がどれもクソつまらないことは認める。
まあまあ、法華経も浄土三部経もクソ味噌いっしょと言えなくもない。

☆法華経=「真理の世界(絶対世界)【永遠仏】|【釈迦】この世(相対世界)」
☆浄土三部経=「極楽世界(絶対世界)【阿弥陀仏】|【菩薩】この世(相対世界)」


阿弥陀経の有名な一節に「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」がある。
極楽世界は「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」であるという。
意味は、極楽世界では「青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、
赤い花は赤い光を放ち、白い花は白い光を放ち、それぞれがそれぞれ美しい」――。
「青黄赤」の三色は学会カラーなんだから、創価も阿弥陀経を認めろよ!
そしてそして、いいかいいか、
極楽浄土ではそれぞれの色の花がそれぞれの光を放ってそれぞれ美しい――。
これって諸法実相(しょほうじっそう)とおなじ世界観ではありませんか?

☆「絶対真理」=「空」=「諸法実相」=「青色青光」=「極楽浄土」

(B)中期大乗仏教

中期大乗仏教といえば、世親や無着による唯識(ゆいしき)思想だが、
あれはひろさちや先生にもよくわからないし、なおかつあまりおもしろくないらしく、
それほどページが割かれていない。
ひとつ、おもしろいと思った指摘は、
なぜ唯識(ただ識のみ/心のみ)なんていう思想が発展したのか?
初期大乗仏教では世界を「真理の世界」と「この世」に二分したわけである。

☆「真理の世界|この世」

そのうえで龍樹が「真理の世界」は言葉では表現できないと論じてしまった。
これで困ってしまって、さあ大変になったのだと、ひろさちや先生は指摘する。
なるほどなあ、と思った。

「『法華経』にしろ「浄土教典」にしろ、
そこにおいては仏のほうが凡夫にヒモをつけて、
そのヒモを引っ張ってくださっていた。
それが釈迦仏の授記であり[法華経]、阿弥陀仏の誓願である[浄土三部経]。
しかし、ナーガールジュナ(龍樹)がその仏の世界(「空」の世界)について
権利放棄してしまったあとでは、もはや仏にヒモを引いてもらえないのである。
凡夫は自分でネジを巻いて、凡夫のほうから歩き出さねばならない。
凡夫がネジを巻くには、凡夫のうちにゼンマイがなければならない理屈になる。
その凡夫のうちにあるゼンマイが、つまりは「仏性」なのである」(P211)


果たして凡夫の心の内部にゼンマイ(仏性)はあるのかという、
ある意味では仏教心理学がスタートするのである。
心の深みに入っていき過ぎたせいか、仏教心理学たる唯識思想はよくわからない。
唯識といえば――ユング心理学で言うところの無意識、
すなわち阿頼耶識(あらやしき/深層意識)が有名だが、
ひろさちや先生はおもしろいエピソードを紹介している。
あるアメリカ人がイスラム教徒の留学生を家に招待したという。
イスラム教徒は宗教的な戒律により絶対に豚肉を食べない。基本常識だ。
アメリカ人はどこから見てもどこから食べても牛肉のステーキをご馳走した。
イスラム教徒は「おいしい」と満足して牛肉ステーキを平らげていた。
ジョークが好きなアメリカ人は食事途中にふざけて、
「きみがいま食べているのは豚肉だよ」と言った。
するとその瞬間、イスラム教徒は胃のなかのものをすべて吐き出し、
床にのたうち回って苦しみはじめ実際に心筋梗塞を起こしたらしい。
救急車で病院に行って、一命を取りとめた。
ひろ先生が問題提起するのは、認識の問題である。
このとき彼の食べていたのは間違いなく牛肉でそれはずっと変わらなかったのである。
「それは豚肉だよ」と言われても牛肉が豚肉に変わるはずがない。
にもかかわらず、イスラム教徒は嘔吐した。
ということは、彼の食べているものが途中から牛肉が豚肉に変わったのだと、
ひろ先生は言い放っている。

ものごとを理解したいならば、異なった例を自分のあたまで考えてみるといい。
わたしはこういう別の例を考えてみた。
ある男が幸運にもきれいで若い女の子と交際していた。
あるとき彼女の親友という女性がアメリカから帰国してきた。
その友だちから男はこっそり教えてもらう。
「あの子、じつはむかし借金を返すためソープ(特殊浴場)で働いていたんだよ。
AV(アダルトビデオ)にも何本か出ている。
あたしの彼氏がそれを発見して興奮していて、男って最低と思った」
こういう話を聞いた男性は交際相手のことをどう思うだろうか?
まずえんえんと思い悩むだろう。
思い切って彼女に質問するが、もちろん否定される。
おりしも、そういう秘密を教えてくれた彼女の友人が交通事故で死んでしまう。
恋人の女性の存在自体は、話を聞くまえも聞いたあとでも変わらないのである。
しかし、一度聞いてしまったら、もういままでどおりの交際はできないだろう。
彼女の言うことを信じて交際を続けるという決断もあると思うが、
いつか酒に酔った拍子に女に手を上げてしまうことがないとは言えない。
無料エロ動画を見ていたら、高校生のころの恋人にそっくりの女性を発見してしまった。
よほど「寝取られ妄想」が好きな男以外は、
この瞬間になにかがプチンと切れてしまうだろう。
たとえ交通事故で死んだ女の言ったことがすべて嘘だったとしても、である。
まあ、よく似た女性などたくさんいるし、女は加齢や化粧で変わりやすいから、
映像の質がそれほどよろしくない無料エロ動画を見ても、
なにが真実かはなかなか断定はできないとも言えるのだが、しかし。
恋人の別の友人が「あんなやつの言ったことは絶対に嘘よ」
と神に誓って宣言しても、
男に芽生えた疑心暗鬼はどうにもならないような気がする。
人間の認識はそんなもんなんだよという。

ここでさらなる飛躍をする。
以下のことは、この本には書いていない。
こういう常識はずれの思考法をできるうようになったのは、
天才のひろさちや氏の本をたくさん読んだからだろう。
イスラム教徒にこれは牛肉だと言って、豚肉を食べさせたらどうだろう?
彼は豚肉を食べたことがないはずだから味がわかるはずもなく、
怪訝な顔をされたら新しい品種の牛肉で最高級部位だ、などと言ってやればいい。
食後にもずっと本当のことを隠しておけばイスラム教徒はまさに「知らぬが仏」である。
むかしソープで働いていたと陰口をたたかれた女性にしてもおなじである。
交際相手からはさんざん暴力を振るわれ、別れることになってしまった。
女性は人間不信、とくに男性恐怖症になる。
そんなおり、少々高齢の金持の男性と知り合い交際を申し込まれる。
あまりにプレゼントをいっぱいくれるので、つきあわざるをえなくなってしまう。
交際してみるとそれほど女性のあつかいはうまくないが、
とにかくベタ惚れと言ってもいいくらい自分を好きになってくれている。
しかし、男性恐怖はおさまらず、いくら誘われても身体を許すことはなかった。
男はさらに彼女の気をひこうと高いプレゼント攻勢を仕掛けてくる。
彼の誕生日に誘われ豪邸とも言っていい家に行くと、多少強引にだが身体を求められる。
男性恐怖は治っていなかったので拒否するが、
いままでもらった贈り物を考えると強く出られないで、
いささか強引なかたちでやられてしまう。
ひさびさのセックスなのでぎこちない動きしかできなかった。
そのうえ突然のことだったので抱かれているときに生理が始まってしまった。
彼はすっかり合点がいく。清楚で美しい彼女は25歳まで処女だったのだ。
いままでずっとガードが固かった理由がやっとわかった。
彼が「処女だったのか?」と聞くと、彼女は違うと首を振る。
いや、これは処女に間違いない。
彼女は処女であることを恥ずかしがっているのだと男は確信する。
女はどうしていいか迷う。本当は元彼をふくめて4人の男性経験があったのである。
「処女じゃないもん」と本当のことを言っても彼は信じてくれない。
「本当なんだから」と思わず泣いてしまうと、
「わかった。わかった。恥ずかしいことではないのに」と彼はやさしく女を抱きしめる。
このとき彼女は長いこと患(わずら)っていた男性恐怖症が治ったことを知る。
金持の彼は(彼の心のなかでは)清純な彼女にプロポーズして結婚する。
彼は死ぬまで嫁は処女だったと信じていた。
彼女のほうも嘘はついておらず、しかも元彼は貧乏だったから(愛は金ではないが!)、
自分をこんなに大切にしてくれるいまの主人に出逢えてよかったと神さまに感謝した。

自画自賛するとものすごいうまいエピソードではないか。
なにが善でなにが悪か、なにが本当でなにが嘘か――がわからなくなる説話だ。
悪(元彼のDV→別離)が善(幸福な結婚)になっているのもおもしろいでしょう。
結局、「真理」とは、ある人間が心底から真理であると信じたことが「真理」になる。
元彼は彼女のことを心中でヤリマンのアバズレと信じたから女を殴った。
いまの旦那は彼女のことを聖女のような女性と心底から信じたから、
結果として幸福な結婚生活を送ることができた。
阿頼耶識(あらやしき)説とは、心がすべて決めているという発想のことなのだろう。
ひろさちや氏はまた別の例を出していて、これもまたおもしろい。
プールに人が飛び込んだときの音である。
英語ではスプラッシュと言うらしく、日本ならまあザブンくらいではないか。
どうしておなじ音なのにイギリス人と日本人では別の音に聞こえるのだろう。
ニワトリりの「コケコッコー」は英語では「コッカドゥドルドゥー」、
ドイツ語では「キケリキ」、フランス語では「ココリコ」、中国語では「オオオオオ」らしい。
おなじ音なのに複数の人間がまったく別の音として聞いているのである。
では、どれが真実のニワトリの鳴き声(絶対的真理)かといえば、
ふたつの回答例があるだろう。
1.それぞれ聞いたニワトリの鳴き声のすべてがそれぞれ真実(相対的真理)である。
2.本当のニワトリの鳴き声(絶対的真理)はだれにもわからない。

☆Aの心中(相対的真理)←?(絶対的真理)?→Bの心中(相対的真理)
☆絶対的真理=「Aの真理≠Bの真理≠Cの真理≠Dの真理≠Eの真理」


先ほどの女のたとえに話を戻すと、彼女はつごう5人の男性と交際し結婚した。
彼女(絶対的真理)はひとりだが、
5人の男の心中にはそれぞれ異なる彼女がいるということになろう。
脱線すると恩師である特殊映画監督の原一男先生が、
この原理を映像化すべく「またの日の知華」という作品を発表している。
世間的にはほとんど評価されず弟子のわたしがどう好意的に観てもつまらなかった。
「本当のこと」というのは表現してしまうとあまりおもしろくないのかもしれない。
原一男監督はドキュメンタリー映画での評価が高いが、
作品はすべてフィクション(嘘/やらせ)だとおっしゃっていたのを懐かしく思い出す。
仏教に戻ると、ひろさちや先生は難解な阿頼耶識説を簡潔にまとめている。
何度も繰り返してしつこいかもしれないが、この人はあたまがいいよ。

「さて「阿頼耶識(あらやしき)説」というのは、簡単にいえば、
「われわれは、自分が認識しようと思う対象世界を自分でつくりあげて、
それを認識しているのだ」ということである。
日本人は、にわとりの鳴き声を「コケコッコー」にしておいて、
そしてその「コケコッコー」を聞くわけだ。
フランス人は「ココリコ」という鳴き声をつくっておいて、そしてその「ココリコ」を聞く。
つまり、人間は自分でにわとりの鳴き声をつくり、
そのつくった鳴き声を聞いているのである。
それが「阿頼耶識説」が言っていることである。
要点をいえば、それだけのことである。そんなにむずかしいことはない」(P290)


わたしは念仏(南無阿弥陀仏)も題目(南無妙法蓮華経)もどちらも「正しい」と思っている。
どちらかと言えば念仏のほうが好きだが(法然や親鸞のではなく一遍の踊り念仏!)、
日に何度か題目を唱えることに少なくとも拒否感は示さない。
もしかしたら釈迦(釈尊)の教えというのも、ニワトリの鳴き声みたいなものではないか。

☆日本人(コケコッコー)←ニワトリの鳴き声→フランス人(ココリコ)
☆大乗仏教←釈迦の教え→小乗仏教
☆法然(南無阿弥陀仏)←?「絶対的真理」?→日蓮(南無妙法蓮華経)


ものすごい「本当のこと」を書いてしまったような気もするが、おもしろいですか?

(C)後期大乗仏教(密教)

人間は基本的に他人の考えになど興味を持たないものだし、
有名人の文章だって読んでもらえないのだから、
ここまでお読みくださった方にまず感謝します。
あたまのいい人には繰り返しがうざいでしょうが、
このブログ記事は偏差値40の高校生でも理解できることを目指して書いているので、
いままでのところをおさらい(復習)したい。
大乗仏教は「この世(俗世間)」ならぬ「真理の世界(仏国土)」を創造した。
龍樹がその世界観を、ひと言でまとめれば「空(くう)」となる哲学として学問化した。
空(くう)は言語化できない世界だから、凡夫は「真理の世界」と切れてしまった。
そこで世親・無着は外に「真理の世界」があるのではなく、
内(心)に「真理の世界」に分け入るゼンマイ(仏性)があるのではないかと考えた。
これが仏教心理学とも言われる唯識(ゆいしき)思想である。

☆小乗仏教=「この世(ビジョン、ルール、マナー)」
☆大乗仏教=「真理の世界(絶対世界)|この世(相対世界)」
☆大乗経典(法華経、浄土教典等)=「真理の世界」→仏→「この世(俗世間)」
☆龍樹=「空(絶対/無言語)|仮(相対/善悪、正邪、美醜、貧富、苦楽)」
☆唯識思想=「この世=心(仏性)」→仏性→「真理の世界」


では、密教とはなにかというと先に結論めいたものを書いてしまうとこうなる。
これから以下のことを説明していくことになるわけだ。

☆密教→「私(身口意/相対)」=「仏(絶対真理)」

荒っぽい言い方をすると、仏教は3つのパターンしかないとも言えよう。
1.仏さまに救ってもらう(仏→私)。
2.仏に私が近づく(私→仏)
3.私が仏であることに気づく(私=仏)
で、密教は3に当てはまるのだが、まず密教は仏教かという問題があるらしい。
というのも、密教はヒンドゥー教と言ってもいいくらい釈迦から離れている。
ヒンドゥーの哲学では梵我一如(ぼんがいちにょ←忘れてください)を理想とするが、
密教修行者が求めているのもおなじ(梵我一如)状態だからである。
密教サイドは、密教以外を顕教(けんぎょう)としている。
つまり、密教は仏教にふくまれるのではなく(同類にされたら、かなわん!)、
優れた密教と劣った顕教に分かれると主張しているのだ。
まあ、大乗仏教が釈迦仏教を小乗仏教とバカにしたのとおなじわけよ。
ここだけの話、仏教ってさ、優劣にこだわるお子さまめいたところがあるわな。
密教サイドの言い分としては――。

×「仏教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教、密教)」
○「密教|顕教(釈迦、小乗仏教、大乗仏教)」


わたしから言わせたら、密教も仏教の一派としていいような気がする。
あんがいもっとも釈迦(釈尊)の悟りに近いのが密教かもしれない。
もうすぐ仏教の消滅の話をすることになるのだが、最初に話を戻そう。
釈迦はいったいなにを悟ったのか。
釈迦は阿弥陀仏に救われたわけでも、法華経を読んで人間革命したわけでもない(笑)。
みなさまはそれほど注意を向けないが、釈迦というのは金持のボンボンだったのである。
いまの創価学会の池田大作さんよりも贅沢ざんまいの生活を
子どものころから送っていたわけだよ。なにひとつ不自由のない状態。
唯一の不幸は母親に先立たれたくらいか。
ああ、そうか、マーヤ夫人は釈迦を産んですぐに死んでいるけれど、
これは釈迦を産まなかったら死ななかったとも言えるわけか。
とすると、釈迦には母親を殺したような原罪意識があったのかもしれないが、
それはここでは忘れておく。
実際、マーヤの妹が母親代わりを務めたっていうし、
そこまで母性に飢えていたとも思えない。
ともあれ、釈迦というのは我われ庶民が見たら、
嫉妬で胸を焼き焦がしてもいいくらい恵まれた環境にいたことを忘れないでくれってこと。
小さいころから大勢のものにかしずかれ、優秀な家庭教師から英才教育を受けた。
ほしいものはなんでも手に入ったし、口にするものは美食ばかりだったと思われる。
きれいな奥さんをもらっているし、丈夫な子どもをさずかっている。
おそらく美少女から床上手の熟女まで複数の愛人がいたことだろう。
おまえら底辺(ブログ読者さまを勝手に決めつけるな!)が知ったら、
生きていくのがいやになるくらい釈迦は恵まれていたのである。
いまで言えば、有名人や権力者の子どものようなものである。
ひねくれた根性の持ち主になるのは貧乏人の子どもと決まっており(失礼!)、
釈迦はとてもあたまのいい性格もすばらしいやつだったと思うんだ。
では、なぜ釈迦は妻子を捨てて出家したのか?

1.死への不安(公式見解)。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
1を支持するものは多く、意味は知らなくていいけれど(まあご存じか)
四門出遊(しもんしゅつゆう)のエピソードなんかもそれを裏付けている。
でもさ、絶対にあったと思うんだなあ。
快楽にも幸福にも飽き飽きしたぜっていう、どこか世の中を舐めくさった態度が。
有名人の子どもだからチヤホヤされているけれど、
おれっていったいなに? みたいな(笑)。
それでさあ、乞食みたいな格好をして娑婆(しゃば)世界に出てみたら、
きっとおもしろかったって思うんだ。
いままでお城のなかにいたから世間知らずだったわけでしょう?
え? こんなに貧乏な人がいるの? とか、まじビビったって思う。
うわあ、クッソ性格の悪いやつがいるんだなあ。ちょーおもしれえぜ。
どうしてこいつらは、こんなにも根性がゆがんでいるんだろうと大笑いした日もあった。
釈迦はいままで高級グルメしか口にしたことがなかったけれど、
貧しい庶民ががつがつ食っているものを恐るおそる真似して食べてみたら、
貴族出身、王族出身のお釈迦さまは驚いた。
こんなもん食ったことねえが、これはこれでうめえじゃないか、こんちくしょっ!
高級料亭しか行ったことのないものが立ち飲み屋に行ったようなもんだ。
世間知らずの釈迦青年はいろんな人やいろんなものに、きっと感激もしたはずである。
夕陽を見ながら出家してよかったと涙ぐんだ日もかならずやあったはずである。
それにしても、だ。それにしても、どうして人間はこんなにも不公平なんだろう?
どうしてこんなにあたまの悪い人がいるのか?
なにゆえこうまで病弱な人や貧乏な人がいるのか?
いままでスーパー幸福だった釈迦だからこそ深奥からこの問いにとりつかれたはずだ。
なんで自分はこうまで恵まれてきたのに、
反対にこうまで恵まれないかわいそうな人がいったいどうしてこんなに大勢いるのか。
おそらく釈迦は自分を罰したいような気分になったのだろう。
だから、インチキくさい修行者の真似をして苦行とやらを徹底的にやってみた。

原点にもう一度返ろう。なぜ釈迦王子は出家したのだったか。
1.死への不安。
2.あ~あ、快楽や幸福にも飽きちゃったよ、あはっ。
で、世にもまれながら釈迦は35歳にしてガヤーの樹の下でなにを悟ったのか。
1.無限にも近い過去世の業(宿業)の結果としていまの自分があること。
2.苦悩は快楽である。悪しき状態は善き状態である。不幸は幸福である。
釈迦がいちばん最初に悟ったのは、宿業だというのは本当だから。
証拠として以下にふたつ挙げておく。
「仏伝」(中村元訳/「原始仏典」筑摩書房)
「仏伝」(桜部建・雲井昭善編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

釈迦は自分の悟った真理を人に教えるのは無理だと思った。
しかし、これは伝説なのだが、
インドの神であるインドラがわざわざやって来て教えを広めてくれと釈迦に依願した。
どうしてインドの神が来るかといったら、当時は仏教なんてなかったのだから(笑)。
インドラ神「どうかお釈迦さまが悟った真理をおひろめください」
釈迦「いやあ、無理っすよ、無理無理。いくら神さまだからって、無茶言わんでください」
インドラ神「そこをなんとか」
釈迦「ぶっちゃけ無理だし、めんどくさいっす」
インドラ神「弟子に囲まれると気分がいいですよ」
釈迦「おれ、孤独、嫌いじゃないし」
インドラ神「下手(したて)に出たら調子に乗りやがって。いますぐ雷を落として殺すぞ!」
釈迦「もう悟っちゃったからいいよ。どうぞお気に召すまま。お任せしまっす♪」
インドラ神「ちぇっ(煮ても焼いても食えねえやつだな)」

釈迦の悟った真理のひとつは、
無限の過去世の業の結果としていまの自分があること。
だとしたら、いまこの場で落雷により死んだとしても、
またかならず生まれ変わってくるわけでしょ? 
だから、いくらインドラ神が(創価学会青年幹部お得意の)恫喝をしても動じなかった。
しかし、実際に釈迦が悟った真理を教えられないというのは事実でしょう?
宿命や宿業があるというのは教えるというよりも自分で納得するものだから。
貧乏人や病人が「それは宿命よ!」なんて言われても、ふざけんなって話で。
これは金持のボンボンである釈迦が多少、世の辛酸を舐めて悟った真理だ。
金持があまたの貧乏人を見て「どうして?」と自問し続けた結論である。
そのうえ釈迦は苦行(乞食修業)をしたって言うけれど、ほかの連中とは違う。
なにより彼には帰る家があったのである。
釈迦は悟りによって「死への不安」を克服した。
もうひとつこのとき釈迦の悟った絶対的真理が密教の教えだと思うのである。

当方はあらゆる仏道修業をひとつもしたことがないし、
これからもする気はないからわからんが、
密教は絶対体験を重んじるような気がする。
釈迦は王子であったときに快楽の極限を味わった。
そして、粘り強く苦行をした結果、なーんだ、苦も楽もおなじではないかと悟った。
とはいえ、苦しみも楽しみも同一という絶対境地は体験してみないとわからない。
なぜなら、言葉は相対しか説明できないのだから(龍樹!)。
苦とは楽がない状態で、楽とは苦がない状態なのだと言うほかない。
しかし、釈迦は快楽も苦悩もたっぷり体験して「苦=楽」という絶対的真理を得た。
俗っぽい話をすると、マゾがさ、「ああーん、逝(い)っちゃう」みたいなものよ。
釈迦が悟った絶対的真理は、正反対は極限で通じているという実感なのだろう。
この絶対的真理は言葉(=相対)では伝えられず本人が体験するしかない。
というのも、貧乏人はさあ、快楽の極限なんて味わえないわけでしょう。
釈迦はたまたま王族として生まれたから苦楽の極限を、
どちらとも体験できたわけだから。
ふだんサンマの刺身をたまに食って「うまい、うまい」と言っているものが
1週間カップラーメンだけで過ごして、
その後に銀座に行って最高級のマグロの中トロを口にしたら大感激でしょう。
サンマの刺身もマグロの中トロもまったく同一にうまい(=空=諸法実相)とは、
とてもじゃないけれど思えないってわけ。

絶対的真理はおのおのが絶対体験をして、
それぞれ冷暖自知(れいだんじち)するしかない。
難しい言葉を使っちゃってごめんなさい。
いちおう絶対的真理を、相対の言葉で説明することもできなくはないわけだ。
やってみましょうか。善は善ではなく、悪は悪ではなく、大善は大悪である。
相対(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は絶対(空)である。
諸法(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は実相(絶対的真理)である。
私(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)は仏(絶対的真理)である。
私(煩悩/欲望)は仏(菩薩)である。
生きている私(地獄、修羅、餓鬼)は仏(最高)である。
人間(相対的存在)は死なない(仏=絶対的存在)。
仏(絶対的真理)をまえにしたら善も悪もない(=善悪は相対的真理に過ぎぬ)。
大地震や大津波(自然=絶対)が起きたら善人も悪人も分けへだてなく死ぬ。
死(絶対的真理)をまえにしたら、
あらゆること(善悪、美醜、正邪、貧富、苦楽)がどうでもよくなる。
あれこれ迷う(善悪、正邪)ことのなかに悟り(死)がある。
生き方に善悪や正誤はなく、人間はどう生きてもいい。
絶対的真理(死)はわからない(=言葉では説明できない)。
いくら言葉を簡潔にしても反対に華美にしても、
絶対的真理は絶対体験とセットになっているから言葉では伝わらない。

絶対体験というのは、言葉にならない体験のことである。
ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
たとえばさ、ちょっと目を離した隙に幼児がベランダから落ちて死んだ母親とか。
目のまえの横断歩道で子どもがダンプカーに轢き殺された父親もそうだな。
家族に目のまえで自殺されるとか、そういうのも絶対体験だろう。
なぜか子どもが3人連続して障害を持って生まれてくるのも絶対体験だろう。
絶対に死ぬと思って電車に飛び込んだら下半身切断で生き残るのも絶対体験。
反対に電車に飛び込んだのに無傷だったというのも絶対体験になろう。
そんな大げさなものばかりではなく、落葉を見て絶対体験をするものもいよう。
発狂するというのは、言語化できないから狂うわけで、
そういう意味ではありふれた精神病患者も絶対体験をしているのかもしれない。
絶対(空=死)をまざまざと見てしまうと人は狂うしかないのかもしれない。

しつこいが絶対体験とは、ウギャアアアアアとしか叫ぶしかない体験のこと。
お坊さんのなかには、この絶対体験をしたくて修行する人もいよう。
まあ、意地悪を言えば、大半はそんなものはどうでもよくなり堕落するのだが。
そして、堕落するのが悪いわけではなく、
わざわざ自分から絶対体験なんか求めなくてもいいと言えなくもない。
まあ、小金を貯めてバンジージャンプでもしたら、
軽い悟りくらいなら得られるかもしれないわけだしね。
しかし、絶対体験を味わったほうがいいとか上質とか、とても言えない。
まあまあテレビでも見ながら、あいつは悪人だ、あの人は善人よ、
なんて家族と喧嘩しながら、
「おれ(あたし)は絶対に間違っていない」と口癖のように言いつつ、
そのくせ社会人としては波風を立てない平凡な人生を送り、
ある日病気になって「自分の人生はこれでよかった」「我が人生に悔いなし」
なんてかな~り強引に無理やり力尽くでごまかしながら
平均寿命をまっとうするのがいちばんかもしれない。
なぜならだれしもが最後は絶対体験(臨終、死去、往生)をするのだから。

☆大乗仏教(顕教)→「真理の世界(仏の世界)|この世(俗世間)」
☆密教→「私(善悪、正邪、苦楽/相対)=仏(空/絶対)」
☆密教修行=ウギャアアアアアと叫ぶしかない体験


日本の真言密教は変なサンスクリット語の秘密めいた呪文を好むけれど、
あれの意味は「ウギャアアアアア」と言ってもいいのではないか。
「ウギャアアアアア」は言葉にならないから「ウギャアアアアア」なのであって、
各自それぞれ体験してもらうほかなく、それでも本人の器量しだいというところもあり、
偶然にも思える「とき」の到来も強く関係していそうだから、
むしろ絶対体験なんか経て、
変に社会的に逸脱した人間になるのがいいかはわからない。
「正しい」ことがわからなくなった状態が「ウギャアアアアア」だからさ。
なにが「正しい」のかなにが「善」でなにが「悪」なのかわからなくなるのが絶対体験。
そして、絶対的真理はたぶん「わからない」ということ。
なにもかもが心底「わからない」人が絶対智者であるというこのパラドックス(矛盾)。
正義も善悪も死後のこともまるで「わからないこと」をどこまでわかっているか。
ソクラテスの「無知の知」は矛盾しているけれど、あれが絶対的真理とも言えよう。
ちなみに、ひろさちや先生も絶対体験をお持ちである。
ひろさんは2000年に1億数千万円(7千万?)の空き巣被害に遭っている。
なんでも空き巣被害額の最高記録だとか。
いち夜にして1億数千万円を失うなんて、これを絶対体験と言わずしてなんと言うか。
みなさんはひろ先生のことなんてバカにしていてご本をお読みにならないでしょうが、
2000年以後の氏の本は「現代の一休さん」と称賛したいくらい、
ご主張が過激になっていてとてもおもしろい。
本書出版時(87年)にはたぶんまだよく密教をわかっていなかった気がするけれど、
いまのひろさちや先生はどこぞの真言宗坊主などよりよほど
「ウギャアアアアア(=密教)」を理解しているに違いないとわたしは思う。
絶対体験(盗難被害)は偶然に見えるが必然なのである。

☆密教(仏教)=「偶然(相対世界の現象)は必然(絶対不可避)と知ること」

ひろ氏の言葉も拾っておこう。
真言宗(密教)では最初に信者は「投華得仏(とうけとくぶつ)」の儀式をするという。
曼荼羅(まんだら)という仏さまがいっぱい描かれた大きな絵がある。
そこに目隠しをして(覆面や背を向ける場合もある)花を投げるそうだ。
そのときたまたま花が落ちた尊像が、その人にとっての「ほとけ」になる。
密教では「仏、菩薩、明王、諸天諸神」がみな「ほとけ」とみなされる。
偶然にたまたま花が落ちた「ほとけ」を彼(女)は一生のあいだおがむ。

「これが「投華得仏」である。
このやり方は、つまりは、わたしがほとけを選ぶのではなしに、
ほとけのほうからわたしを選んでいただくやり方である。
わたしは目隠しされているから、わたしにとってはそのほとけとの出会いは偶然である。
わたしが選んだわけではない。
とすれば、ほとけがわたしを選ばれたことになる。
わたしには偶然だが、ほとけのほうでは必然としてわたしを選んでくださったのである。
それが密教の考え方である。
つまり、そこには、ほとけのほうからの「加」がある。
ほとけの側からの働きかけがある。わたしは、
それを「持(たも)」てばよいのである。それが「加持(かじ)」だ。
偶然の出会いを必然化して行く――。それが、信仰である」(P373)


☆絶対体験→「偶然=必然、善=悪、男=女、聖=俗、損=得、生=死、空(くう)」

意外と知られていないのか、知られているのか、仏教はインドでは消滅している。
ことさら理由などなく偶然(必然)だったのだろうが、
歴史教科書的にはイスラム教徒が攻め込んできたから、ということになっている。
ほらさあ、イスラム教は自分たちが絶対正義の怖い人たちなわけでしょ?
仏教はセックス依存症だった龍樹が空(くう)とか言い出しちゃったから、
そりゃあイスラム教には勝てないわなあ。
空(くう)には正義も善悪も損得もないわけだから、弱いっちゃあ弱いよ。
さらにこれは仏教が残った日本と比較してなんだけれど、
結局インドでは学問仏教どまりで民衆化しなかったからという説も読んだことがある。
わたしがバカだからバカにもわかってほしいとこの記事を書いたけれども、
それでもやはり仏教は難しいでしょう。
ヒンドゥー教は現世利益の宗教で、願えばかなう系だから庶民にもわかりやすい。
いちおうヒンドゥー教も難しいことを言えば、
輪廻(りんね)からの解脱を目指しているらしいけれど、インドへ行ってごらんなさい。
教義には解脱とか母なるガンガー(ガンジス河)とかいろいろ聖性はあるけれど、
大半のインド人が解脱なんかより現世利益を求めているのは見ればわかるの世界。
ヒンドゥー教のサドゥー(修行者)は変なやつがいっぱいいて
日本の坊さんなんかより絶対おもしろいから、そこからも難解な仏教が、
傑作でおもしろいヒンドゥー教に負けた理由が推し量られよう。

日本仏教界も法然と日蓮が出なかったらたぶん終わっていたような気がする。
法然は難解な仏教を長年勉強した結果、
「南無阿弥陀仏」という一語で救われるとかめちゃくちゃを言い出したわけで。
その法然に嫉妬して、彼が貴族にも評価されていたのを恨んだのが日蓮。
日蓮大聖人さまは大嫌いな法然を模倣して、
「南無妙法蓮華経」で救われると説いた。
念仏(南無阿弥陀仏)とか題目(南無妙法蓮華経)はとにかくイージーじゃん。
バカでもチョンでもアホでもマヌケでも念仏や題目は唱えられるっしょ。
日本では現在のところ創価学会が大勝利したわけだが、あれも現世利益でね。
南無阿弥陀仏は、悪いことをしてもいいという教えが庶民に受けたわけで。
曹洞宗とかも信徒がけっこういるらしいけれど、
あれはお寺としては葬式タレント養成所だからさあ。
とりあえず死を直視したらげんなりするから、
そこは坊さんに隠しておいてもらおうっていう庶民の打算が働いただけで。
大学で仏教を研究している人もいるらしいけれど、
科学全盛の時代に無意味なことをよくやるなあと。
論文とか書いているのかもしれないけれど、だれがそんなの読むのって。
同僚くらいしか読まないものをしこしこ書いてなにが楽しいのかしらねえ。
総じて現在の仏教界は既得権益の世界と言えるのかもしれない。
新興宗教だった創価学会もいまは伝統仏教みたいになっていると聞くし。
まあ、お坊さんを消してしまった創価学会が最新最強の仏教と言うこともできなくはない。
日本史上、戦後の「神々のラッシュアワー」以前に、
僧侶(聖職者)と縁を切った仏教団体なんてほかにあったか。
わたしはお坊さんよりもいろいろ親切にしてくれる学会員さんのほうが好きだから、
仏教の正統性も伝統も関係ないねえ。
ところで、わたしは仏教徒なのだろうか?

☆仏教→「真理の世界=わからない|世間(善悪、損得、正邪、優劣、自他)=わける」

*最後までお読みくださり本当にありがとうございます。

COMMENT

osa URL @
02/08 05:16
読ませていただきました。. 心理学(河合隼雄)と禅仏教に興味のある66歳です。読ませていただいて、本質を見抜き本音で書かれいるところにとても感銘を受けました。それで「ああ、そういうところが確かにあるな」といくつも眼を開かされました。ありがとうございました。ところで曹洞宗道元には「正法眼蔵」という著作もありますが、その流れをくむ老師の法話がユーチューブにあります。ぜひ一度ご覧になられたら仏教関連がさらにおもしろくなられるのではと思います。「井上哲玄老師 一泊禅会 2016年12月18日:https://www.youtube.com/watch?v=LY4ScnsitZ8&index=13&list=FLDHZRj8WQzBiGRq5UgQKC5w」お勧めしたいのは哲玄老師の話ではなくて、少ししてカセットデッキで流される井上義衍の法話です。
Yonda? URL @
02/08 15:21
osaさんへ. 

こんな長文記事を最後までお読みくださりありがとうございます。自分でも読み直してみました。うへえ、と思いました。思いっきり自画自賛ですが、2015年段階でここまで到達しているんですね。この先どうなるんだというくらい。この記事にお目をつけたとはosaさんはご見識が高い(さらに自画自賛)。いいこと書いているなあオレ、うっとり。おれすげえ。おれのすごさに気づいたosaさんもえれえ。

井上義衍の法話は、ごめんなさい。5分が限界でした。若僧にはおもしろくありませんでしたが、きっと深い智慧が語られているのでしょう。曹洞宗は鉄拳制裁で有名なところですよね。世を舐めたところのあるわたしは一度坊主に囲まれてリンチされたほうがいいのかもしれません。








 

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