「棺に跨がる」

「棺に跨がる」(西村賢太/文藝春秋)

→純文学と大衆文学の違いっていうのは、
新しい世界(言葉)をつくっているかどうかなのだと思う。
世界というのは、言葉でできているから、
新しい言葉を知るというのは世界が変わるということなのね。
おおっと、こういう世界や人の見方があったのかという驚きのあるのが純文学。
善とか悪とか、正義とか犯罪とか、人情とか、
手垢(てあか)のついたものを現代風に設定を変えて再生産したのが大衆文学。
たとえばさ、こういう人間が「いい」みたいなお決まりがあるじゃないですか。
男ならイケメンでバリバリ仕事をして、そのうえウィットがきいていて、
家族思いのものがいい、みたいな。
女の理想像みたいのは、やっぱり美人が「いい」みたいのがあるわけで。
そういうのに対して、こういう女性の魅力もあるんだよ、
という新しい女性像を描いているから西村賢太はまだ純文学なのだと思う。

「北町貫多に肋骨を蹴折られて以降、
秋恵が平生放つ雰囲気は、何やら一変したようである。
もとより、さのみ快活でもない、どちらかと云えば物静かな質であり、
見るからに大人しそうな――ラッシュ時の埼京線の中にでも放り込めば、
確実に痴漢の餌食にされそうなタイプの女ではあったが、
それでも気を許した相手には普通に饒舌をふるえば軽口も叩く、
極めて当たり前のコミュニケーション能力は発揮していたものだった」(P47)


沿線に住んでいるけれど、ラッシュ時の埼京線は地獄よ。
あれだけは馴れることがない。結局は言葉という話だったか。
九州や北海道の人が埼京線って聞いてもわからないという話はそうなんだけれど、
よく痴漢されそうな女性の魅力みたいなものを西村賢太は発見しているわけ。
新たな価値を創造しているといってもよい。
だけど、いま思ったけれど、みんなけっこうふつうの人も創造しているとは言える。
だって、結婚している人が多いじゃん。
それぞれ相手に新たな魅力を発見しているとも言えるわけでしょう。
この人の魅力はわたしだけが知っている、みたいなさ。
他人から見たらありふれた男女にもかかわらず、よくまあやるもんだと。
話を小説に戻すと、カップルや夫婦はそれぞれこんなことを考えているのかもしれない。
いや、女は違うのだろうが、男はこういうロマンチストなところがある。
そこを西村賢太はうまく言語化している。

「どんなことがあっても、この女は自分から離れることはない、
との自信は、これまで頻々と行なってきた暴力や暴言後の、
先に述べたような展開の様子で一種裏付けめいたものを得続けていたが、
またそれとは別に、根が限りなくロマンチストにできている彼は、
結句(けっく)彼女と自分とは、
心の奥底に抱えている孤独がどこまでも共通するものであり、
どうで彼我は出会うべくして出会い、共鳴するべくして共鳴し合った、
いわば運命に導かれた二人であると信じきっているところがあった」(P48)


男ってみんな甘ちゃんなんだよねえ。女に勝てるはずなんかない。
小説の設定だが、北町貫多(西村賢太)も同棲相手の秋恵によくやるなあ。
彼女がカツカレーを作ってくれ、それを平らげているところを「豚みたい」
と言われた男はぶち切れて女を殴る蹴るで肋骨をへし折ったという。
秋恵はさ、トンカツとかお惣菜で買ってくるんじゃなくて、自分で揚げるわけよ。
カレーもむろんレトルトではなく手づくり。
いまどきそんなに尽してくれる彼女はいるのかな。
いや、いるかもしれないけれど西村賢太レベルで(失礼!)。
まあ、小説だから嘘だから。

人からつくってもらった料理ってなんとも感想が言いにくいよね。
外食や惣菜と違って、つくった人の顔が味に影響しちゃう。
編集者だってそうで、「新人」の小説には好き勝手を言えるだろうけれど、
中堅どころともなれば小説の「正しい」客観的な感想なんて言えないと思う。
小説家になりたかったら井上靖がやったように、編集者を接待すればいいのかも。
あるいは先に贈り物を渡したり、裏金や利権をプレゼントしておく。
客観的な小説の感想なんて、だれにも言えないと思う。
料理もそうだけれどって、カレーから話が飛んだのか。
西村家では本当かどうか知らんが、
カレーをつくると翌日のために(味を変えるために)ツナ缶を入れるらしい。
おえっ、きんもっ、って話だが、賢太によると、これは由緒正しき江戸川カレー。
まあ、貫多の同棲相手の女性も気持が悪いというようなことを言って、
せっかくわざわざ彼女のためにカレーをつくってあげた男を怒らせるわけだが。
江戸川カレーもそうだが、家庭料理は母親対決のようなところがある。
ツナ缶入りの江戸川カレーを否定された貫多は、
母親の味を侮辱されたような気がしたことだろう。
以下は結局、男が女に求めているものは母性であることがよくわかる。
女の肋骨をサッカーボールキックでへし折った男は彼女のためにカレーをつくる。
ある願いを込めて、である。

「これを口に運び、咀嚼し、嚥下してくれたなら、
向後二人の食卓には再びカレーも並べられることであろう。
そしてその頻度が増える毎には、例の忌わしき記憶の方も薄まって、
代わりに彼女の従来の寛容が復活してくれることであろう。
そして更には彼女独特のあたたかな母性も蘇えり、
ひねくれ者の凍える心の彼を包み、
その存在をまた全肯定してくれることであろう。
それはきっと、そうなることに違いあるまい」(P100)


まあ、そうならないのがおもしろいのだが。
男のつくったカレーは肉が多くて豚くさいと女はいやな顔をする。
いやはや、男と女は難しいっすねえ。
さらにはツナ缶を入れる江戸川カレーでさらなるさらなる闘争に入る。
江戸川カレーの存在自体が純文学だよなあ。
カレーってほんと家によっていろいろ味が変わりそうだ。
カレーチェーン店のココイチはだれにも嫌われない味を目指したっていうけれど、
それは大衆文学の世界で純文学は江戸川カレーである。
聡明な美人がヒロインになるのが大衆文学ならば、
ラッシュの埼京線にぶち込んだら真っ先に痴漢されそうなのが純文学の女性像。
ポークカレーにツナ缶ってどんな味がするのだろう。

おれもけっこう料理をするとき、お決まりを破るほうなのね。
料理するときにレシピを守る人と、命がけで(はあ?)逆らうバカにわかれるよねえ。
料理なんてレシピどおりにつくっても、
みんなおなじになってつまらないだけだと思うけれども、だがしかし、
そうは口では言っても我輩の口は江戸川カレーを受けつけないような気がする。
秋恵ちゃんのカツカレーなら豚のように食うけれど。
しかし、カツカレーっておかしくない?
カツはカツでカレーはカレーで食うのがうちの流儀だったから。
今度やってみたいのは、ちくわぶカレー。
おれはこってりしたカレーが好みで、
それにいくらカレーとはいえ酒のつまみにしたいから、
けれどうどんにかけちゃったら単なるカレーうどんになってしまうので、
そこでそこでおつまみのちくわぶカレーって話。
荒川カレーとか命名して編集者にご馳走したらデビューできないかな――って無理無理。
それ、とってもとってもまずそうだもん。
ああ、いい小説でしたよ。

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