「インド仏教思想史 上巻」

「インド仏教思想史 上巻」(ひろさちや/大法輪閣) *再読

→本書は、ひろさちや仏教学(笑)の基礎としてある本である。
87年に出版された氏としては固めの部類に入る本だが、
9年ぶりに読み返してみたら充分に再読に堪える。
というか、いまさらだが、ひろさちや先生は本物の天才ではなかろうか?
たとえアカデミズム(学問世界)からまったく評価されていなくても、この人、すごいよ!
本書はのちのライトエッセイの根っこともなった仏教思想がわかりやすく説明されている。
9年まえに読んだときはあまりよくわからなかったから、
こちらも成長(劣化?)したのだろう。
以下に要点をまとめるが、仏教に興味がない人にはどうでもいいかもしれない。

ひろさちやさんはあまたがよすぎるというか釈迦の間違いに気づいている。
ほら、釈迦の説いたっていう四諦ってやつがあるじゃない。
滅諦とかいわれている、原因があって結果があるという真理っぽいやつ。
あれは嘘じゃないかって、釈迦の教えを批判しているが、まったくそうだ。
ひろさんはこういう説明をしている。
風が吹いて葉が落ちるという現象がある。
しかし、風が吹かなくても葉は落ちるときがあるだろうって。
木を揺らしても葉は落ちるし、原因をなくしても結果は変わらないじゃないかという。
これは晩年のひろ氏がやたら主張していることだが、むしろ原因なんかないと。
「原因はわからない」というのが真理で釈迦の四諦(滅諦)は間違っている。
釈迦が間違っていると考えられるのも、間違いに気づいたことを指摘するのも、
ひろさちや先生はすごすぎるぜ! クルクルパーか天才だって、この人!
考えてみたら「原因→結果」って嘘くさいんだよね。
でもそれには人間は耐えきれないから、
なーんかいいことないかなあ、と善人ぶるわけだが。
善人ぶっていたらそう悪いことは起きないだろう、とか信じている(笑)。
原因なんかわからないのに原因を除去したら悪い結果から逃れられると信じている。
うさんくさい健康食品とか飲んでも飲まなくても変わらないのにさ。

ひろさんがよく書いていることだけれど、キリストはキリスト教徒じゃないって本当だよね。
キリストはユダヤ教徒であったという。
おなじように釈迦は仏教徒ではなかったというのも本当である。
釈迦は当時主流のバラモン教の修行者のひとりで新しい発見をした人って感じかな。
釈迦に二代目がいないというのも、まったくそうだと思う。
キリスト教も仏教も新興宗教だったのだが、どちらも二代目がいないのである。
この点、二代目、三代目(ヤクザみたいだな)と続いた創価学会がいかにすごいかだ。
ひろ先生は創価学会はお気に召さないようだけれど。
みなさん釈迦の教えを重んじるけれど、
最初期のお経「阿含経」だって釈迦の死後100~200年経っているという。
そんな時間が経過すれば釈迦の教えなんか残っているわけないだろうし、
そういう意味からしたら、
学者が重んじる「阿含経」も大乗仏典もクソ味噌いっしょだろう、
というとても上品な指摘はそうとも言えなくはない。
仏教っていちおう成仏するための教えだけれども、
だれも釈迦になれないだろう? というのは真実である。
あなたはあなたなんだから、釈迦になれるはずがない。
死んだらみんな「ほとけ」になるというのもひとつの真実である。
釈迦仏教は煩悩(欲望)否定だから「自殺のすすめ」だろう、というのもまったく同感。

提婆達多(ダイバダッタ)って釈迦を殺そうとした悪いやつだって伝説があるけれど、
あれは嘘らしいね。ダイバダッタは釈迦の弟子のなかの一派だった。
みんなで会議しようってときに(第一結集)、
教えなんてそれぞれでいいだろうと参加しなかったら裏切り者あつかいされた。
ひろさちや先生の言葉にどれほど権威があるかわからないけれど引用してみる。
ひろさんはダイバダッタではなくデーヴァダッタと表記しているね。

「かくてデーヴァダッタには、「裏切り者」の汚名がきせられ、
「叛逆者の烙印(らくいん)が押されることになった。
彼は釈尊に叛逆し、教団の乗っ取りを策謀し、ついには釈尊を殺害せんとした。
そのため、デーヴァダッタは生きながら地獄に堕ちた――。
そんな伝説がデッチあげられたのである。
まったくの嘘っぱちである。
それが根も葉もないデマであることは、紀元後四世紀
――つまり、デーヴァダッタの時代から七、八百年の後世――
法顕三蔵がインドの舎衛城に行き、
そこでデーヴァダッタの教団(調達の衆)が存在していることを確認している
(『高僧法顕伝』――「大正新修大蔵経」第五十一巻、八六一ページ上)。
また、七世紀にインドを旅行した玄奘三蔵は、
その旅行記『大唐西域記』巻十の「羯羅拏蘇伐剌那(カルナスヴァルナ)国」において、
「別に三伽藍あり、乳酷を口にせず提婆達多(デーヴァダッタ)の遺訓を遵奉している」
(水谷真成訳による)と報告している。
デーヴァダッタの教団が、ずっと後世にまで存続していたのは確実である。
となると、「叛逆者」デーヴァダッタ像は、
明らかにデーヴァダッタの分派行動をこころよく思わなかった主流派が
つくりあげたデマだとわかる。
歴史はいつでも主流派の立場から記述されるから、
鵜呑(うの)みにするととんでもない誤解をしてしまう。注意せねばならない」(P176)


まるで創価学会のようなことを釈迦教団の弟子たちもやっていたんだなあ。
創価学会で叛逆者や裏切り者とされる人ってお人好しなだけだもんね。
悪質なデマを流すというのは、仏教の古くからのお家芸みたいなものなのか。

釈迦が死んで100年で原始仏教教団は分裂してしまう。
根本分裂といわれているやつだが、上座部と大衆部に分かれた。
上座部は古株集団で、大衆部は革新的な多数派だった。
結局のところ、むかしから「正しい」の根拠は「古い」か「多数派」なのがおもしろい。
古いから先輩だから「正しい」(上座部)。
いやいや、数の論理で多数派だから「正しい」(大衆部)。
ああ、そうだ、ひろさんって大学生時代はマルキシストだったらしいね。
いちおう仏教書なのにマルクスの言葉を引用している。

「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。
たいせつなのはそれを変更することである」(P256)


これを小乗仏教と大乗仏教の対比の説明として用いている。
小乗仏教は世界を解釈しているだけではないか。
たいせつなのはそれを変更(改革)することではないか。
火災に遭ったときに、放火犯を推理しても意味がない(小乗仏教)。
火事のただなかでは、どうやって逃げ出すかを考えなければならない。
小乗仏教は「人間(一般)」がどう生きるべきかを説いた。
大乗仏教は「私」がどう生きるかを考える教えである。
このところはまったく共感する。
話を広げると、学問は統計を用いて人間一般のことを論じるでしょう。
でも、あなたはあなたであって、わたしはわたしであって、断じて人間一般ではない。
「私」の生き方は学問(統計)を参考にしてもあまり意味がない。
「私」がどう生きるかを考えるときに役立つのが宗教なのだと思う。
これは河合隼雄も言っているけれど、
「人間一般が生きる」のと「私が生きる」のとではぜんぜん意味が違うのである。
これを混合してやたら平均や人並みを気にした生き方をしている人が多いけれど。
人間一般のことより「私」を重んじるのが本当の宗教なのだ思う。

「私(宗教)」>「人間一般(統計学問)」

「人間一般」よりも「私」のほうが大事というのはある種の真理だけれども、
いくら言葉で説明してもわからない人にはわからないのかもしれない。
あるときふっと自分で気がつくことであって、人から教えられるものではない。
「人間一般」の「正しい」生き方ならあるのかもしれないが、
それは「私」の「正しい」生き方ではなく、「私」のことは「私」が考えるしかない。
しかし、それが面倒くさいし難業だから、
教祖さまのいう「正しい」生き方に従ってしまう人もいるのだろう。
洗脳を他人が言葉で解除するのなんておそらく無理で、
その人が自分で気づくのを待つしかないのだと思う。
それに洗脳されているのがかならずしも「悪い」とは言い切れないわけだから。
下巻でしつこく繰り返されることだが、真理は言葉では伝達できないのだろう。
これは禅の言葉で「不立文字(ふりゅうもんじ)」という「真理」だけれどさ。
仏教を大学で学問するのは「私」が入っていないから意味がないとも言える。
いくら「正しい」仏教を理解(解釈)しても、だからなんだって話で。
「私」が生きるための仏教のほうがよほど重要で、
いまはそういう生きるための仏教は新興宗教のなかにしかないのかもしれない。
ひろさちや先生は新興宗教否定派で、
群れるのではなく「私ひとり」の仏教が大事だという立場を取っているが、
みんながみんな先生のようにあたまがいいわけではないから、これはもう――。

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