「私が愛した池田大作」

「私が愛した池田大作」(矢野絢也/講談社)

→池田大作さんはおもしろいわけだなあ。
こんなことを言ったら学会員さんは怒るだろうけれど、池田さんはなにもない人なんだ。
まず学歴がない。学歴がなくても優れた人はたくさんいるけれど、池田には学がない。
池田の履歴を見たらわかるよう、長年、
創価学会二代目会長・戸田城聖の奴隷をしていたわけだから本を読む時間がない。
そこは戸田大学の生徒だったとごまかしているけれど、
失礼ながら戸田なんて小学校教員程度の知識しかない投機的山師のアル中で、
戸田が池田に教えられることと言ったら「とにかく人生では金がものを言う」
というくらいではなかったかと思われる。
池田大作さんのあたまのなかには金しかないが、
そもそもそ世界なんざ金で動いているんだから、
人間は金だと戸田から徹底的に指導された池田は
もっとも人間らしい人間になったと言うことができよう。
学問なんてアクセサリーみたいなもんで人間が生きていくのにまったく役に立たない。
だったら、そういうアクセサリーは教学部をつくって、そこで部下にやらせたらいい。
部下が書いたものを自分が執筆したことにしてしまえば、教学はそれでおさまる。
毎日を必死の思いで生きている底辺庶民にとっては教学なんてクソみたいなもの。
パッと明るいもの、確信をもって前向きなことを言ってくれる人、
そういう楽観主義のかたまりのような希望を確信した好人物、
しかし同時に人間は結局のところ金だという真実を知った渡世人を、
ある時代の庶民は切実に求めていて、それが池田にぴったり当てはまったのだろう。

むかしの池田先生のカリスマ性はすごかったと側近の矢野絢也も証言している。
矢野は松下幸之助に逢ったとき「偉い人」だとは思ったけれど
「すごい人」とは思わなかったという。
しかし、池田は文句なく「すごい人」に思えたという。
それはマインド・コントロールが抜けたいまもおなじだという。
あんな「すごい人」に逢ったことはない。
わたしも池田さんを「すごい人」ではなかったかと思う。
プラスの大きい人というのは、マイナスも大きい。
ちっぽけな悪もできないような人間はみみっちい善しかできないものである。
池田さんは自分の敵を暗殺させるくらいなんとも思っていなかったと思う。
反面、自分が殺されそうになったら逃げまわるところも人間味があってよい。
池田大作さんはキング・オブ・人間のようなところがあるのではないか。
人間味が濃すぎて、酸いも甘いも辛いもあわせもった、
強烈な生命力のかたまりのような存在。
どれだけ自分勝手に生きられるかというのも、その人間の器なのである。
どれだけ自分という存在に確信を持てるか。
人間(自分)を肯定しているというのは、
プラスのみならずマイナス部分もあからさまに出せるということだ。

池田さんは欲望のかたまりだったが、
欲望とは仏教では煩悩(ぼんのう)のことで、煩悩即菩提という言葉もあるよう、
煩悩がおそらく日本一燃えさかっていた池田は菩提心も日本一だったと思う。
池田先生のあの仏さまのような笑顔、元気が出る利他にあふれたお言葉は、
裏側にある強烈な煩悩、邪心、陰心、名誉心に支えられていたのだろう。
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)。
この言葉が池田大作さんの魅力を説明するいちばんいい言葉なのではないかと思う。
プラスはマイナスである。大きなマイナスは大きなプラスである。
どれだけ悪いことをできるかが、どれだけ善をできるかの証となる。
法華経なんて嘘八百だと鼻で笑える人が、もっとも法華経を確信している。
仏などいないことをどこまで理解しているかで、菩薩のレベルが決まる。
世界は金だ、人生は金だと信じていた池田だからこそ、最高の仏さまでもあった。

信者獲得数から見たらわかるよう、
わたしは池田大作のほうが日蓮なんかよりもよほど「すごい人」だと思う。
実際に対面してみたら、釈迦など池田大作の足元にも及ばないだろう。
「デエジン(大臣)なんかもしょせんキンコマンコで我われとおなじ人間なのであります。
私はそう確信しておるのであります(一同爆笑、大笑い)」
こう大確信を持って言ってしまえそうなところが、
池田先生の愉快さであり魅力であり怖さだったのだと思う。
学歴も家柄も財産も恋人も友人もなにもない無一物の池田青年が、
おのれの煩悩即菩提という信心だけで
あれだけ多くの人から崇拝される指導者になったわけだから、
一時期の創価学会の信心は時代風潮ともマッチして本物だったのだろう。

本物か偽物か、というが、本物も偽物もないのである。
最後までそうだとばれなかった偽物が本物になるのである。
いくら本物と言われているものでも権威者に金をつかませたら偽物になる。
高潔ぶった人は「おれは金では動かない」とうそぶくけれども、
予想していた100倍の金を出されたら思わず動いてしまうのである。
人間は金では動かない、なんて信じている人は底が浅い、とも言えよう。
どんな人間も大金や美女を与えたら、どんな不正だってするのである。
そもそも「正しい」ことなんてないだろう。正義も不正もない。
正義や真理、学問など金で売り買いできるアクセサリーのようなものだ。
「正しい」ことがないならば本物は金で決まるんだ。
ピカソの本物の絵が偉いのは、売ったら大金になるからで、
ピカソの絵のよさなんかデエジンやガクシャにゃわかるのだろうが(うそこけ)、
我われ庶民にはピカソの絵など役に立たず便所紙以下だ。
結局、本物かどうかは金で決まる(いくらで売れるか)のならば、
名画や宝物や骨董、あらゆる高額品に囲まれた池田先生は本物と言ってよい。
模造品でも権威者に金をつかませて本物にしてしまえば、
それは本物として流通する(高額でやりとりされる)。
そうであるならば最高の指導者とは最上のペテン師のことである。

大臣なんか庶民の部下のデエジンにしてやる、いまに見ていろ!
戸田の屈辱的ないじめを受けながら固くそう心に誓った池田は本物である。
おそらく池田は戸田から人間扱いされなかったと思われる。
戸田から多くの人間が離れていったというが、それはいじめをするからだろう。
アル中の人格破綻者である戸田から人権を蹂躙されるようないじめを受け、
いじめられいじめられいじめ抜かれて、池田青年は池田先生になったのである。
まったく学のない池田青年には、
小学校教員レベルの教養しか持たぬ戸田程度でもありがたい先生だった。
博打的な経営ばかりしているアル中で女好きの戸田に池田は鍛え抜かれた。
相撲用語でいじめを「かわいがり」と言うが、
池田青年は戸田先生から地獄のような「かわいがり」を受け、
およそ人間というものが信じられぬ煩悩邪心のとりこたる悪鬼、
イコール日蓮大聖人に比肩するかそれ以上の宗教者になることができた。
わたしは本書の著者である矢野絢也氏同様に池田先生を「すごい人」だと思う。
池田先生のことをもっと知りたくて、矢野が愛した男についての本を読んだ。

・池田は脂っこいものが好き。マグロの中トロが大好物。
天ぷらやしゃぶしゃぶも大好き。
野菜はほとんど食わないが、ドクター部がいるから大丈夫。
・たぐいまれなるカリスマ性を持ち、オーラが光り輝いている。
・天才的なオルガナイザー。演説の名人。語り口にはだれしも参る。
・人心掌握術の天才。
・優れた戦略家で、何十年先もの目標を見すえ、計画を実行していく。
・半面、究極の内弁慶である。
・内部の人のまえでは堂々としているが、外部に出たらオドオドと縮こまる。
・猜疑心が強く、自分を攻撃した人のことは何十年経っても忘れない。
もう矢野絢也氏の言葉に頼ろう。
どう考えても矢野氏のほうがわたしなんかよりはるかに、
池田を愛しているであろうから。

「コンプレックスの塊で、その執念深さは想像を絶する。
自分に敵対するものへの攻撃性はすさまじいの一言だ。
その一方、ざっくらばんでどこが抜けたところがあり、
大切なところで信じられないようなミスを犯す。
失礼ながらおっちょこちょいで愛嬌もあって、
おもしろい人やなぁと思わせる側面もある。
こうした矛盾、二律背反がなんの不思議もなく、
一人の人間の中に同居しているのが池田大作という人間なのだ。
見る角度により赤だったり、青だったりする。なのにそれを奇妙と感じさせない。
しかも、どの色に映っても、この上ない輝きを放っている。
強靭な生命力で内包する矛盾をまとめ上げ、体内で統合している、
とでも表現すればいいか。
仏のような面。鬼のような形相。
冷徹な事務屋さん。お笑い芸人。哲学者。神秘主義者……。
それらの要素が瞬間瞬間、パッパッと入れ替わる。まるで万華鏡を見ているようだ。
そしてその多面性が、なんとも言えない彼の魅力になっている。
惹きつけられてやまない、人間的吸引力を成している。
だからこそ、何をされても徹底的に恨み抜くことができないのである。
「池田さんは悪くない。側近が悪い」といった具合に。
元都議会公明党幹事長の藤原行正氏も、
「あの人の前に出ると唇がしびれて、喋れなくなってしまう。
あの目でガーッと睨まれると、震え上がって何もできなくなってしまう」
と言っていた」(P25)


こういう記述を読むと生前の、いやまだ生きておられるか、
全盛期の池田先生を映像ではなくこの目で見てみたかったなあ。
どれだけ内部に矛盾をかかえているか、二面性を持っているか、
というのがある意味では人間味と言え、人間的魅力にもなるのだろう。
周囲を楽しく生き生きとさせるようなとびきり明るい人は、
そのぶんだけ同量の恐ろしい殺気や殺意を隠し持っていることがある。
そういう素敵な池田先生と一回きりしかない人生で(受けがたき人身)
まみえることができた矢野絢也氏は幸福だったとも言えるのではないか。

「池田氏は本来、極めてざっくらばんで気分屋な
「気のいいお兄さん」的な人だった。
長年仕えてきたのだから、一般の人たちよりはずっと生の彼を知っている。
下町のお兄さん、あるいはオジサン的な振る舞いは彼の愛すべき一面であり、
その裏側には強力な権力志向の持ち主という一面もある。
その二面性は徹底している」(P18)


池田先生はおそらく週に1回くらいしか題目をあげなかったのではないか。
日蓮以上のタマである池田大作は、
南無妙法蓮華経なんか信じていなかった可能性さえある。
実際、池田先生は矢野氏のメモによると、以下のような指導もしているのである。

「長く大声でお題目を唱えればいいというものではない。三回も唱えれば充分だ」(P136)

こういう指導をケースバイケースでしてしまえる池田先生は本当におもしろい。
ぶっちゃけ、池田先生はこう思っていたかもしれないのである。
大声で題目なんて上げたって近所迷惑なだけだし、
そんなことをするくらいなら朝寝坊して早寝するほうがよほどいい。
信心よりも、実践で、敵を打ち負かせ、勝って勝って勝ちまくれ!
信心なんて言葉は、愚痴を言っているやつに発破をかけるときだけでいいんだ。
それは「信心が足らん」のだよと。信心よりも、勝って勝って勝ちまくれ!
前進前進、ゴーゴー選挙、働け遊べ、稼げ使え遊べ、楽しもう人生を!
池田の弟子だけあって矢野も部下にガラの悪い指導をしている。
こういうガラの悪さが創価学会員のよさであり、
人によっては嫌われる部分でもあろう。
キリスト教に学んで池田家を聖家族(ホーリー・ファミリー)に仕立てあげる、
という計画があったとき、矢野は部下にこう指導している。
矢野さん、おもしれえぜ。

「キリスト教から学ぶときも、きれいごとだけ見とったんではアカン。
一方で恐怖もないと、人は支配できんのや。
『ヨハネの黙示録』なんか一番オモロいで。
キリストは世界の終わりに人々を裁いて、
永遠の命を与えられる者と地獄に堕ちる者とを分けると書いてある。
地獄に落とされたらかなわんさかい、人は必死に信仰に励むわけや。
優しいだけのキリストではアカン、ちゅうこっちゃ」(P71)


矢野絢也がまったく信仰心など持ってないことがわかる名ゼリフである。
身もふたもないことを言えば、
学会の上層部でいまだに信心なんか持っている人はいないのではないか。
題目なんかまじめに唱えているのは、底辺の暇なじいさんやばあさんだけで。
ほかは未来部のよくものを知らない少年少女諸君か。
題目なんか唱えるより、テレビを見たり、ゲームをしたり、
人によっては本を読んだりしたほうがよほどいいわけだから。
題目を唱えたら願いがかなうなんて、
70年、80年も生きてきてまだそんな世迷い事を信じているのなら、
それは精神遅滞か根っからの痴呆症かなんかだぞ。
矢野さんの本を読むと、学会幹部もそう思っているような気がしてならない。
そうそう、少しばかり学会員に脅しを入れておこう。
いまはあらゆる国家権力に学会員が入っていると言われているが、
国家機構だってバカではないから職員のなかの学会員はマークしているらしい。

「長期自民党政権時代からずっと、
官庁にいる学会系の人間は秘密裏にマークされてきたという。
国家機密などの情報流出を危惧するからだ。
創価大出身というだけで左遷するようなことは差別であって、
そんな横暴は許されるわけもないが、
誰と誰がどう動いているかは押さえてきた」(P266)


どうでもいいけれど、創価大学の校歌は大好きである。
あれは宮本輝の青春小説「青が散る」のテーマ曲のように聞こえてとてもよい。
池田先生のようになりたければ、創価大学に通うのもいいだろうけれど、
マグロの中トロや、天ぷら、しゃぶしゃぶといった脂っこいものを平らげ、
野菜はいっさい取らず題目は朝3回で済ませ、
常時おのれの煩悩を意識して(煩悩即菩提だから構わんのや!)、
いかにして金を儲けるかを考えるのも一手ではあろう。
それにしても創価大学に入るのはある意味でギャンブルだよなあ。
東大を蹴って創価大に入り本部でケダモノのように学会女子を喰いまくった、
元幹部の弓谷氏なんか名誉会長の後継者としてもっとも適しているのではないか。
っていうか、なんでわたしは創価学会の内部事情にこんなに詳しいのだろう。
もう入っちゃえよと言われることもあるけれど、入れてくれないんだも~ん♪

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