「日本社会とジェンダー」

「日本社会とジェンダー」(河合隼雄/岩波書店)

→河合隼雄の心理学はなにかとひと言で要約したら「私の心理学」にでもなろうか。
「自分探し」みたいで恥ずかしいけれど、それでも私ってなんだろう?
○○会社の課長だ。年収○百万だ。○○大卒だ。博士だ。弁護士だ。医者だ。
○○の資格を持っている。○○の父親だ。母親だ。○○の息子だ。娘だ。
しかし、以上のものはすべて他人による評価でしかない。
最後に行き着くのは、河合も指摘していたが私は男である、
女であるという宿命性になろう。
さらに私を深めてさぐっていこうとするのが「自分探し」の河合心理学である。
私の心のなかにはいったいなにがあるのだろう?
鬼も仏も男も女も老人も子どもも愚者も賢者も私の奥底にはいるのではないか。
神さまや悪魔でさえ私の心の奥底にいるとは考えられないだろうか。
なぜなら、神も仏も悪魔も鬼も天国も地獄も人間が考案したものだからである。
河合心理学は他人を分析する心理学ではなく、
私が私を生きる心理学と言ってよかろう。
せっかく私として生まれてきたのだから、
より私らしく生きたほうがおもしろいのではないかという考えである。
言い換えたら、宿命性を愛せ。私の私だけの宿命を宝と思え。

晩年は違っただろうが(晩年の河合はユング心理学の嘘に気づいていたと思う)、
ユングを師匠とする河合はかつて恋愛をアニマの投影であると主張していた。
アニマというのは(いまは死語だが)、男性の心にある女性の理想像である。
これは仏教の唯識思想とも似ているが(なんて書くとインテリっぽいでしょ?)、
ユングは男性が女性を愛するのは、
対象女性そのものを愛しているというよりも、
男が自己の理想女性像を対象に投影していると考えたわけである。
ユング心理学および河合心理学は私が私を生きるための心理学で統計心理学ではない。
だから、役に立つ。
女性はこうしたら男からもてるとお偉い河合先生(ユング先生)が
アドバイスしている。まあ、いまを生きる女性はみなさまご存じのことでしょうが、
それでも権威からの後押しがあると安心できるのではないか。男にもてるコツ。

「女性にもアニムス[男性性]と無縁の生き方をしている人がある。
このような女性は、自己主張ということをせず、男性の望みのままに動くので、
男性からアニマ[女性性]の投影を受けやすい。
女性からみれば、およそ個性のない面白くない女性が、
案外多くの男性を惹きつける秘密はこの辺にあるようである。
このような女性は、ともかくだれか男性と共にいないかぎり存在価値がない。
男性がいなくなると、たちまち魅力のない女性になってしまう。
このような生き方は、女性としては楽な生き方でもあるので、
現在でも相当数の女性がこの生き方をしている」(P280)


ぶっちゃけ、がみがみ口うるさい女とか男はいやだよねえ。
そうじゃない老賢者の人もいるかもしれないけれど。
私をわかってくれる最高指導者のような男性がいたらどれほどいいことか。
いや、いることにはいるのである。
女性の心のなかに、そういう男がいてくれたらという願望があるかぎり、
彼は絶対に存在する。なぜなら女性の心のうちにそういう理想男性がいるのだから。
河合隼雄はやらなかったが、ユングはハーレムをつくった男なのである。
女性患者に自分こそ理想男性だと思わせて、あまたの美女を肉奴隷にした。
いわゆる、洗脳というやつである。
洗脳は、だれかから洗脳されるわけではない。
私のなかにある理想人間像をだれかに投影してしまうから洗脳状態が発生する。
ユングはハーレムのおいしさを味わいながら、
人間これでいいのだろうかと深々と悩んだはずである。
そこから生まれたのがユング心理学で、それを日本に伝えたのが河合隼雄だ。
河合隼雄は嫌う人も多い創価学会とうまく手を組みながら(少なくとも喧嘩はせず)、
少しずつ足場を固めていき、欧米ではオカルトに過ぎないユングを学問にしてしまった。
新興宗教の集会の様子を見ると、楽しそうじゃないですか?
みんなおんなじ格好をして、おなじような笑顔で、
教祖のおなじ言葉に全員一斉で笑う。どうしてあのようなことが起こるのか。
それを教祖であったユングはなぜだろうと相当に深く自己内省したのだろう。
いちおうユングの没後弟子ではあるが、
ことさら「師弟不二」ではなかった河合隼雄はこう説明する。

「日本人は、その無意識内にある中心[最高真理]を、しばしば外界に投影し、
それに対しては自分はまったく卑小と感じたり、絶対服従するようになったりする。
つまり自己[本当の本当の本当の真実の私]は
天皇や君主・家長[経営者・成功者・教祖]などに投影され、
そのためには自分の命を棄てることさえ当然と思うようになる」(P247)


教祖を妄信している人は、あれは洗脳されているのではなく、
自己愛の一種と考えることもできるのではないか。
そう河合隼雄(ユング)は言っているわけである。
だから、新興宗教の信者さんも広い意味では「私」を生きているのである。
あれは他人から洗脳されているように見えるが、
まさしく「私」のなかにいる「最高指導者」に従って生きているのだから、
それはそれで否定すべきではなく、
それもまたそれぞれ個々の「私の人生」としてあってもいいのではないだろうか。
いささか問題なのは、投影過剰な人は
自分の心のなかにあるに過ぎない悪をも他人に見て取ってしまうところである。
「悪人は自殺に追い込め」となったら過激ではないかと思うが、
そういう人生もあるいはそれはそれでいいのかもしれない。

河合心理学の最重要ポイントは矛盾である。
私のなかには善も悪もある。男も女もいる。老人も子どももいる。
このような矛盾した私を矛盾したままでどこまで生きられるのか。
それが自己実現ということだが、
べつに自己実現したほうがいいと言っているわけではない。
そのほうが経済的には損かもしれないが、おもしろい私だけの人生を送ることができる。
矛盾をかかえたままの私を生きる――。

「人間は自由を求める動物である。
自由の新天地を求めて移動してゆくのみならず、
自由を束縛するものに対しては、あくまでもそれに向かって戦おうとする。
その反面、人間はまったくの自由には耐えられぬところがあり、
混沌に対して秩序を与えたがる傾向ももっている。
この矛盾する両面が人間のなかに共存しているのである」(P302)


このため自ら率先して自由を放棄して宗教活動にいそしむものもいるのだろう。
宗教活動という束縛のなかでしか自由を感じられない人もいるのかもしれない。
人間は矛盾しているから、それでも構わない。
河合隼雄は男女間の「愛(結合)」についてこう語っている。

「「結合」とは、もちろん異質のものの結びつきを意味している。
同質のものが集まるのを、わざわざ結合ということもない。
そして、それが異質なものの結合であるからこそ、
新しい可能性がそこに生じてくるのである。
異質度が高いものほど、そこから生まれてくるものの可能性は大きいだろう。
しかし、そこに「結合」が生じるためには、何らかの同質性の存在が必要であり、
あまりにも異質なもの同士では、分裂や破壊が生じるだけで、
建設的なことは生じない。ここに結合のパラドックス[矛盾]が存在している」(P276)


矛盾とは「どちらも正しい」ということである。
どちらも言っていることは「正しい」のに夫婦喧嘩をすることはあるでしょって話。
勝利者も敗北者も、高学歴も低学歴も、善人も悪人も
「どちらも正しい」などと言ったらこんな矛盾はないけれど、
河合隼雄はなるべくそういう矛盾を多くかかえていたほうが
豊かに生きられると思っていたはずである。
だれか女性で(「私」ではなくこの)わたしに理想男性像を投影してくれないかなあ。

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11/17 18:03
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