「日蓮大聖人御書 要文選集」

「日蓮大聖人御書 要文選集(通解付)」(創価学会教学部編/聖教文庫)

→このたび肉体労働のあいまに日蓮の御書(ごしょ)の名言集を繰り返し読む。
これまで蓄えた仏教知識と引き比べながら何度も何度も読んだものである。
日本人の10人にひとりは学会員とも言われているから、
うっかりした読解をしたら組織からなにをされるかわからないという恐怖感もあった。
以下に書くのは「わたしの真実」で「組織の真実」とは異なるかもしれない。
真実は多数決で決まるから、
どちらが客観的に正しいかといえば、おそらく組織のそれだろう。
以下に間違った日蓮解釈をするという謗法(ほうぼう)の罪を犯すことをまず懺悔する。
高給を取り毎日机上で日蓮仏法を学ぶ教学部の幹部のほうが正しいことは認める。

最初に包括的に日蓮仏法をとらえるならば「闘え!(勝負しろ!)」に尽きるだろう。
じつのところ、古今、人間についてはいっさいわかっていないと言ってもよい。
鎌倉時代のみならず現代も人間はなぜ生まれてきたのかわからないし、
生きているあいだなにをしたらいいのかもわからないし、
いつ死ぬかもわからないし、そして最後臨終にいたって死後どうなるかもわからない。
深々と考えてみるとわからないでしょう?
なぜ生まれてきたのか?
生きているあいだなにをしたらいいのか?
いつ死ぬのか、そして死後どうなるのか?
この3つの疑問に個々が真剣にあまたを悩ましたら狂ってしまうような気がする。
日蓮はなにをしたかというと、無明の凡夫に模範解答例を与えたのである。
なにをしたらいいのか右往左往している民草に生きるひな形を提供した。
こう生きたらいいんだよ、とわかりやすく説明したのみならず
みずから実践したのが現代でも弟子の多い日蓮大聖人の功績だ。

では、日蓮はどう生きろと我われ無明の凡夫に指導したのか。
1.闘え(勝負しろ)!
2.(闘争のために)群れよう!
3.(負けたら)恨もう!
日蓮仏法は「恨み」の宗教という面が強いと思う。
恨みというとネガティブなイメージがあるが、怨恨は生きるエネルギーになる。
鎌倉時代の無学な民衆はおそらく虫けらのように生まれ死んでいたと思われる。
生まれ落ちてから死ぬまで理不尽な不幸の連続で諦念ばかりであったのではないか。
そもそも恨むという感情を知らなかった可能性も高いと考えられる。
なにをどう恨んだらいいのかさえ虫けらのような民衆は作法を知らなかった。
そこに日蓮が現われ、こう怨恨のパワーを発散させればいいと説法したのだ。

大衆というのは、わかりやすい物語を愛するものである。
悪役(敵役)が善人の面を見せると戸惑ってしまうのが無知蒙昧な下層民というもの。
時代国籍を問わず、民衆は勧善懲悪、善が悪をこらしめる物語を好むのである。
よく知らないけれど、ハリウッド映画なんかもほとんどがそうだと聞いたことがある。
日本の時代劇も刑事ドラマも善が悪を倒す物語である。
ぶっちゃけ、山田太一ドラマなんかより刑事ドラマのほうが視聴率が高いのである。
いかに多くの人間が、善が悪を倒すというわかりやすいストーリーを好むか。
人間は物語を聞くだけではなく、物語を生きるのが人間である。
繰り返しになるが、
人間は生きているあいだなにをしたらいいのか究極的にはわからない。
なぜ生まれてきたか、死んだらどうなるかもわからないが、
それ以前にそもそも生きているあいだなにをしたらいいのかまるでわからない。
そういう無明の凡夫に、日蓮は勧善懲悪の物語を生きろと説いたのである。

日蓮は、善をなせ、悪を倒せ、と説いた。
しかし、なにが善でなにが悪かなんてわからない、とも言いうる。
そこで仏僧の日蓮は大乗仏典(お経)のひとつである法華経を絶対善だと決める。
ちなみに現代の学問では、法華経など釈迦は説いていないという見解が一般的だ。
時代的な制限もあって日蓮は、法華経は釈迦の真説ではないことを知らなかった。
だが、どうして釈迦が説いたからといって、その教えが正しいのかはわからない。
個人的にわたしは釈迦の教えなどくだらない道徳話程度に思っている。
釈迦の教えなどよりよほど法華経のほうがおもしろいと思う。
さて、日蓮は法華経を絶対的な善の教えと決めたわけである。
なにゆえ法華経が正しいのかという根拠は、法華経にそう書いてあるからである。
中国のチギという偉い坊さんも、天台宗のお偉いさんも法華経は正しいと言っている。
日蓮は説く。日蓮は法華経が正しく善であると月並みに説いた学者ではない。
日蓮は法華経だけが唯一絶対的に正しく、
ほかはみな悪法で他の仏教徒はみなみな地獄に堕ちると宣言、実践した闘士だ。
ひとりで闘争してもだれも相手にしてくれないから、多くを弟子にして群れよう。
法華経こそが絶対的に正しいことをみなに指導して自分の子分にしよう。
法華経は正しいけれども難解である。
当時、法華経を無視した法然の南無阿弥陀仏が流行していた。
それは違うと日蓮は怒った。正しいのは浄土三部経ではなく法華経である。
法華経のみでよい。南無阿弥陀仏ではない。南無妙法蓮華経だ。
南無妙法蓮華経なら法華経を読めない文盲の下層民も唱えることができる。

諸君、我こそ汝(なんじ)らの指導者なり。南無妙法蓮華経と唱えよ。それが正義だ。
唯一絶対的に正しい法華経の教えを広めるのが我われの生きる目的だ。
法華経を信じる我われは善で邪法を信じる輩(やから)は悪である。
悪を打ち倒し善を広めるのが我われの生まれてきた理由である。
南無妙法蓮華経と唱えれば、ひとりひとりが正義のヒーローになることができる。
諸君、英雄たれ! 正義の大道を歩め! 悪を許すな!
いままで虫けらのような人生を送っていた下層民はどれほど日蓮に鼓舞されたか。
この人こそは指導者であると思ったことだろう。
自分はつまらない貧農なんかではない。正義の志士だ。自分だって英雄になれる。

日蓮の教えをもう一度整理する。
1.法華経のために闘え!
2.法華経のために群れよう(連帯せよ)!
3.法華経を誹謗する我われの敵を恨もう!
さて、日蓮の教えには実利がある。生きるために役に立つ教えなのである。
では、日蓮仏法は我われにどのような利益を与えてくれるのか。
精神科医の春日武彦氏が人間の精神(心)におけるアキレス腱は、
こだわり、プライド、被害者意識であると主張している。
人間の精神にとってかなめとなるのが、こだわり、プライド、被害者意識である。
この3つを日蓮仏法はじつにうまく慰撫(充足)してくれるのである。
3つをわかりやすく言い換えたら、以下のようになろう。
こだわり(正しい)、プライド(偉い)、被害者意識(殉教者意識/選民意識)。
我われは法華経を信じるがゆえに正しい(こだわり)。
我われは法華経を信じるがゆえに偉い(プライド)。
我われは法華経を布教するがために迫害されている(被害者意識)。
日蓮仏法を信じると、我われはじつに気分よく生きることができるのである。
自分は正しいと思えるし、偉いと思えるし、
不幸が訪れると人は気落ちするものだが、
この不幸は自分が正しいから起きているのだと思えば闘う勇気も生まれる。
もし信じられるのならば、日蓮仏法は最上、最勝、最強の教えではないかと思う。
以上の文脈を踏まえたうえで、これから日蓮大聖人の言葉を拾っていく。

(1)闘え(勝負しろ)!

日蓮の出発点はここにあると思う。
御書の解釈はそれぞれだが、
今回は創価学会教学部のものではなく自分の解釈を書いてみたい。

(妻や子や仲間のことなど気にするな。権威を恐れるな。
おのおの自分を信じて、既存の権威と闘え。それが日蓮の仏法だ)
「各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫(なか)れ権威を恐るること莫れ、
今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(P176)


日蓮の原点はひとりぼっちだったのである。日蓮には師匠も弟子もいなかった。
当時はいろいろな仏教が流行っていたが、日蓮はそれらの権威をすべて否定した。
田舎坊主の親鸞のように「師弟不二」などと師匠の法然に追従したわけではない。
既存の権威をすべて否定した日蓮は独創的な南無妙法蓮華経を説いた。
そうだとしたら、「日蓮に還れ」ともし言うならば、それはどういうことか?
「権威を恐るることなかれ」である。
当時、仏教界でいちばん偉かったのは天台座主だっただろう。
日蓮は天台座主など、うちの信者の癩病(らいびょう)患者以下と宣言している。
(「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」P138)
いま仏教界でいちばん権力があり偉いのは、おそらく池田大作先生だろう。
よしんば「日蓮に還れ」と言うならば、
「権威を恐るることなかれ」という日蓮の言葉が聞こえてきたら――。
これは聞こえてこないほうがいい日蓮の声なのだろう。
「闘え」と日蓮は言った。

(悪魔のなかの魔王がいま法華経の信者から平和を奪おうとしている。
日蓮は部下の兵隊ととも20年も悪魔の群れと闘争している。
日蓮は一度も逃げていないが、臆病な弟子の大半が退散したものだ)
「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして
同居穢土(どうごえど)を・とられじ・うばはんと・あらそう、
日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、
日蓮一度もしりぞく心なし、
しかりと・いえども弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(P202)


(法華経は闘うための兵法でもある。法華経に書いてあるではないか。
「おまえが怨んでいる敵は全員、皆殺しにしてしまえ」――これは名言だ。
権謀術策のやり方はすべて法華経に書かれている。信じよ。臆するなかれ)
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、
「諸余怨敵・皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、
兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、
ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」(P206)


以前、大乗仏典の涅槃経を読んだとき、その過激さに驚いたものである。
日蓮は涅槃経の教えをさらに過激にして教えとしている。
法華経第一だが、使えるものはなんでも使うのが日蓮とも言いうる。
日蓮は勉強家であり、同時に目的重視の商人(あきんど)根性も有していた。

(涅槃経にこう書いてある。
『たとえいい坊さんであっても仏法に逆らうものを放っておくやつは敵だ。
そいつを叱責して追放しポカリとやってやるのが本物の坊さんである』
これはよくよく心得ておけよ。
法華経の敵がいて、そいつを攻撃しなかったら、
師匠弟子を問わず地獄に堕ちると思え)
「涅槃経に云く
『若し善比丘あつて法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば
当に知るべし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり、
若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり』云云、
此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(P97)


ひどく攻撃的で暴力的な教えに思えるかもしれないが、
なんの目的もなくだらだら生きているよりは、敵を倒す人生のほうが
生きる張り合いがあると言うこともできなくはないのではないか?
若い人たちはゲームが好きだが、かなりのゲームが勇者が悪を倒すものではないか?
日蓮仏法を信じたら、人生があたかもゲームのように楽しくなるのである。
乗り越える障害(難)があったほうが人生は生きがいがあるとも言いうる。
法華経を信じたら、かならず難(障害/対人トラブル)が生じるのである。
どうしてかと言えば、法華経の教えは「法華経こそ絶対正義」。
法華経の教えを広めようとすると、かならず悪(=魔)が登場するようになっている。
わかりやすい話をすると、ブログを運営しているとかならずしつこい批判コメントが来る。
何度拒否しても本当にしつこく当方を匿名で批判してくるやつが現われるのである。
なにゆえかと言えば、相手は自分のことを正義と思っているからである。
相手が自分を正義と信じているということは、当方は相手のなかでは悪になっている。
あまりにもしつこい正義の人には、
警察に相談して近寄らないようにしてもらいたいくらいだ。
この追放を正義の人は「正しい教えを広めるがゆえの難(障害)」ととらえる。
正法(正義の仏法)はかならず仏敵をつくり、
相手がよほどの人格者ではないかぎり迷惑がられ難(追放)に遭遇するのである。
日蓮は絶対正義の人だから悪(仏敵)をつくり、難(流罪)に遭わなければならなかった。
しかし、なんにもない人生よりはいろいろあったほうがおもしろいとも言いうる。
正義の思想は周囲には迷惑だが、
信奉者にとっては充実した人生を生きるよすがとなるものなのかもしれない。

(もう20年以上、正義の仏法を広めてきたが苦難の連続である。
小さな困難から大難まで数えきれないほどである。
命の危険にさえ犯されたことがある。
わが弟子や支持者も正義ゆえにいわれなき罪で裁かれている)
「既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、
少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり
二度は・しばらく・をく王難すでに二度にをよぶ、
今度はすでに我が身命に及ぶ
其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来つて
重科に行わる謀反なんどの者のごとし」(P185)


正義は敵をつくり苦難を招くが、困難を生きる人生こそおもしろく充実したものである。

(2)群れよう(連帯せよ)!

ほとんどの人間は孤独に耐えられるほど強くできてはいない。
日蓮仏法のいちばんいいところは仲間ができるところではないか?
仲間どころか同志や親友のようなものさえできるかもしれない。
通常、人と人はそれほど強い結びつきを持てないが、
正義という旗印があれば人と人は孤独から逃れ強く連帯することができるのである。
個は全体の一部となったときがいちばん個として充足できるのかもしれない。
正義という絆で結ばれた仲間と肩を組みながら学会歌を合唱しているあいだは、
孤独とはまったく縁が切れた最上の人生の妙味を体感しているときなのかもしれない。
仲間というのは子どものうちしかできないものだが、
大人になっても仲間ができる喜びはいかほどか。そのためには正義が必要なのである。
正義がなければ(つまり共通の敵がいなければ)人と人はそうそう連帯できない。
以下の文章は、仲間のすばらしさをじつに饒舌に日蓮が語っている。
ひとりぼっちではなく、仲間がいるのはなんとよろしきことか。

(小さな川が集まって大海となる。チリも積もれば山となる。
ひとりひとりが法華経を信じていったら、
世界はどれほど美しく壮大な山と海の自然に恵まれることだろう)
「衆流あつまりて大海となる微塵つもりて須弥山となれり、
日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、
法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば
妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし
仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(P156)


(日蓮の弟子たちがみんないっしょにだれが偉いとかそんな区別もなく、
みんながひとつになっていっせいに南無妙法蓮華経と唱える。
この楽しさこそが日蓮仏法の醍醐味なのだよ。
こうしているうちに国民全員が一心になればどんなにいいことか。
しかし、かならず裏切り者が現われ和を乱そうとするのだ)
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して
異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、
若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰(あまつさ)え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば
例せば城者として城を破るが如し」(P210)


ひとりぼっちではない仲間との連帯はとてもこころよいものだろうが、
仲間が強く結束するためにはふたつのものを必要とするのである。
それはみんなで敵視することができる仏敵と、それから裏切り者である。
裏切り者をつくることが組織力の強化に役立つことを知っていた日蓮は恐ろしい。
自分は裏切り者になって追放されたくないから、
信者はよけいに組織に依存することになりトップ日蓮を崇めることになるのだ。
日蓮は集団力学というものをよく知っていた。
仲間というのはプラスだが、ある現象はマイナスも併せ持たねばならず、
親密な仲間は共通の敵と裏切り者の存在を必要としているのである。
仲間との一体感はすばらしいが、仲間意識は無意識に仲間はずれへの恐怖がある。
もしかしたら仲間集団を統率していた日蓮は、
ひとりも友人のいない孤独な人だったのではないか?
ひっくり返せば、トップが壮絶な孤独を引き受けてくれるから、
門徒や信者は孤独とは縁のない仲間意識を享受できるのかもしれない。
日蓮は人間不信がひどい人だったような気がする。

(異教徒や悪人なんてものにはかえって正しい仏法を破れないものだよ。
怖いのはむしろ仲間で、我われの正法を壊そうとするのはむしろ仲間だ。
トップを倒すのはライバルではなく、仲間内から足を引っ張るものが現われる)
「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし
師子身中の虫の師子を食(はむ)等云云、
大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし」(P209)


まるで独裁政治の最高指導者のようなことを日蓮は言っている。
日蓮正宗にとってはまさしく池田大作氏が「師子身中の虫」であったのだろう。
創価学会で「師子身中の虫」として追放された人が多いという事実は、
かの池田先生がよくよく日蓮思想を理解していたことの証左かと思われる。
日蓮はたとえ古株の弟子でも非情に切り捨てるようなところがあった。
日蓮には三位房という非常に賢いむかしからの弟子がいた。
やはりあたまがいいからか生意気にも日蓮大聖人に逆らって意見することもあった。
日蓮は古株で最高幹部のひとりであった三位房を「師子身中の虫」とみなし、
容赦なく切り捨てる。組織から追放した。その後、三位房は不遇な死を遂げたという。
この三位房について日蓮の言っていることが怖い。

(こざかしげな三位房とかいう威張ったやつがいただろ。
あいつについてはまえまえから危険視していたのだが、
智者に嫉妬していると思われるのがいやで放っておいたのだが、そら見たことか。
腹が黒いやつというのは、ああいう悲惨な非業の死を遂げるものなのだよ。
おれの指導に従っていたら助かっていたかもしれないのに、あいつときたら。
まったく不思議なことだと思っていたから、これまで言わなかった。
また言ったら言ったで、バカ者どもが死人の悪口を言うなと騒ぐから。
いま言ってしまうのは、これからあいつを反面教師にしてほしいからだ。
おれの言うことに耳を貸さず迫害したやつらは、いまごろ恐怖で震えているだろう)
「三位房が事は大不思議の事ども候いしかども・
とのばらのをもいには智慧ある者をそねませ給うかと・
ぐちの人をもいなんと・をもいて物も申さで候いしが、
はらぐろとなりて大難にもあたりて候ぞ、
なかなか・さんざんと・だにも申せしかば・たすかるへんもや候いなん、
あまりにふしぎさに申さざりしなり、
又かく申せばおこ人どもは死もうの事を仰せ候と申すべし、鏡のために申す
又此の事は彼等の人人も内内は・おぢおそれ候らむと・おぼへ候ぞ」(P178)


日蓮は絶えず裏切られることを恐れていた。
大半の人が仏教から得られるのは安心の境地だが、
日蓮大聖人は生まれてから一度も心が安らいだことがないという。
おそらく常に自分の心中にある
「こだわり(正しい)、プライド(偉い)、被害者意識(殉教者願望/英雄願望)」を
を強烈に見つめていたからではないかと思われる。

(日蓮は生まれてからこのかた、いっときも安心というものをしたことがない。
ただただこの南無妙法蓮華経というお題目を広めることばかり考えていた)
「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、
此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(P40)


日蓮仏法は心の安らぎとは無縁の闘争的な勝負の世界と言ってよいだろう。
わたしなどよりはるかに心が穏やかそうな学会員さん(っぽい人)を知っているが、
日蓮教学的には否定されなければならない存在なのかもしれない。
安心して一服している暇があったら、忙しく布教にまわれ。かたときも休むな。

(おれの弟子ならば夜眠る時間は最小限に抑え、
昼は昼で寸暇を惜しんで布教のことを考えよ。
一生をだらだら過ごしたら、永遠に後悔することになるぞ)
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ
一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ」(P100)


信頼できる仲間との連帯はとてもいいものだろうが、
仲間は個人の時間を奪うというマイナスの面も持ち合わせている。
ときにはひとりでじっくり考えることも必要だろうが、仲間がいるとそうは言っていられない。
南無妙法蓮華経は偉大なプラス面があるのは間違いないが、
同等あるいは同量のマイナス面がもしかしたら存在するとは考えられないだろうか?

(3)恨もう(生き生きしよう)!

釈迦(しゃか)の説いた原始仏教は「生きるな!」と言っているものだと思う。
なぜなら釈迦の教えは、ひと言でまとめたら「煩悩(欲望)を消せ」だからである。
欲望があるから苦しみが生まれる。
死別の悲しみは、物故者が生きていてほしかったという欲望が原因である。
病気の苦しみは、健康でいたかったという欲望に端を発している。
欲望を消したらすべての苦しみが消えるというのは真理だが、
それではつまらないではないか。
生きている証というのは喜怒哀楽でしょう?
欲望(煩悩)を消したら苦しみは消えるだろうが、それは廃人になったようなもので、
せっかく人間として生まれてきたから味わえる喜怒哀楽をも消滅させてしまうではないか。
釈迦の使えない教えを否定したのが法華経である。
どうして釈迦のほうが法華経創作者よりも偉くて正しいのだろうか。
理由を突き詰めると、先輩だから、古株だからという理由しかないだろう。
では、なにゆえ先輩や古株は偉くて正しいのか考えてみると根拠はない。
法華経は自分たちの崇める宇宙仏は、
人間釈迦なんかよりよほど偉くて正しいという教えだ。
これを久遠実成(くおんじつじょう)という。

さて、ようやく日蓮に話を戻すと、日蓮の目的は法華経の教えを広めることであった。
「生きるな!」ではなく「生き生きしよう!」というのが日蓮仏法の教えである。
生きるパワーの源として、いちばんエネルギーがあるのはなにか?
たしかに愛や夢、希望は生きる動機となるが、同時にこれらはもろい面も持っている。
人は愛が失われたせいや夢がかなわなかったため、希望の消滅ために絶望する。
人間を本当に生かすのは愛、夢、希望ではないのではないか。
そもそも鎌倉時代の下層民に愛、夢、希望などという観念があっただろうか?
どのみち生まれ落ちた身分は変わらず、結婚相手もままならぬものだったのではないか?
ふやふやした夢のようなものを根底にしては、
この苦に満ちた娑婆(しゃば)世界は生きられぬ。
では、ならば、そうだとしたら、なにが人間を生かすのか?
それは怨恨であると日蓮は考えた。黒々とした怨恨の情が人間を生かす。
喜びや楽しみだけでは人は生きられず、怒りや哀しみがあるから人は生きていける。
深い怒りや哀しみが積もり積もるとその土中から芽生えるのが怨恨の情である。
怨恨は喜びや楽しみとコインの半面の関係にある。
いくら隠そうと怨恨の情があるから、人は喜び楽しみ笑うことができると言えよう。
人間の根っこにあるのは、おそらく怨恨の情であろう。
自分の希望していない国、時代、性別、身分、容姿、知力、体力を、
人はだれしも生まれ落ちたときに背負わされる。
この理不尽を仏教では宿命というが、ならば宿命は怨恨の根であると言えないか。
精神科医の春日武彦氏はなかなか治らない患者を「根が深い人」と表現している。
しかし、この根はマイナスの面しか持たないのだろうか。
この怨恨という根のプラス面を強調したのが日蓮大聖人である。
以下の日蓮の言葉はかなり深い真理を言い当てているような気がする。

(根が深ければそれだけ大樹となり、
源流が高くにあればそこから始まる川は大河になることだろう)
「根深ければ則ち条(えだ)茂く源遠ければ則ち流長きが如し」(P217)

人それぞれ個々に理不尽な宿命を根として、
あるいは源流として怨恨の情は発生する。
宿命とは、スタート地点がそれぞれさまざまだということである。
人によっては宿命を呪うものも多いだろう。
しかし、個々それぞれの宿命は軽々しく廃棄していいものだろうか?
もしかしたら個々の宿命はそれぞれに与えられた宝ではないか?
宿命が宝物ならば、宿命から生まれる怨恨の情にも価値があるのではないか?
与えられた宿命を愛してみたらどうだろう?
怨恨の情を無意識に沈めるばかりではなく、高らかに解放してみたらどうだろう?
「あいつだけは許さねえ」という恨みが人を生かすことはよくあることだと思う。
わたしの未熟な人生経験からしても怨恨の情に生かされてきたところがある。
あのやろう、舐めやがって、許さねえぞ。
このやろう、いつかギャフンと言わせてやるからな。

(たとえ国は日蓮を重用しても少しでも舐めた真似をしたら、
そんな国は亡びるに決まっている。
それどころかそれどころか、この日蓮を数百人に憎ませ、
あろうことか二度まで流罪の屈辱を味わわせた。
この国が亡びるのは疑いがないほど明らかなこと。
いままでは日蓮がこの国を助けてあげてくれと屈辱に耐え、
切歯扼腕(せっしやくわん)していたからこそ安穏だったけれども、
あまりにも日蓮をバカにすると仏罰が当たるぞ!)
「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、
何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、
此の国の亡びん事疑いなかるべけれども
且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ
今までは安穏にありつれども・はう[法]に過ぐれば罰あたりぬるなり」(P37)


日蓮は弟子たちに獅子吼(ししく/シャウト)する。
おまえたちは正法を広める真の菩薩(ぼさつ)なのだから、胸を張れ!
たとえどんなに世間から見下される身分であっても威風堂々と進め!

(あるとき日蓮は問われた。学問仏教をまるで知らず、
ただ南無妙法蓮華経と唱えるのみのおまえの弟子のレベルはいかほどか。
日蓮は激昂して答えた。たとえ文盲でも日蓮の弟子は、
他宗の元祖と言われる中国の高僧などより百千億倍いやもっともっと偉い!
あんなペテン師どもと日蓮の弟子では勝負にならない。
おれの弟子を舐めるなよ、おい!
日蓮の弟子は過去世でも未来世でもすげえことをした大菩薩だぞ。
おれの弟子は生まれたばかりの天皇や大竜の赤子のようなもの。
いいか、舐めるなよ! 舐めた真似をしたら許さねえからな)
「問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、
答う此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず
将た又真言等の諸宗の元祖・
畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり、
請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ
進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり
豈(あに)熈連一恒(きれんいちごう)の者に非ずや
退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し
天子の襁褓(むつき)に纒れ大竜の始めて生ずるが如し
蔑如(べつじょ)すること勿(なか)れ蔑如すること勿れ」(P139)


(あわれ、あわれ、いま日本人はみんな、
日蓮やその弟子が敵に攻撃され苦しんでいるのを見て喜んでいる。笑っている。
だがね、「昨日は人の身、今日は我が身」。
日蓮とその弟子は最後に大勝利の大歓喜をするのだよ。
正法にまい進した結果、われわれが楽しみ笑っているとき、
おまえらは地獄の苦しみを味わうことになるんだ。ザマアミロ!
うらやましいだろう、うらやましいだろう!
この人生、死んでも生まれ変わってくるんだから、
同志たちよ、仲間よ、決して困難から逃げるな、胸を張って行こう!)
「哀なるかな今・日本国の万民・
日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも
昨日は人の上・今日は身の上なれば
日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし、
只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、
汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時
我等何計(いかばかり)無慚(むざん)と思はんずらん、
汝等何計うらやましく思はんずらん、
一期を過ぐる事程も無ければ
いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」(P187)


スウェーデンの文豪ストリンドベリも言っているが、
結局、だれかの苦しみはだれかの楽しみなのである。
みんなが幸福になることなど未来永劫ありえない。
欲望と欲望が衝突したとき、勝ったほうは満足し負けたほうは勝者を恨む。
しかし、日蓮大聖人の仏法は「負けてもいいよ」という教えなのである。
一度負けても二度負けても、そのぶん怨恨をたくわえられたのだからいいではないか。
負けても負けても恨んで呪詛して呪えばいいではないか。
なんじの宿命を愛せ、怨恨を宝と思えというのが日蓮大聖人の仏法である。
日蓮は人生で負けていると言えなくもないのである。
というのも日蓮は貴族や天皇家からいっさい認められなかったわけだから。
人生の終盤で幕府から許されてちょっと声をかけられたくらいでしょう?
親鸞は法然から認められたけれども、日蓮は偉い先生からまったく認められていない。
勲章のようなものもひとつももらっていないのではないか?
逆説的にだから日蓮は偉いのではないかと思う。
ただ民衆から敬慕されたのが日蓮大聖人である。
日蓮は理不尽な宿命に苦しむ民衆の怨恨の情を大解放した英雄だったと言えよう。
鬱積した怨恨の情を解放すればこそ、人は笑うことも喜ぶこともできるのである。
喜怒哀楽はどれも悪いものではないことを日蓮は民衆に教えた。
南無妙法蓮華経の教えをひと言でいえば「生き生きしよう」である。

(4)日蓮の正法

いよいよ最終章に入ろう。いちばん重要な問題に分け入る。
果たして南無妙法蓮華経と唱えると願いはかなうのかどうか?
日蓮の生きる目的は、ただひとつ南無妙法蓮華経を広めることであった。
いまや日本を支配したといってもよい創価学会の権力からわかるのは、
日蓮の願いは南無妙法蓮華経を唱えることでかなっていると言えよう。
南無妙法蓮華経の意味は法華経に帰依する、である。
では、法華経の内容はなにかといったら「嘘も方便」ということなのである。
人を救うためなら嘘をついてもよい、というのが法華経の最大テーマである。
日蓮は法然ら有名人への対抗意識から自分の南無妙法蓮華経を広めたかったが、
むかしもいまも人間には能力差というものが存在する。
だれでも一生懸命に勉強すれば東大に入れるわけではない。
あたまがゆっくりした人もなかにはいるのである。
むしろ圧倒的多数派になるのは、インテリではない庶民だろう。
釈迦は相手のレベルに合わせた説法をしたことになっている。
で、最初は華厳経を説き、次に小乗仏教うんぬんと続き、
釈迦の最後に説いたのが法華経だ、
というのが中国高僧チギの考案した物語「五時八教」である。
これとおなじようなことを日蓮も考えたのだろう。
最初から無学な庶民に南無妙法蓮華経の精髄を教えることはできない。
このため、南無妙法蓮華経と唱えれば願いがかなうという説法をしたのだろう。
この教えは多くの庶民を救ったわけである。

いま病気で苦しんでいる人に南無妙法蓮華経はどれほどの励ましになったか。
医者にも見放された人が
南無妙法蓮華経の教えに出逢ったときの歓喜を想像してほしい。
ワラでもつかみたいとうほど苦しんでいる人がこの世には大勢いるのである。
そういう苦悩者に南無妙法蓮華経はどれほどの救済になったか。
四面楚歌という不幸のどん底があるのである。
そういうときに南無妙法蓮華経で事態が好転すると信じられたらどれほど嬉しいか。
人間は嘘でもいいから苦を取り除く薬を求めるものなのである。
そして、これは現代科学の研究で結果がはっきりと出ている真実だが、
人間はプラセボ(偽薬/嘘の薬)でもかなりの病気が治ってしまうのである。
南無妙法蓮華経で末期ガンが治った人も少なからずいよう。
だとしたら、唱題(南無妙法蓮華経と唱えること)したら願いがかなうというのは、
いったい果たして嘘になるのか、それとも本当になるのか。
本当であり同時にまた嘘でもあると思う。
唱題して願いがかなった人にとっては、それはその人の真理だろう。
いくら唱題しても願いがかなわない人もいるだろう。
きっとこちらの人のほうの割合が多いと思うが、願いはいつかなうかわからないのである。
人間は死ぬまで願いをいだきつづけることができる。
だから、まだ願いがかなっていないけれど、これからかなうという希望を持てるのである。
法華経の内容は「嘘も方便」――人を救うためなら嘘をついてもよい。
日蓮にとっては唱題すれば願いがかなうという教えを説くことに
つゆ疑いを持たなかったはずだ。
こう教えたら南無妙法蓮華経が広がるから、まずそういう浅い教えを説いておこう。
当時の信者からも唱題しても祈りがかなわないというクレームが来たようである。
日蓮はなんと答えているか。

(願いがかなわないのは、強い武器を持っているのに使いこなせていないのだよ。
どんなに殺傷能力の高い武器を持っていても、臆病な人は人を殺せないでしょ?
そういうわけなのだから、法華経が間違っているとか言っちゃいかん)
「御いのりの叶(かな)い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・
太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて候べし、
あへて法華経の御とがにては候べからず」(P71)


法華経(=嘘も方便)という最強の武器を持っているのにどうして使おうとしないのか?
釈迦は嘘をついてはいけないと言ったらしいが、あれは嘘だと法華経は説く。
釈迦はクシナガラで死んだけれども、あれは嘘だと法華経は説く。
嘘はついてもいいのである。
人並みの容貌の女子に「かわいいね」と言うのは構わないのである。
何度言ってもいいのである。結果として、その子がかわいくなることもあるのである。
自営業者ならわかるだろうが、倒産しないためには嘘がいちばんたいせつだ。
たとえそれが嘘でもお客さんが喜んでくれたらいいではないか。
原価50円の焼うどんを800円で売って客がおいしいと喜んでくれたらそれでOK。
法華経という最強の武器を持っていたら、平気で嘘をつけるようになるのである。
どんな不幸な人も法華経で幸福になるとわたしは断言することができる。
なぜなら「幸福/不幸」というのは自己申告制だからである。
周囲からはどう不幸に見えようが、自分はいま幸福で使命に燃えていると、
自分で自分に嘘をついたら、どんな不幸もこの世から消え去ることだろう。
この法華経の秘密を理解できない信者さんが鎌倉時代も大勢いたのだろう。
「日蓮大聖人さま~、いくら唱題しても願いがかないません」

(信心が足らん! おれは悪くない)
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(P74)

日蓮っておもしろい人だよなあ。法華経を本当に理解していたのだと思われる。
願いというのは死ぬまで願うことができるのである。
願っているあいだは絶望せずにいられる。
もてない男は死ぬまで「彼女がほしい」とご本尊に願えばいいのである。
貧困男性は死ぬまで「金持になりたい」と朝晩、唱題すればいいのである。
もしかしたらジイサンになってからババアに好かれ宝くじが当たるかもしれない。
ほとんどの願いが可能性(期待値)0%ではないのである。
願いが絶対にかなわないとは言い切れない。
願いがかなわないというクレームに「信心が足らん! おれは悪くない」
と答えた日蓮大聖人さまは相当なタマだよなあ。
法華経の行者(業者?)日蓮も信者から金を集めなければ食っていけなかった。
日蓮は法華経という最高の武器を持っているから集金などたやすい。

(命よりたいせつなものはないんだから、命を布施したらかならず仏になれる。
命に比べたら、それより貴重なものはないだろう。
仏法に金を惜しむようなやつは病気になって苦しんで早死にするぞ)
「身命に過たる惜き者のなければ
是を布施として仏法を習へば必(かならず)仏となる
身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、
又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや」(P124)


(命より貴重な宝物はない。
1日でも延命するためなら1億円払っても惜しくないじゃないか?)
「命と申す物は一身第一の珍宝なり
一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(P287)


べつのところではこう書いている。

(120歳まで長生きして汚名を残して死ぬよりは、
あとたった1日しか生きられなくても名を馳せる(有名になる)ことのほうが重要だ)
「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは
生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(P301)


二枚舌ではないかと思われるかもしれないが、これこそ法華経の実践である。
引用は遺族に向けた言葉だから、こう言ってやるほうがいいのである。
「命ほど大切なものはない」と「命より名声が大事」はどちらが日蓮の本音か?
どちらが本当の言葉か? どちらも本当で、どちらも嘘なのである。
法華経は、世界はすべて本当であり同時に嘘でもあるということを説いたお経だ。
日蓮は現世利益レベルの浅い教えから深い教えまでいろいろ説いている。
深い教えとされているのが「諸法実相(しょほうじっそう)」である。

(地獄は地獄だが、そのうち餓鬼の世界に変わることもある。
仏はあるがままに仏だし、凡夫もあるがままに凡夫である。
地獄があり仏がいて世界はいま見えるあるがままそのままで美しく、
すべてがうまくいっていることを諸法実相と言うのだよ)
「地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、
餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、
仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、
万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(P291)


諸法実相とは――。

(「とき」が来れば変化する。
春は花が咲き秋には実り、夏は暑いし冬は寒い。
すべての仕掛け人は「とき」である)
「時のしからしむる耳(のみ)、
春は花さき秋は菓(このみ)なる夏は・あたたかに冬は・つめたし
時のしからしむるに有らずや」(P165)


善が悪になることもあり、悪が善になることもあり、
本当は善悪などないのかもしれないが、しかしあるがままに善悪はあり、
善人がいて悪人がいてそのまんまで世界は美しい。
晩年の日蓮が悟った諸法実相の境地である。
日蓮も秋が冬になるように世界観が変化するのは自然である。
青春の季節の日蓮は自分が絶対正義(絶対善)で迫害者は絶対悪だと思っていた。
しかし、善と悪はあんがいころころ変わることを老いた日蓮は知る。

(いま思い出したことがあるよ。
父親が子のためを思って勉強しないでだらだらしているので木刀で殴った。
殴られた子は父親を嫌いになり、木刀を恨んだ。
彼は長じて出世して人望家になる。
振り返って見れば、父親が自分を殴ってくれたおかげである。
しかし、感謝すべき父はもういないので、
木刀を卒塔婆(そとば)に見立て、父親の供養をしたという)
「いま・をもひ・いでたる事あり、
子を思ふ故にや・をやつぎの木の弓をもつて学文せざりし子にをしへたり、
然る間・此の子うたてかりしは父・にくかりしは・つぎの木の弓、
されども終には修学増進して自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、
立ち還つて見れば・つぎの木をもつて我をうちし故なり、
此の子そとばに此の木をつくり父の供養のためにたててむけりと見へたり」(P173)


かつては悪に見えたものが「とき」のちからにより
善に見えるようになったのである。
もしかしたら善も悪もないのかもしれない。
悪のように見えるものが善で、善のように見えるものが悪かもしれない。
法華経が嘘をついてもいいと言っているのは、一般的に嘘は悪とされているが、
その悪が善に変わることを知っていたからではないか。
いままでの苦難に満ちた人生を振り返って日蓮は思う。

(釈迦にとっては裏切り者の提婆達多(だいばだった)が
いちばんの師匠だったのだなあ。
この年になってわかったのは、
人を成長させるのは味方よりもむしろ敵のほうだったのである。
いま鎌倉幕府の勢いがいいのは、和田義盛と隠岐法皇が敵対したおかげ。
そう考えたら悪だと思っていた敵がじつはいちばんの善で味方ということになる。
ああ、いままでおれを迫害してきたやつら、あのいじめっ子たちの顔を思い出す。
彼らのおかげで仏法をより深く学ぶことができたのだ。
あいつらが懐かしいなあ)
「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、
今の世間を見るに
人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、
眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば
争(いかで)か日本の主となり給うべき、
されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、
日蓮が仏にならん第一のかたうどは
景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば
争(いかで)か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(P183)


いったいどうして自分はこんないじめられっ子のような人生を送ったのか。
なにゆえ迫害され辛いことばかりで、これほど苦しまなければならなかったのか。
いま人生で苦しんでいるものも多いだろう。
心臓の病で苦しくてたまらないものもいるだろう。
むかし足を怪我してボルトが入ったままの人もいるだろう。
低賃金で朝から晩まで肉体労働しなければならないものもいよう。
小さいころに両親に捨てられて、
ずっとひとりで生きていきてこなければならなかったものいるはずである。

(日蓮がこのような困難と遭遇するのは過去世の業(ごう)のためである。
法華経の不軽品に「其罪畢已(ございひっち)」と書いてあるのは、このこと。
其罪畢已とは、来るべきものは来るし、来ないものは来ないという意味。
不軽菩薩がみんなからいじめられたのも過去世の業のせいだ)
「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず
不軽品に云く「其罪畢已」等云云、
不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし」(P242)


過去世の業、つまり宿命により困難に遭遇したらいったいどうしたらいいのか?

(いろいろ不幸が舞い込んできても、
それはもうどうしようもないんだからあれこれ考えるな。
いくら善人だろうが人格者だろうが、おかしな不幸が続くことはある。
そういうときは奥さんと酒でも飲みながら、
南無妙法蓮華経と唱えていたら嵐は通り抜けていくよ)
「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、
賢人・聖人も此の事はのがれず、
ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ」(P195)


あたかも創価学会二代目会長の戸田城聖の指導のようでおもしろい。
よく知らないけれど、いまは戸田城聖の人気はないんでしょ?
三代目会長で現在はSGI会長の池田大作先生はお酒を召し上がらず、
泣き言を口にする学会員さんを叱咤激励してきたようだが、
池田先生の前世でもあった日蓮大聖人はよく泣くやつだったのである。
今回の日蓮大聖人のお言葉の引用は、
ありがたくもすべて創価学会の公式ページからコピーさせていただいたが、
引用外のところもちらちら読むと本当によく泣く人のようなのである。
山田太一ドラマはよく男が泣くけれど、
「泣く男」の原型は日蓮大聖人にあるのかもしれない。
ひどい不幸に遭遇したら泣きながら日蓮のように唱題するのもいいのだろう。
以下に紹介する日蓮大聖人の文章がもっともわたしの好きなところである。

(いろいろ考えをめぐらすと、
いま不幸(流罪の身)だけれども不幸には独特の味わいがあっていいなあ。
人は嬉しいときにも涙を流し、辛いときにも涙する。
涙目で見ると、なにが善でなにが悪だかわからないなあ。
(辛いことは本当に辛いことなのだろうか)[中略]
いまも日蓮は泣いている。
いましんどいのは、南無妙法蓮華経を広めたためである。
法華経を信じたがためにこうなったんだなあ。
いまの苦しみを思うと涙が出てくるし、
しかし未来にはきっとよくなると思うとさらに涙がとまらなくなる。
鳥や虫は鳴くけれど、人間のようには泣かない。
日蓮は鳥や虫のように鳴かないけれど、泣いてばかりである。
この涙は法華経のおかげである。
人間として生まれ困難に遭遇して目いっぱい泣くのは気分がいいものだなあ)
「此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし
うれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり(中略)
今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、
釈迦仏・多宝仏・未来・日本国の一切衆生のために・
とどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、
現在の大難を思いつづくるにもなみだ、
未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、
鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし、
此のなみだ世間の事には非ず但偏に法華経の故なり、
若(し)からば甘露のなみだとも云つべし」(P31)


池田大作SGI会長は泣き言を口にするなと指導しているけれど、
日蓮は「泣いてもいいよ」と言っているような気がする。
池田大作SGI会長は人生で大勝利していつもお元気だが、
日蓮の人生は自分のためや相手のために泣いてばかりだったと思う。
池田大作SGI会長は戸田城聖という師がいたけれども、
日蓮に師匠のようなものはおらず、
ひとりぼっちで泣きながら南無妙法蓮華経を創造している。
池田先生と日蓮大聖人のどちらが正しいのかはわからない。

(英雄と大悪人は同時に現われる)
「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」(P88)

COMMENT

東方不敗 URL @
10/24 11:57
民衆の桂冠詩人. お仕事お疲れ様です。

次は、池田先生の「詩集 人生の旅」を読んでみてください。(リクエストなので読まなくても無問題!)


お互い威風堂々と行きましょう!
Yonda? URL @
10/24 13:33
東方不敗さんへ. 

近所の学会員さんに頼んで、うちのポストに入れておいてくださいよ。
ピンポンで玄関に出るのはめんどくさいのでいやです。
名無し URL @
10/27 18:12
. ホイットマン的雄弁に拒絶反応起こしそうな人に、名誉会長の詩集を勧めるとか…

相手の個性とか性格とかを考えて勧めてるのか疑問

Yonda? URL @
10/30 00:39
名無しさんへ. 

つきまといが始まっちゃったんですけれど、
どうしたらいいですか?
わたしFですよ。許してください。ごめんなさい。
わたしが悪かったです。

いま今月の記事を大量削除しましたが、
このくらいでどうでしょうか?
もう少し消しましょうか? ご指導ください。
- URL @
11/08 00:21
. この書評だと、悟りによってアイデンティティーを作るんじゃなく、
他者への憎しみでアイデンティティーを作ることを奨励してるようにしかとれないけれども。
大丈夫?
Yonda? URL @
11/08 09:33
匿名へ. 

日蓮信者は自らアイデンティティーを率先して放棄するものでは?
匿名との議論は嫌いなので、これ以上の対話はなし。終わり。以上。








 

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