「寺山修司からの手紙」

「寺山修司からの手紙」(山田太一編/岩波書店)

→若き日の寺山修司と山田太一の往復書簡――ということになっているが、
読んだ感想は、これはまるで女学生の交換日記のようなものである。
恋に恋するのはいまでは女子小学生くらいだろうけれど、
当時は大学生の男子が恋に恋していたのかと思うと微笑ましい。
恋のみならずふたりの友情もどっか芝居がかっているのである。
友情ごっこを男ふたりで演じているようなところが見られる。
だが、そもそも友情とはそういうものだという見方もできる。
いまでは小学生でも知っていそうだが、人間関係はほぼまあ利害関係である。
人は利益がある人とつきあい、損害が出そうな相手からは離れていく。
そういう現実(本当のこと)をまだ知らないもの同士のみが友人関係になれるのだ。
幼くなければ無知でなければ、友情も純愛もうまく演じることができない。
世の中はかなりのところ「金、顔、肩書」でおおよそすべての人間関係は利害関係だが、
このことに気づいてしまったら友情も純愛も噓くさいこと甚だしい。
むかし世間のことをまるで知らない男の子ふたりが友情で結ばれたことがあった。
ふたりは世間のことのみならず男女のこともからきし知らなかったから、
とてもいい純愛(片想い)をすることができた。
本書はそういう意味での記録的価値はあるだろう。
結果的に寺山修司も山田太一も大物になったから
この「女学生の交換日記」にもなにやら芸術的な価値が出ているだけで、
寺山や山田というネームを剥奪したところではありふれた民俗学的資料になる。

山田太一青年の文章から、のちの成功を予想させる輝きはまるで感じられない。
どう好意的に解釈しても山田太一は大学生時代、
当時どこにでもいそうなインテリ学生のひとりであった。
人並みに恋をして、人並みに失恋をした。大きな恋も、大きな失恋もしなかった。
好きだったマルキシストの女の人が
恋人の共産党員に処女をささげたという噂を聞けば、気持は動揺しまくりで、
しかし自分は論理的にはまったく破綻していないというようなことを、
文学作品を引用しながら親友モドキに論理的に書きつづる男の子であった。
事実関係を確認する。
最初、大学生の寺山修司は「兎(うさぎ)の目」をする石坂和子に恋をした。
山田太一は「豹(ひょう)の目」をするマルキシストのマヅルカ(国分)に恋をする。
が、そのうち寺山はマヅルカ(国分)のよさに気づき惚れるようになり、
山田は寺山の好きだった石坂和子に恋をして、大学卒業後数年を経て結婚する。
若くして世に出た寺山はその後、映画女優と結婚したが別れた。
晩年はハーレムの首長のようだったという。
その寺山ハーレムの第一位の女奴隷だったのが田中未知で、
本書は「山田太一編」となっているが実際に編集したのは寺山の女性盲信者である。
無名の寺山修司は石坂和子から愛されなかった。
有名になってから寺山修司はみながあこがれる映画女優と結婚した。
有名文化人になってからの寺山修司は、老いた映画女優はポイ捨て。
有名人のもとには若い女の子が近づいてくるものだが、
そのうちもっとも自分の奴隷としてふさわしい田中未知を重宝した(かわいがった)。
有名人というネームバリューは、若い女体とつりあいを保つのである。
しつこいが、人間関係は利害関係。「金、顔、肩書」が人生のすべてといってよい。
だからこそ「金、顔、肩書」ではない友情や純愛がこうも尊ばれるのであろう。

凡庸な山田太一青年はマルキシストの女性に精神的=盲目的な恋をしていた。
しかし、あるとき精神的なるもののうさん臭さに気づく。

「「わたしは一束の紙を眺めた。
それは一握りの毛髪よりも個性がなかった。
髪ならば唇や指で触れることができるのだが、私は精神には死ぬほど倦き倦きした。
わたしは彼女の肉体のために生きていたので、
彼女の肉体が欲しかった」(G・グリーン『愛の終り』)
僕は前に、これを読んだ時、これは観念的な無理をしている、
事実に反している、と思った。
失った女の髪――そんなものより、
手紙や日記の方が、ずっと僕を慰めるだろう、と思った。
しかし、今、僕は、よくわかる。僕は髪が欲しい。ワラエ、ワラエ」(P151)


ああ、大笑いしたね。学生時代の恋愛や友情には生活が入っていない。
生活とは損得関係、利害関係のことである。
利害や損得がないからこそ、学生時代の友情や片恋慕は美しいのだろう。
大学生の山田太一青年は寺山修司が好きな石坂和子を好きになった。
このことを山田は友人の寺山に嬉々として報告する。
親友の好きな女の人を好きになるほど、友情ごっこを体感できることはないのではないか。
以下、山田太一が寺山修司にあてた手紙。

「「わたし、口に出さずに、わかってもらうのが好きなのよ……」(『チボー家の人々』)
僕も愛していることを、口には出さずに三宮[石坂和子]さんにわかってもらいたかった。
その方が、あからさまに求愛するよりは君への罪が軽いように思えた。
銀座の田園[レストラン]はいっぱいだった。二時間いて出た。
ボワ[レストラン]へ行って小海老と牡蠣(かき)の料理を食い、
新橋まで歩き、品川で別れた。
「人はだれかに誠実であれば、
だれかを裏切らねばならぬ」(福田恆存『ホレイショー日記』)
僕は感傷的になって、何故愛してしまったのか、などと思った」(P167)


「金、顔、肩書」の利害関係ならぬ純粋な関係を一般的に友情や純愛というのだろう。
人が友情や純愛にあこがれるのはそういう理由からであろう。
それほどに人間関係というのは突き詰めれば打算的な関係に終始するともいえよう。
社会人になったら友情も純愛もまずないと思ってよい。
個人的な体験を話すと、会社の上司というのには本当に参る。
会社の上司、つまり権力関係上相手が上になるから人は人にヘイコラする。
しかし、そういう事情をわかっていない人は、年上の部下にプライベートの説教を始める。
この本を読め、この映画を観ろ、こう生きろ、おれの助言を聞け。
部下は上下関係上しぶしぶ従っているのに、
上はビジネスではなく友情関係かなにかだと思っている。
しまいにはあるイベントに年若い上司は年上の部下を誘う。
あくまでも自分は相手よりも上だから相手の事情など知ったことではない。
自分から誘っておいたくせに
直前まで相手に連絡せず相手の時間を目いっぱいに奪っても一向に構わない。
なぜなら自分は上司だからだ。相手よりも上にいるから、下の相手にはなにをしてもいい。
社会人になってからの人間関係などこんなものである。それが当たり前だ。
だから、そうであるからこそ、学生時代の友情や純愛は美しいのだろう。
友人関係も恋愛関係も一皮むけば利害関係(損得関係)にすぎぬ。
このため本書のような「女学生の交換日記」はいまとても美しく思えるのではないだろうか。

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