「夕暮れの時間に」

「夕暮れの時間に」(山田太一/河出書房新社)

→大御所テレビライターの山田太一氏の最新エッセイ集を読む。
山田老人は食堂でむかしあった相席を懐かしく思い出す。
山田青年は相席で、他人の話を盗み聞きするのが楽しかったという。

「それほどくっきりしたものではなくても、他人の人生は面白かった。
学校の交際とはちがう世間を覗(のぞ)く機会が
その店の相席ぐらいしかなかったのである」(P105)


山田太一は他人の人生の面白さに敏感である。

「以前、筑豊から福岡まで乗ったタクシーの運転手(私と同じ齢だった)が、
俺の人生の楽しみは金を貯めてはフィリピンへ女を買いに行くことだと、
その体験を心からいつくしむように話し続けて、話がうまかったせいもあるが
次第に見上げるような気持になってしまったことがある」(P24)


「見上げるような気持」になるところがいい。
謙虚ぶっているわけでもなく、おお、
と思わず自然に他人を見上げたくなってしまうところがいい。
他人の人生は面白いが、自分の人生はどうだろうか。
いまの浅草を浅草を歩きながら、山田老人は思う。「現実は、つまらない」――。
浅草のどこかにいまはなき父の愛人でもいてくれて、
その人から生前の父の話でも聞けたらどんなに面白いと思うが、現実はつまらない。
しかし、いまの世界も老人にとってはそう悪いものでもない。

「もういくらも生きていないのだから、嫌いな人を好きなふりをすることも、
多少癖のように残っているだけである、
そのように人生から少し遠離(とおざか)ったせいか、
自然も人間も街も、細かな差違が気にならず、
すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
視野の広い感傷に溺れることができる」(P46)


80年の変遷を山田老人は裸眼で見続けてきたのである。
表面上の美醜や個性にとらわれない「視野の広い感傷」を
持ったっていいじゃないかと思う。
しかし、個別ブースに分かれたインターネットカフェにはさすがに感傷をいだけない。
むかしの相席の面白さを知る老人はインターネットカフェにゾッとする。

「ここまで一人一人かよ、と勝手な話だが、息詰まるような思いをした」(P106)

「ここまで一人一人」に現代の日本はなってしまったのである。
人間は一人一人孤独というむき出しの現実にどう対処したらいいのか。
せめてなしうることはなにか。それぞれが幻想をつくっていくしかない。
人はいろいろな幻想を支えにして生きている。

「……それぞれが、それぞれのやり方で
「究極の現実」にそっぽを向いて幻想をつくり出している。
そして、なんとか元気に生きていこうとしている。
むき出しの現実が力を露(あら)わにしたらひとたまりもない。
しかし休止期間がある。その間だけ、
きびしくなればたちまち吹きとばされてしまうような幻想をささえに生きている。
それを誰が笑えるだろう」(P68)


人間は孤独で、そして死から逃れられないという「究極の現実」がある。
だが、「ここまで一人一人かよ」という一人地獄からちょっと開放されるときがある。
見知らぬ人から微笑を送られたら、少しやわらかな気持にならないか。
ならば、どうして自分も人に穏やかに微笑みかけない。
微笑みかけられたら、次は手を差し伸べてみたらどうだろう。

「困っている人を助けることは、その人の日々も豊かにするはずだ。
「人に迷惑をかけない。かけられたくもない」
という生き方はそれぞれの孤独を深めるだけだ」(P220)


もちろん、親切がお節介にすぎないことも老作家はよく知っている。
善意の押し売りのような親切は迷惑だろうが、
その迷惑を受け入れなかったら、
「ここまで一人一人かよ」というようになってしまうのではないか。
けれども、山田太一は普遍性のあることをいわない。
微笑や親切は絶対に善であるとは思っていない。
いらいらしている人には他人の微笑がけったくそわるく感じられることが
あることにも気を配る。
幸福などという言葉は非常に普遍性の強い言葉といえよう。
山田太一は幸福はそれぞれがぞれぞれの流儀で感じるもので、
「幸福とはなにか」といったかたちで論じるものではないのではないかと主張する。
しかし、そういったそばからそれを否定する。

「どうせ幸福は理不尽不平等に散らばっているから、
自分が手に出来ない身近の幸福に圧倒され、嫉妬や不公平でつぶれないために、
感じる前に論ずる人が出てくるのも、
案外切実な生理に発しているのかもしれない」(P11)


幸福は感じるもので論ずるべきではない、といったような普遍的なことはいえない。
昭和41年の9月に山田太一は来日したサルトルの講演会に行ったという。
人生の転機のときだった。
映画会社の松竹を辞めて、テレビライターとして独立することを決めたころだ。

「大学のころはサルトル、カミュの時代で、
それから八年もたっているから熱気は薄れていたはずだが、
顔や声に接したかったのかなあ、と思う。
著者というものは、著作がよければよいほど会うとがっかりするものだと思っていたし、
顔を見たいなどという欲求はあまりないつもりだったが、
なんとか切符を手に入れて出掛けたのだから、
学生のころの「神」の力は大きかったのだろう。
ほとんどなにを聞いたか、これも忘れているが、
ヴェトナム戦争に反対しなければいけないというのが主旨だったと思う。
一つだけ残っているのは、普遍性を手に入れたなどと思ってはいけない、
手に入れたと思うような普遍性は大抵偽物(にせもの)だというような言葉で、
これはずっと説得力をもって私に作用している」(P101)


普遍性とは「すべての物事に通じる性質」のことである。
人間とはこうだ、人生とはこうだ、と決めつけるのが普遍性で、
その反対は、人生はそれぞれで人間もそれぞれだと認めることになろう。
人それぞれとはバラバラということだから人は孤独にもなろう。
人それぞれはバラバラで孤独だが、
そういう究極の現実にそっぽを向いてなんとかそれぞれの幻想をつくり出し、
そして、なんとか元気に生きていこうではないか。
人はそれぞれ宿命性のようなもののためにそれぞれ異なっている。
普遍性のようなものはなく、人はそれぞれだが、
そのそれぞれの宿命性を、差違を、
「視野の広い感傷」に溺れながら、すべてがすばらしく、いじらしいなどと、
うららかに愛するような日が、たまにならあってもいいのではないか。

「それぞれが他の人間とはちがう限界と可能性を持っているからこそ、
人生は豊かにもなり、悲しくも苦しくも喜びにもなり、
陰影も深みも味わいにも恵まれるのではないだろうか。
誰かに文句をいいようもないそれぞれの宿命性は、
人間の持つ宝だと思う」(P240)


持って生まれた宿命は転換するのもいいのだろうが
(そもそも転換できるのならそれは宿命ではないことになるけれど)、
その宿命を嫌悪するのでもなく、闘って大勝利する対象とするのでもなく、
それぞれに与えられた宿命を宝として遇するという生き方もあるのだろう。
そうしたほうがいい、そうすべきだという普遍性の問題ではなく、
そういう生き方、考え方もあることを著者は示唆している。

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