「もうひとつの春」

昭和50年(1975年)にTBSで放送された全13回の連続ドラマをジェイコムにて視聴。
50分×13回だから約11時間。
放送されたのはたしか去年のはずだが、いままで見る時間がなかった。
いざ決心して見たら見たらでおもしろくて、泣いたりわめいたり叫んだり、
要約したら「山田太一ドラマはすげえ」という感動を十全に味わったしだいである。
昭和50年といったら、こちらが生まれる1年まえだが、おもしろいものはおもしろい。
ボキャブラリーには自信があったけれど、「お持たせ」という言葉は知らなかった。
相手の家を訪問するとき、食品の手土産を持っていく。
それをその客にそのまま出すこと、出したものを「お持たせ」というらしい。
「つんぼ桟敷」くらいの言葉は知っていたが「お持たせ」は初耳だった。
このドラマはいまの自分が見るのにもっとも適していると思うくらい
わが現状とタイムリーにリンクしているところがあり、
どんなドラマにも見るべき「とき」があることを知る。

「もうひとつの春」は山田太一らしいひねくれたドラマである。
ふつう春というと華々しいイメージがあるのではないか。
少なくとも冬よりは春のほうがプラスのイメージがあるだろう。
しかし、このドラマの春は一般的に明るいそれとは異なり、まこと暗い話なのである。
見ていて何度も胃がきりきり痛くなった。
ドラマの最初で変化が訪れる。ある会社が倒産するのだ。

主人公のひとりは50歳の男性(小林桂樹)。鉄鋼工場の現場主任。
技術一筋の現場主義で27年間働きつづけたじつに男らしい人物である。
この50男を慕う同工場勤務の20代前半の若者がいる(小倉一郎)。
若者の父親は3年まえに蒸発しており、いまは母とふたり暮らしで共稼ぎである。
父親がいなくなった若者は男らしい男にあこがれているところがあり、
このため仕事一筋の工場の現場主任を勝手に尊敬しているのである。
50男がどのくらい男らしいかというと、態度の悪い工員をよく殴りつけるのである。
おれは27年間、この会社でまじめに働きつづけた。
きちんと働かない生意気な工員は本人のためにも殴りつけ矯正してやったほうがいい。
ところが、ある日突然に会社が倒産してしまう。
こうなると上司も部下も、なんにもなくなってしまう。
若い工員たちはどうするか。復讐をするのである。
むかしぶん殴られた仕返しに工員たちは50男をボコボコにする。

これってかなりすごい「本当のこと」を描いているのではないかとゾクゾクした。
会社というのは組織であり、組織というのは上下関係である。
組織は上下関係がなくてはうまく回転しない。チームワークも実相は上下関係だ。
上下関係とはどういうことか? 上は下になにをしてもいいのである。
いまはパワハラとかいう言葉があるけれど、あんなものはきれいごとでしょう?
どこの会社だって暴力沙汰に近いことはけっこうあるような気がする。
会社のなかでは上は下を殴ってもいいのである。おとがめはない。
ここまでは一般常識の範囲内だろうが、もし会社がなくなったらどうか?
あるいは下のものが会社という組織を離れたらどうか?
このときかつて殴られた上を殴り返せるやつと、
会社の外でも上司にあたまが上がらないものにわかれる。
大半は後者ではないかと思われる。
「会社の顔」(ペルソナ)が自分の顔になっており、
いまは上下関係もない人にもどうしてかペコペコしてしまう。
「もうひとつの春」で50男をボコボコにする工員はじつに男らしく格好いい。
群れてひとりの男を殴るのはちょっとどうかと思うが、
それでも会社が倒産しても上司にビクビクしているようなやつよりもよほどいい。

50男を慕っていた若者(小倉一郎)は、
小林桂樹が若い工員など蹴散らすのではないかと期待する。
ところが、50男は無抵抗に殴られているだけだ。
これではあんまりだと思って若者はかつての上司を助けようとするが、
逆に小倉一郎も小林桂樹といっしょに工員たちから制裁を受ける羽目になる。
これが縁となって若者と50男のあいだにプライベートの交流が生まれる。
この疑似父子関係がドラマ「もうひとつの春」の主軸といってよい。
山田太一ドラマがゾクゾクするほどリアルなのは、作者が意地悪だからだろう。
若者はあっさり就職が決まるが、50男には仕事がない。
仕事がなくなった無職の50男を若者は、
そう思ってはいけないと思いながら思ってしまう。
あれだけ堂々としていた男らしい小林桂樹だが、仕事がなくなったら「みすぼらしい」。
会社人間は「会社の顔」しか持っていないのである。
会社人間は「会社の顔」で家族関係も親戚づきあいも友人交際も押し切ろうとする。
「あなたはどこの会社に勤めているか」で男というのは階層(身分)が決定するのである。
いい会社に勤めているものは偉い。会社組織のなかで上にいるものは偉い。
近所づきあいもふくめて世間は「会社の顔」で渡っていくことができるのである。
逆にいえば、会社から離れた人はどんな威厳も持ちえない。
ひとたび会社をクビになったら、だれもその人を相手にしてくれなくなるようなところがある。

かつてはとても偉そうだった勤続27年のパワハラ50男は、
「支店長代理」という肩書をもらって小さな焼き鳥屋に勤め始める。
男は仕事だ。男は仕事をしなければならないからだ。
とはいえ現実は「支店長代理」といっても、焼き鳥のお土産の売り子である。
工場では仕事ができた50男も、焼き鳥屋となると客寄せの言葉ひとつ出てこない。
50男はおそらく大卒だが、
焼き鳥屋のいかにも低学歴そうな年下の先輩にいびられまくる。
おまえ、こんなこともできないのかよ。
明らかに向いていない仕事なのだが、小林桂樹は辞めようとしない。
仕事ができない50男は女主人からも年下の小僧からもバカにされまくる。
現実は、こんなものなのである。
いま大会社の部長だって、いざ販売業の売り子をやらせたら手も足も出ない。
威厳があり部下に暴力を振るった男らしい男も、
慣れない仕事に就いたら年下の小僧や
女風情(*放送当時は女性差別がありました)から嘲笑されクズあつかいを受ける。
かつての部下だった若い小倉一郎は早々とスーパーに就職が決まったが、
若者はかつての上司が焼き鳥を売るすがたを見て辞めてくださいと言いたくなる。
しかし、こんなものなのである。人間はこんなものなのである。

不況のあおりを受けて50男は焼き鳥屋さえクビになってしまう。
努力して独自の売り方を考案しつつあったのだが、それでもクビになってしまう。
あれ? 努力したら人生うまくいくんじゃないの?
しかし、人生はこんなものなのである。こんなものなのである。
50男は数年まえに妻を亡くし、いまは娘とふたり暮らしである。
ちょうど男の夢、マイホームを建てたところであった。
かなり大きな家だが、二階は娘が結婚したらそこで暮らしてくれたらいいと思っている。
ところが、娘が結婚したいと言いだした相手の男はミュージシャンなのである。
仕事一筋でまじめな50男の小林桂樹がいちばん嫌いなタイプの若者である。
ミュージシャンが「お嬢さんをください」と言いにくる。
むかしだったら強く出られた50男もいまは無職である。失業者だ。
いっぽうのミュージシャンはいまとても羽振りがいいようだ。
若僧から「仕事を紹介しましょうか」と舐められてしまう50男である。
いいか。男というのは仕事だ。肩書だ。いくら稼いでいるかだ。
そうだとしたら、このミュージシャンのほうが自分よりも上ではないか。
しかし、よりによって娘はこんな男と結婚したいというのか。
「親か恋人か」というのも、このドラマの時代を反映させるテーマである。
現代でも親が反対する結婚なんてあるのだろうか?
しかし、当時はひんぱんにあったようで「親か恋人か」はドラマの重要なテーマになった。
小倉一郎も母親に恋人との結婚を反対され、「親か恋人か」で葛藤している。
なぜ母親が息子の結婚に反対するのかといったら、
水商売をしてきた娘さんだからである。

50男はさんざんな目に遭う。
勤続27年の会社が倒産し、焼き鳥屋もクビになり、そして娘が恋人と駆け落ちしてしまう。
おれの人生はいったいなんだったんだ。おれは正しく生きてきたではないか。
まじめにこつこつひとつの会社で働き、結婚して娘を育て、マイホームまで建てた。
それがどうだ。これが人生というものか。
いまは職も家族もない、近所の主婦から陰口をたたかれる一介の失業者に過ぎぬ。
いや、男は仕事だ。男は仕事をしなければならない。
小林桂樹は営業の仕事をかつての部下に世話してもらう。
見たこともない別荘地を口八丁手八丁で売りさばく飛び込み営業の仕事だ。
そこは軍隊式で売り上げの棒グラフが貼られ、
上司は暴力的に仕事のできない社員を締め上げる。
この軍曹のような上司さえ完全な悪人として描かず、
ある面では人情味のある人物として描くのだから、山田太一の人間描写はすばらしい。
仕事ができない小林桂樹は鬼軍曹から虫けらのようなあつかいを受ける。
もういやだ。おれという男にもプライドがある。
娘も自分は自由だといって男と駆け落ちした。
焼き鳥屋では懸命に努力した男らしい小林桂樹だが、営業の仕事は1日で辞めてしまう。

どうも現実味がないのだが、50男は家を売った金で、
親しくなった小倉一郎の母親とスナックをやろうなどと考え始める。
そこに会社と家族を捨て蒸発していた小倉一郎の父親が帰ってくる。
男と男、差し向かいで話してみると、たしかに落ちぶれてはいるが、
自分とは異なる味のあるいい男といえなくもないのである。
なんにもない小林桂樹はスナック経営もあきらめ(小倉一郎一家に託し)、
自由律俳人の山頭火のように放浪の旅に出る。
まじめに会社のために働いても、人生こんなもの。
まじめに家族のために働いても、人生こんなもの。
「もうひとつの春」は「男はつらいよ」よりもよほど「男はつらいよ」をうまく描いている。

なにしろ11時間もあるドラマだから、
いろいろ論じることができるがいまこちらの時間がない。
ひとつ気になって、これだけは指摘したいというのは、人が人を好きになるということ。
自分の好きな女がべつの男を好きだったら、そのとき男はどうすべきか。
小林桂樹は小倉一郎の母親に惹かれているけれど、旦那が帰ってきたので身を引く。
小倉一郎の友人が好きなのは小倉一郎の恋人である。
だが、女が小倉一郎のことを好きなのを知り友人は自分の気持を抑制する。
好きな人に好きな異性がいたら人はどうすべきなのか?
その人を本当に好きだったら、その人の「好き」を尊重するのではないか?

さて、結局、人生なんてもんは仕事、結婚、育児、家族くらいしかないのである。
人間、ほかにすることもないから仕事をして、結婚して、子づくりしているとも言いうる。
まあ、みんながしているし、大衆はほかにすることもないからねえ。
結果として仕事は善、結婚は善、子育ては善、家族は善ということになっている。
人は仕事をすべきだ。人は結婚すべきだ。人は子育てすべきだ。家族はいい。
みんなまあよくやっていると思うし、
そういう庶民のほかにすることもないし、
というどうしようもなさを山田太一はじつにうまくドラマに仕立てあげる。
「相手の幸福」と「自分の幸福」のはざまで悩みながら生きていく庶民の美醜を、
山田太一は本当に巧みに描写する。
山田太一は庶民のドラマを描いているが、庶民とは金である。
「もうひとつの春」では金を渡すシーンばかりが目についた。
これはこちらがことさら金に敏感だからではなく、
実際に金をやりとりするシーンがとても多いのである。人情とは金だ。現実は金だ。
「人生は金だ」と描いたら本当に近くなることをドラマ作家は熟知していた。
金をほしがるのも庶民だし、あえて金をこばむのも庶民である。

11時間かけて見たドラマの感想を1時間半で思いつくままに書いた。
読み直していないので誤字脱字は山のようにあるだろう。
まあ無報酬で書いているし、テレビドラマの感想ならこの程度でいいと思う。

COMMENT

みずほ URL @
09/15 02:44
. 拝読してみて、小林桂樹は娘がミュージシャンを連れてきて駆け落ちしたあたりから何かが吹っ切れたのかな、というような印象を受けました。お金のやり取りがどのようなシーンで行われているのか観てみたくなりました。
Yonda? URL @
09/21 19:17
みずほさんへ. 

お金がほしい。おれを愛してくれる女がほしい。








 

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