「フロイトとユング」

「フロイトとユング」(小此木啓吾・河合隼雄/第三文明社/レグルス文庫)

→創価学会員さんとおなじで人の噂話やゴシップが大好き。
この対談本によると小此木啓吾の両親が日蓮大聖人を信仰していたというから、
おそらくかのフロイト学者の両親は創価学会(あるいは日蓮正宗)。
第三文明社の本らしく河合隼雄も飛ばしている。
ユングは新興宗教の教祖のようにハーレムをつくっていたらしいね。
性的関係もある女性の弟子がユングを取り巻いており、
ときには女弟子のあいだで教祖のユングをめぐって
髪の毛をつかみあうような喧嘩もあったという。
河合によると、フロイト派の精神分析とユング派のそれの違いは明瞭。
本人はアメリカで聞いたジョークだと言っていたが、
フロイト派の分析を受けると金持になり、
ユング派の分析を受けるとアーティスティック(芸術家的)になるらしい。
とにかくまあ、精神分析というのは物語なのだと思う。
ある心身の不調が出ているときに、
フロイトの場合はその原因はこれでこの原因をこうしたら治る、
という理論(本当は物語)をこしらえたのだろう。
治療者がその物語をつよく確信していると患者にも物語が伝染して治ってしまう。
ユングの場合は厄介で、
患者の心身不調は個性化への道だという理論(物語)をこしらえたわけである。
しかし、個性化とは要するにオンリーワンになれってことでしょ?
個性化とは、自分にこだわれということだから、変人への道と言ってもよかろう。
河合隼雄は数年おなじクライエントと逢うのはざらだったというが(ヤブ疑惑!)、
この治療を終われないというのもユング理論(物語)の個性化と関係している。
河合隼雄は言う。

「とにかく、個性化ということには終わりがありませんから、
そこに焦点を合わせると、
どこで分析を終わるかということは、難しいんです。
単純にいってしまえば、本人が自己分析可能になれば、
やめてもいいということになります。(……)
さっき小此木さんがいわれましたけれど、医学的に治っていって、
その人が自分の個性的な人生を生きていくときに、
社会の最大公約数的な規範とはずれても、むしろ当たり前なんです。
だから、病的なものは除かれていくんだけれども、
生きていく困難さが生まれてきて、
それを終わろうとするのは、大変、難しいですね」(P161)


ふつうの人が個性的な人になったら、それは変人ということだから、
周囲とうまくやっていけなくなってしまうのである。
だったら、大量の金と時間をかけて個性化なんてしないほうがよかったとも言えるわけで。
みんなといっしょにテレビでも見て笑っているのがいちばん健康な状態なのである。
河合隼雄の心理療法ってもしかしたらクルクルパー養成所だったのではないか。
というのも氏の心理療法は5年くらい平気でかかるというし、
5年後には変人になっていて社会性や協調性を喪失しているのだから。
個性的な人ほど日本社会で嫌われる存在はないのではないか。

「日本の場合には、極端な言い方をすれば、
一番危険なことは創造性(クリエイティビティ)を持っていることなんです。
創造性があるということは、全体の平衡状態をこわしますからね。
皆さんと同じということが一番よいことであって、
皆さんと同じだが、ほんの少しできる、
しかもそれは皆さんのおかげであるというのがよいわけです」(P214)


河合隼雄によると、ユング派はメチャクチャらしい。
弟子のあいだでも意見の一致などまったくなく喧嘩ばかりしている。
弟子によってがらりと主張が異なるらしい。
そのくせみんながみんなこれはユングの言っていたことだと主張する。
ユングの弟子は個性的な人が多いとも、
社会性の欠けた連中ばかりだとも言えよう。
ペルソナ(仮面/肩書)よりも本当の自分(セルフ/無意識)を重んじたのがユングである。
でもさ、明らかに本当の自分なんかより肩書(ペルソナ)のほうが重要でしょ?
ほんもののユング派の精神分析を受けたら、
常識人でさえ反社会的な狂人に近くなってしまうのかもしれない。
ユング派は「なんでもあり」だと河合隼雄は言っている。

「ユングには無意識の創造性に対する信頼感があって、
その考えを推し進めていくと、
既成の枠組みをこわしていくところがあります。それでたとえば、
ユングは同時代の他の人たちよりも女性のことをよく取り上げるんですが、
それでもやはり男は男らしく、女は女らしくという考えがどこかに残っています。
女性がアニムス的[一言居士/いちげんこじ]になるのを嫌うわけです。
ところが、それだっていいじゃないかともいえるわけでしょう。
それからユングは男性の同性愛を非常に嫌ったと、
アンソニー・ストーが書いていますが、本当かどうかは分からないところです。
ユング派の中には、同性愛は治さなくてもいい、
それはそれで存在意義を持っているという人も相当いますからね。
また、たとえばマスターベーションを罪悪視する人がいるけれど、
マスターベーションの元型は一人二役をするわけですから、
両性具有的な全体性(トータリティー)のシンボルという
考え方もできるんじゃないかといっている人もいます。
そういう意味で、無意識の元型的なことを考えると、
いろいろな人がいろいろなことを考えだすことができます」(P66)


一行でまとめたら、いろいろな人が考えだすいろいろなことが、
それぞれ当人にとって意味があり、
そのそれぞれがそれぞれにとって「正しい」というのがユング思想なのではないだろうか。

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