「図説 あらすじでわかる 日本の仏教とお経」

「図説 あらすじでわかる 日本の仏教とお経」(廣澤隆之:監修/青春新書INTELLIGENCE)

→2000年に大学を卒業したけれど、いまはわかりやすい本が多いような気がする。
大学時代に本を読んでもわけがわからない書物ばかりだった記憶がある。
まさかこちらのあたまがよくなったはずはないから(年々劣化している自覚あり)、
あまりにも本が売れないから出版社もさすがに難しい本はよくないと気づいたのか。
本書もじつにわかりやすくお経を軸とした日本仏教の流れが解説されている。
専門教育を受けていないので意外と穴が多く、こういう本には助けられることが多い。
仏教はそれぞれが中心をどこに置くかで見え方が変わると言ってよい。
べつにどこに中心を据えてもいいのが仏教の寛容性、多様性であろう。
日蓮を中心に仏教を見てもいいし、それが釈迦でも親鸞でも池田大作でもいいと思う。
もっともだれを中心に仏教を見るかでだいぶ見方は変わろうが、どれもきっと「正しい」。
わたしは踊り念仏の一遍を中心にして仏教を見ているところがある。

一遍はいろいろ都合がいいのである。
というのも、一遍はあの好戦的な日蓮とも仲がよかったという伝説があるからである。
一遍は法然、親鸞とおなじ南無阿弥陀仏だから、浄土教系とも手を組める。
すべてを捨てて釈迦のように貴賤を問わずに教えを説いたのは日本では一遍だけでは?
釈迦絶対主義者にも、一遍は釈迦にもっとも似ているのではないかと言える。
一遍は鎌倉新仏教の教祖のなかで唯一(当時の東大)比叡山出身ではない。
エリート意識がないところも万人に愛されるだろう。
一遍は、自分の教えを信じなくてもいいと言ったほどの世を捨てた人である。
なにを言いたいかというと、一遍を中心に据えると釈迦信者から新興宗教信者まで、
おなじ仏教徒であると喧嘩をしないで済むのである。どっちも「正しい」よねえ。
河合隼雄の好きだった明恵は法然を批判したけれど(おれは絶対正しい!)、
一遍はとくにだれも批判していないのである。
教団をつくる意図はまったくなく、一遍存命時の時宗(時衆)は、
ただの落ちこぼれの(いまならタレントを目指すしかないような)男女が
カリスマ性を持った狂僧につきしたがっているだけだった。

本書で知りえた豆知識を書き残しておく。まあ、どうせすぐ忘れるんだけど。
仏教を勉強する目的って、知識を増やすためではないのね。
自分の信仰(信心)を深めるためにわたしは仏教を独学している。
仏さまを信じるってこたあ、人間、人生なんか思うようになんないぞと知るこったあ。
将来のことも善悪も、ことの是非も仏さまにお任せするしかないと信じる。
いちおう念仏の系譜はこういうことになっているらしい。
まずはじめに俗人の教信とかいうおっさんが
畑仕事をしながらひとりごとのように念仏した。
下層民が念仏しているのをたまたま放浪中に聞いたのか、
国家公式僧侶の空也が死体処理をしながら、南無阿弥陀仏という教えを説く。
偉い源信さまが「往生要集」で念仏往生を理論化する。
あれこれ勉強したけれど確信を得られなかったエリート僧の法然が、
中国のマイナーなお坊さん(善導)の書いた本の一文に感激して、
文字も読めぬ下層民の民間信仰にすぎなかった南無阿弥陀仏を
学問的に「正しい」と選択する(このとき法然は43歳)。
師匠・法然の威光を借りた田舎坊主の親鸞が師匠の口真似で念仏を広める。
念仏の流行に嫉妬した無師の日蓮が南無妙法蓮華経こそ「正しい」と宣言する。
仏教ではなく神道の熊野の神から啓示を受けた一遍が、
もうなにもかも捨てて今日1日だけでも踊りながら念仏してみんなで楽しもうぜ、
と実践する。みんなで踊り狂い、その日暮らしの非日常生活を楽しんだ。
一遍が尊敬していた先行者に、どマイナーな融通念仏宗の良忍がいる。

「この良忍は融通念仏宗の開祖である一方、
天台声明(仏教音楽)の中興の祖でもある。
念仏に節をつけて歌う「声明念仏」の天才的演奏者だったのだ。(……)
良忍が阿弥陀仏から直授したのは、
「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」
という偈(げ/韻律文の経文)だった。
一つとして単独に存在できるものはない。
すべてはたがいに因となり縁となり、関連しあって存在しているという意味である。
これを受けた良忍は、一つを取れば、全体が包含され、
全体のなかに一つが含まれるという『華厳経』の教えを念仏によって実践」(P88)


「華厳経」にはわたしも興味があるんだ。こうして仏教がつながってゆく。
考えてみたらこの本がよくわかるのは、10年仏教を独学してきたからなのかもしれない。
わたしは一遍も「華厳経」も河合隼雄も好きだ。
ことさら「正しい」とは思わないけれど、好きなものは好きだ。

「『華厳経』は、そもそも釈迦の成道二十七日に説かれた説法で、
「すべての仏の教えはことごとく華厳より出て華厳に帰する」と述べられている。
「大方広仏」とは時間と空間を包含した宇宙全体にはたらく仏のことで、
「一微塵(みじん)のなかに全世界が反映し、一瞬のなかに永遠の時間がふくまれる」
という「無尽縁起(むじんえんぎ)」と、あらゆるものは縁によって起こり、
宇宙の万物はたがいに妨げることなく関係しあって無限に生成発展していく」
という「事事無礙(じじむげ)」を根本思想としている。
すべてを個々別々の異なるものと認識する、
われわれの常識的な立場ではわからないが、
あらゆる現象の真相はたがいに無限に重なりあって、
生命が活動する一つの世界を形成している、と華厳の哲学は説くのである」(P47)


常識を捨てられたらどれほど楽になるか。
一遍は禅の師匠からも印可(いんか/認定証)を受けているという伝説がある。
一遍を仏教の中心に置いたら、禅(ヨガマニア)とも反目せずにいられるのである。

「不立文字(ふりゅうもんじ/真理は言語では伝達不能)」によって
文字やことばの限界を示している禅宗は、それだけいっそうことばを大切にする。
臨済[りんざい/中国の坊さん]はあらゆる立場や名誉、
位などから解き放たれた自由闊達な人間をさして「無位の真人」とよんだ。
「真人は汝らの面門より出入す。看よ、看よ」
と修行者に迫る臨済の指導は、自己の本源を否応なく問い、
真実の自己(真実の人間性)を自覚せずにはおかなかった」(P132)


おれは名誉会長だ、地区部長だ、朝日だ、講談社だ、大学教授だ……えええ、本当?
本当のあなたはそのペルソナ(肩書)とはべつのところにあるんでないかい?
そういうものをすべて捨ててみたらなにが見えてくるだろう?
一遍、河合隼雄、ひろさちや、ユング、みんなが言っていることである。
このうち、おそらく「常識を捨てる」を実践できたのは一遍だけだろうが。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4244-8df56104