「[図解]いま、ブッダに学ぶ」

「[図解]いま、ブッダに学ぶ」(ひろさちや/ワック)

→東大卒の小谷野敦さんがわざわざ、ひろさちや(こちらも東大ね)の本を読んだという。
よくさ、あれだけプライドの高い小谷野さんが
ひろさちやの本なんて手に取ったものだと驚く。
パラ読みしただけで、ひろさちやはあれな本を書く人だってわかるでしょうに。
もしかしてわたしは小谷野さんから相当に気にかけてもらっているのだろうか。
それなのに、なんてわたしは悪い子なんだろう。
まえにも書いたが、いぜん知り合いに金は自分が出すから、
小谷野さんの主催する猫猫塾に一緒に行こうと誘われたことがある。
「えええ、なんかいやだなあ」とありがたいお誘いを断ってしまった。
でもまあ、ひろさちやの愛読者だけれど、
こちらの先生の講演会にも行ったことがないから平等。
小谷野さんは売れっ子仏教ライターのひろさちやがお嫌いらしいけれど、
それを知ってもわたしはどうとも思わない。そりゃそうだよなあ、というか。
わたしだって、ああ、恥ずかしいと赤面しながらひろ氏の本を読んでいるくらいだし。

よく「いいかげんに生きよう」とか脱力系の癒しエッセイを書く人がいるけれど、
そう言う人は概して書くものと「中の人」が違って、本人はまじめなのである。
しかし、ひろさちやさんは本を数冊読めばわかると思うが、
本当に「いいかげん」を地で生きているところがある。
氏の神仏レベルの粗製濫造ぶりが
「いいかげん(氏によるとこれがブッダのいう中道らしい)」を見事に体現している。
ひろさちやはわたしにとっていちばんの仏教の先生だが教祖ではない。
教祖ではないから、だれかがひろ氏を批判してもヘッチャラ。
信者は教祖が批判されると感情的になって怒るでしょう。あれは怖いよねえ。
ひろさちやは創価学会嫌いだが、
学会員さんもさあ、名誉会長をひろさちや程度にみなしたらいいんじゃないかな。
よく聞くけれど、学会員のなかにもアンチ池田って多いんでしょ?
「王者の池田先生」ではなく「まーた池田センセったら」ていう感じ。

この本でも、まーたひろセンセったら飛ばしまくっている。
この受賞歴ゼロの仏教ライターの弟子でも信者でもないけれど、
わたしはひろさちや先生が好きである。
しかし、だれかにひろさちやの本をすすめたいとは思わない。
こんなくだらないの読んでいるの、とバカにされたらいやだも~ん。
ひろさちやはお釈迦様誕生時の「天上天下唯我独尊」をこう解釈する。

「よく勘違いされるのですが、この「天上天下唯我独尊」とは
「お山の大将おれ一人」という意味ではありません。
「私の説くのは、宇宙の真理である。世の中でいわれている、
何が正しいかといったような相対的な真理ではない」という宣言なのです」(P8)


世間でいわれている「正しい」ことなんて、
時代によっていともかんたんに変わっちゃうもんねえ。
真理なんて人間には見えないのかもしれない。
さて、みんなお釈迦様の弟子になったわけではないのである。
悟ったのちのお釈迦様を本物だと見抜けなかったウパカという修行者がいたそうだ。
ウパカはお釈迦様に質問する。

「ウパカは「あなたはなかなかいい顔をしている。
おそらく何か真理をつかんだに違いない。あなたの先生はいったい誰か」
と尋ねました。すると、
私は誰に教わったわけではない。師なくして私が真理を悟ったのだ」
とお釈迦様は答えました。
要するに無師独悟(むしどくご)ということをおっしゃいました。
すると、ウパカは「そうかな」と首を振りながら去っていった……
と経典に記されています。
古代のインドでは、真理というものは「誰に教わったのか」が大事だったのですね。
現代の日本でいえば、立派なことを話す人に
「あなたはどこの大学を卒業したのか」と問い、
「大学にはいっていない。中卒だ」という答えが返ってきたら、誰も信用してくれない。
それと同じです。お釈迦様が「自分に先生はいない」
といった途端に、相手から信用されなかったわけです」(P9)


ひろさちやさんも仏教をだれか先生から教わったわけではなく独学。
どうでもいいわたしのことを話すと、こちらも教育機関で仏教を学んだことはない。
先生の弟子になってしまうと、よほど器の大きな先生に当たらないかぎり、
先生の解釈がほぼ絶対的に「正しい」ことになってしまう。
いくら先生とはいえ、人間ごときが絶対的真理などつかめるはずはないのだが。
そして、先生を「正しい」と思うと、自分の真理を探そうという気がなくなってしまう。
ただただ先生の教える知識を記憶することが仏教を学ぶことになってしまう。
それは違うと「無師(先生がいない)」のひろさちや氏は言う。

「知識を積み重ねたところで仏教はわかりません。
信じるか、信じないか、そこのところが問題なのです。
「信じる」というふうに深めていかないと、どんな話を聞いても、
「ああ、そうか」とうなずくだけで、何の意味も持たなくなってしまいます」(P11)


真理を他人から教えてもらおうなんて、甘い、甘い。
真理はそれぞれがそれぞれに解釈(言語化)することができるが、
真理そのものはだれにも教えられないのではないか。

「そもそも真理というものは、言語化できないのです。
極端にいえば、言語化したとたんに真理が真理ではなくなってしまう。
そこまでいえると私は思います」(P12)


しかし、それでは本にならないし、ひろさんに印税が入らないから、
いちおうのところ氏もお釈迦様の悟った真理とされる縁起(えんぎ)を
以下のように簡潔に解釈(言語化)している。

「縁起とは物事に原因なんてないということ」(P36)

「「原因はない。縁があるだけだ」ということを別の言い方で表現すると、
「ありとあらゆるものが絡み合っている」ということでもあります」(P39)


「物事に原因がないのだから[=縁起]、原因はわからない。
ならば、解決しようと考えても意味がありません。
だって、わからないのだから、解決しようがないでしょう」(P41)


「何のために仏教を勉強するのか。仏教のために仏教を勉強してください。
喧嘩した。原因はわからない。
それさえわかればいいというのが仏教なのです」(P41)


「仏教=喧嘩した。原因はわからない」

どれだけ「わからない」ことをわかっているかが仏教の要諦なのかもしれない。
未来のことはわからない。他人のことはわからない。
「真理は人間ごときにはわからない」ということをどのレベルまで理解したか。
わたしの現在のレベルは「お経の意味はわからない」が理解できたくらいのところかしら。

COMMENT

東方不敗 URL @
08/19 23:16
. フィロソフィア!








 

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