「宝積経」

「宝積経」(長尾雅人・荒牧典俊訳/世界の名著「大乗仏典」中央公論社)

→「宝積経」はマイナーな初期大乗仏典。中道の教えを説いたとされる。
小乗仏教を批判して蹴散らそうとしたのが大乗仏教グループである。
小乗仏教は釈迦の言葉は絶対的に「正しい」と信じて修業していた団体である。
ふつうに考えたら、釈迦の伝統を正しく受け継いでいる小乗集団には勝てないでしょ。
けれども、大乗仏教にはあたまのいいやつがいて小乗の論理を打ち破ったのである。
どのようにして「正しい」小乗を大乗は打ち壊したか。
釈迦は中道(ちゅうどう)の教えも説いていたではないかと大乗は主張したわけだ。
みなさまご存じでしょうが、いちおう説明すると、
釈迦は出家するまえ王子だったから贅沢三昧の生活を経験している。
一方で出家してからは苦行三昧の修行をしている。
結局、釈迦は菩提樹の下で贅沢も苦行も意味がなく中道がいいと悟った。
この中道をどう解釈するか、なのである。
わたしはこの中道を「どっちも正しい」という意味だと思う。
贅沢三昧するのも楽しくて「正しい」し、
苦行をするのも自分を鍛える(自信をつける)という意味で「正しい」。
釈迦が菩提樹の下で悟ったことは「どっちも正しい」(中道)であった。
快楽も苦行も「どっちも正しい」。
ひっくり返せば、快楽も苦行もどちらも絶対的に「正しい」わけではない。
中道の意味は、絶対的に「正しい」ものなどないということ。
みんな「正しい」し、みんな誤っているし、真実はよくわからない。
もしこれが中道の意味だとしたら、
釈迦の言葉を絶対的に「正しい」と信じて修行している小乗は
開祖の教えを理解していないことになってしまうのである。
釈迦の教えが中道(「どっちも正しい」「絶対的に正しいものはない」)であるならば、
釈迦の遺訓を守って「正しい」出家修行をしている小乗集団はおかしい。
先輩や古株がやたら威張っている保守的な小乗仏教は乗り越えられるべきだ。

中道=「どっちも正しい」をみなさまにご理解いただけるか自信がない。
やっぱりみなさんなにか「正しい」ものがひとつあると信じていますでしょう?
AとBが喧嘩していたら、そのどちらが「正しい」のか知りたくなってしまう。
人間は「正しい」ことがない状態になかなか耐えられない。
しかし、偉大なブッダは「正しい」ことがないことをおそらく悟った。
なにか「正しい」真理を男は悟ったのではなく、
「どっちも正しい」こと、「みんな正しい」こと、「正しいことはないこと」を
クソ熱いインドの大地で瞑想しながら悟ったのだと思う。
みなさん「正しい」ことがないなんていう状況に耐えられないでしょう?
しかし、ブッダは「正しい」ことがないことを腹の底から悟ったのである。
「どっちも正しい」(中道)は「空(くう)」でもある。
美人もブスも、富豪も貧者も「どっちも正しい」(空)のである。
「どっちも正しい」こそ中道であり空であり無分別智といえよう。
たとえば、無常という思想が仏教にはある。
常なるものはなく、万事が変転するという希望でもあり絶望でもある。
どんなにいま幸福でもいつかそれは崩れるし、
よしんば泣き叫びたいほどの不幸に遭遇しても
15年後には人生と折り合いがついているかもしれない。
無常というのは相対的という意味である。無常の反意語は絶対(恒常)だろう。
大乗仏教の新発明は人間釈迦を絶対者にしたところにある。
無常と絶対(恒常)は相反するイデオロギー(思想)である。
世界が無常ならば恒常はないし、世界に恒常が存在すれば無常は嘘偽りになる。
しかし、「どっちも正しい」のである。世界は無常であり恒常でもあるのである。
「宝積経」でブッダは釈迦の高弟、迦葉(かしょう)に中道の教えを説く。
迦葉は小乗仏教の古株である。

「カーシヤパ[迦葉]よ、恒常であるというならば、
これは一つの極端論(辺)であり、カーシヤパよ、
無常であるというならば、これはもう一つの極端論である。
これら恒常と無常とのふたつの間の中正なものは、
形をもたないもの、見られないもの、あらわれ出ないもの、
認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。
カーシヤパよ、この(ように観察する)ことが中道、
すなわち存在についての真実の観察と言われる」(P203)


「存在についての真実の観察」は「どっちも正しい」ものとして見ること。
さて、話が難しくなりすぎたでしょうか。
現代の問題にもつながる話題を仏典がしているので紹介する。
いまなお「脳か心か」という問題がある。
心を病むなどという表現をするが、心はどこにもないのである。
精神疾患はすべて脳機能の異常とも言えなくもない。
しかし、薬品でよくならない精神疾患が心理療法で改善することがある。
いったい心というのは存在するのか。すべては脳機能の正常・異常なのか。
唯心論、唯物論、唯脳論などと言われている現代でも解決していない問題だ。
これに初期大乗仏典の「宝積経」はどう答えているか。

「カーシヤパよ、心は実在するというならば、これはひとつの極端論であり、
心は実在するものではないというならば、これももうひとつの極端論である。
カーシヤパよ、思惟(思)もなく、意(マナス)もなく、認知(識)もないところ、
カーシヤパよ、これが中道であり、存在についての真実の観察である」(P204)


心は実在するも、心は実在しないも「どっちも正しい」のである。
矛盾した状態をそのままあるがままに直視することが中道なのであろう。
どちらも正しくないし、いや、どちらも「正しい」。
いまあるがままの矛盾した状態でそのままそのまんまで「正しい」。
涅槃(ねはん/欲望の消滅)も「正しい」けれど、
煩悩(ぼんのう/金銭欲、出世欲、性欲)もまた同時に「正しい」。

「カーシヤパよ、、またたとえば、大きな都城の中では(いやがられる)
糞尿(ふんにょう)の山であっても、
それが甘蔗(かんしょ/サトウキビ)や米やぶどうの田畑では、有効な肥料となる。
それと同じように、カーシヤパよ、菩薩(ぼさつ)に煩悩はあっても、
それが、一切知であることに対しては有効な養分となる」(P202)


善は「正しい」けれども、悪もまた「正しい」のである。
善も悪も「どっちも正しい」=中道=空(くう)。
絶対的に「正しい」ものはないならば、善も悪も見かけ上のものである。
善悪を識別する心が実在するかどうかでさえ「正しい」ことはわからない。
そうだとしたら、どうして悪が悪であると言い切れようか。
悪は善であり、善は悪であり、善も悪も「どっちも正しい」。

「カーシヤパよ、たとえば肥料を含んだ泥池(どろいけ)に蓮(はす)の花が咲く。
それと同じように、カーシヤパよ、煩悩の肥料を含んだ泥池であり、
絶対に悪性を断ち切れない生きとし生けるものの中でこそ、
菩薩にそなわった仏陀にふさわしい性格が生長する」(P210)


悟り澄ましたような小乗の坊さんよりも、世俗の悪人のほうが仏性がある。
悪いことはしてもいいし、悪いことを言ってもいいのである。善人ぶるなよ。
大乗仏典「宝積経」にも見ようによってはひどい悪口が書かれているのである。
おまえ、それを言っていいのかと思わずギョッとしたくらいである。
小乗の坊主どもへの罵詈雑言である。

「たとえば王の麗わしい王妃が乞食の人間と一緒に寝て、
それによって王妃に息子が生まれたとする。
しかし、その王子は王になることはできないだろう。
それと同じように、声聞[小乗部仏教徒]たちは、
欲望からの自由は得ているが、決してわたくしの子として灌頂(かんじょう)
の儀式を受けるにあたいするものではない。
なんとなれば、彼ら[小乗仏教徒]は、
自らのしあわせのためにのみ修行するのに反し、
仏陀のこどもは自と他との両者のために行なうからである」(P211)


ものすごい差別意識ではありませんか? ひでえ悪口というか。
小乗の人たちを乞食の子どもだと中傷しているわけだ。
まるで創価学会みたいだが、ならばかの団体は大乗仏教の精髄ではないか。
善も悪もない大乗は小乗の悪口をこれでもかと言うのである。
自画自賛もまことに俗物的でおもしろい。

「カーシヤパよ、たとえば、王の第一の妃に王子が生まれると、
生まれたその瞬間に、富豪や庶民や国民や町の役人などすべてが礼拝する。
それと同じように、カーシヤパよ、はじめて発心した菩薩を、
神々をはじめとする世間の人々は礼拝する」(P2133)


小乗は乞食の子どもで、自分たち大乗は王さまの子どもであると言っている。
どうして王さまの子どもは偉いんだろうと考えてはいけないのである。
我われとて成功者の二世は無意識ながら重んじているではないか。
「宝積経」は偽善を排して「本当のこと」を言っているのだろう。
以下の説法は創価学会の池田大作名誉会長のようで笑えた。
池田SGI会長は、末端の信者をほめて幹部を叱ることで知られている。
そうしたほうが組織はうまくまわるという集団力学に通じているのだろう。
ブッダは「宝積経」でこう説いたとされている。

「カーシヤパ[古株]よ、たとえば、新月は祭儀によって敬われるが、
満月であればそれほどたいせつには敬われない。
それと同じように、カーシヤパよ、わたくしを信仰する人々は、
より以上に菩薩を礼拝すべきである。如来をではない。
それはなぜか。如来は菩薩からこそ生まれるからである」(P214)


「宝積経」ではブッダの説法を聞いていた古株集団(長老)が怒ったとされる。
この説法の場から500人の長老が去って行ったというのだから。
しかし、「法華経」のケースとは異なり古株集団はブッダのもとへ戻ってくる。
長老たちは愚かにも自分たちは先輩で年齢的にも釈迦に近いから
「偉い」「正しい」と驕(おご)っていたのである。
釈迦の「正しい」言葉をより多く聞いた自分たちは「正しい」と誤解していた。
「宝積経」によれば長老(古株、先輩)は「偉い」わけでも「正しい」わけでもない。
なぜならブッダの説いたのは中道で、
それは「どっちも正しい」という意味なのだから。
一度脱会した長老たちは再試問を受ける。
「長老がたよ、あなたがたのお師匠はどなたですか?」
彼らはどう答えたか。まだ人間釈迦を信じているのか。
「長老がたよ、あなたがたのお師匠はどなたですか?」

「その人はこの世に生まれているのでもなく、
悟りの世界(涅槃)にいるのでもありません」(P228)


長老たちは「正しい」師匠がいないことを認めたわけである。
すなわち、中道を悟ったということである。繰り返すが、
中道とは「どっちも正しい」「みんな正しい」
「絶対に正しいものはない」という意味である。
善も悪も「どっちも正しい」(中道)。善も悪も存在しない(空)。善悪を分別するな。
大乗仏典は酔っぱらいのたわごとのようなところがある。
しかし、酔うのは楽しいから酔眼で世間さまを睥睨(へいげい)するのも悪くない。

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07/16 20:54
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