「仏教の思想と歴史」

「仏教の思想と歴史」(長尾雅人/世界の名著「大乗仏典」中央公論社)

→まったく期待しないでつまらなかったらすぐにストップするつもりで
学者による本書の解説を読んだら、これがわかりやすくおもしろいのである。
本当になにかを理解していたらわかりやすい文章で説明できるはず。
このわたしの信念を長尾雅人氏は証明してくれたようなものである。
長尾雅人の本は1冊積ん読しているから、いつか読んでみようと思う。
批評や批判をする気はまったくなく、ただ氏から教わったことを紹介したい。
ここで問題になるのが「教わる」という行為である。
果たして仏教学者の長尾雅人氏が優秀だからわかりやすい解説をできるのか。
というのも、一般人はたぶん氏の文章を読んでも意味がわからない気がする。
もしかしたら、せんえつながら読み手のレベルが少し上昇したから、
氏の仏教解説のすばらしさをわかるのではないか。
そもそも人は人に言葉でなにかを教えられるのか。
これが長尾氏も指摘していることで、
あるいは釈迦はなにも説法しなかったかもしれないのである。
結局、真理は人それぞれのようなところがあり、
その百人百様の真理はそれぞれがそれぞれの研鑽のすえに気づくしかない。
もしかしたらブッダの悟った真理とはこのことではないか。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。

わたしの文章よりも長尾雅人氏の解説である。
こちらもどこかでそうではないかと思っていた氏の解説を紹介したい。
釈迦は菩提樹の下でなにを悟って仏陀(ブッダ/目覚めた人)になったのか。

「仏陀はここで、すでに真理を見た。しかし、それを説くことはできない。
真理は説かれるべきではない。
「ことば」に対する非常に大きな不信、疑惑がそこにはある。
はたして人間のことばによって、真理が伝えられうるのか。
ふつう、人々は安易にわれわれのことばに信頼をおいている。
わたくしはすべてを語ったし、彼はそれを了解した、と考えている。
はたしてそうなのか。そこに誤解はないのか。
砂糖の甘さは、
人々がおのおの冷暖自知(れいだんじち)しなければならないのではないか。
甘さをことばや概念で説明するのは非常にむずかしい。
われわれの日常の経験においてすでにそうである。
いわんや、究極の真理を、ことばや概念の中に盛りこみうるであろうか。
ことばではあらわしえないもの、ことばで伝えられないものを、
「不可思議」とか「不可説」とかという。
不可思議とは奇跡のことではない、思惟を越えたもの、思惟しえないものをいう。
したがって、それはことばや概念をもって説くことのできないものである。
あるいは概念的に説いてはいけないものである。
なんとなれば、誤謬(ごびゅう)を犯さなくては概念の世界に
真理をもちきたらしめえないということがあるからである。
語ればおのずから誤謬を犯し、人々の誤解を招く。
したがって仏陀は沈黙を守ろうと欲した。
仏陀のこの沈黙は、そのまま「空」につながる。
「空」とは、あらゆる概念設定の否定である」(P17)


甘さは味わってみるほかなく、人に言葉では伝達できないと氏は書いている。
同様、辛(から)さ辛(つら)さも本人が味わってみないとわからないものである。
たとえば、子どもに死なれた悲哀はもう言葉にできない領域である。
母親から目のまえで飛び降り自殺されるのも、おそらくそうであろう。
言葉にできない不可思議な領域というものが世界には絶対にある。
これがブッダの悟った真理のひとつであったとは著者とわたしの共通見解である。
信じられないような不幸から人は救われるのではおそらくあるまい。
自分で自分を救うしかない。
新興宗教もいいのだろうけれど、あれはいつか麻薬効果の切れる時期が訪れる。
ブッダが言ったとされる有名な言葉が以下である。

「わたくしに対する尊敬から、
わたくしのいったことをそのままうのみに認めてはならない。
師のことばであっても、試金石にかけるようにして吟味すべきである」(P21)


「師弟不二」こそブッダがいちばん嫌いなものだったのかもしれない。
師匠に奴隷のように仕えるのは本当の師弟関係ではない。
師の言葉でさえ疑って、自分のあたまで考え、自分の真理を見つけよ。
もしかしたらこれがブッダの教えだったのかもしれない。
そうだとしたら、仏教にあまたの経典や注釈があるのはとてもいいことである。
ブッダの本当の教えを理解した人たちが、
それぞれのブッダを表現したということなのだから。
真理は教わるものではなく、
自分で、自分のあたまで考え、自分の真理を発見するしかない。
あの有名なエピソードはまさにそのことを物語っているではないか。
愛する子どもを亡くした母がブッダに生き返らせてくださいと相談に行った。
ブッダはどう答えたか。
「芥子粒を数粒持ってきてくれたら、その赤ん坊を生き返らせてみせよう。
ただし、その芥子粒はいままで一度も死者を出したことのない家からもらってくること」
悲しみで半狂乱の母親は家々を歩き回ったが、
いままでに死者を出したことのない家はどこにもなかった。
このとき亡児をかかえた母は、「人はみな死ぬ」という真理を悟る。
母親はブッダから真理を教わったわけではなく、自分で悟ったのである。

ブッダは真理は伝達不能なことを真理であるとみなしていたのかもしれない。
しかし、ブッダの死後、弟子たちはそうは思わなかった。
ブッダの言葉こそ「正しい」という教条主義におちいってしまった。
ブッダにより近い古株ほど偉いという上下関係の定まった保守社会である。
いまでいえば先輩の言うことは絶対に「正しい」という体育会系の乗りである。

「このような傾向が、いわゆる小乗時代、守旧保守の時代というものを生み出した。
仏陀の説いたことばを、一字一句も変えることなくまもり通して
後代に伝えようとするのが、弟子たちの真摯なねがいであった。
これら弟子たち、そのまた弟子たちの間にも、すぐれた学者や高僧はいた。
しかし彼らは、仏陀にそむいたり、仏陀を越えて、
より高い境地を切り開こうとしたのではない。
ひたすら、仏陀の示した高いレベルをそのまま維持しようとしたのである。
しかし、このことが結果的には、堕落沈滞の空気を醸成し。
独創性のないマンネリズムへ陥ることになったのである」(P28)


古株や先輩の言うことは絶対に「正しい」という保守的集団である。
ちょっとでも先輩に逆らおうものなら、殴られても文句は言えない。
古株は古株だから「正しい」、「正しい」ゆえに後輩に暴力を振るってもいい。
新しい芽のようなものが出てきたら、
それは秩序を崩すものだから(上が上ではなくなる)徹底的に排除する。
先輩が「今度おれに逆らったらぶん殴るから覚悟しとけよ」
と後輩を威嚇するのみならず、実際に暴力もあったであろう仏教世界である。
どうして古株や先輩はそんなに偉いのだろう。
小乗仏教の厳しい縦社会における底辺で、そんな疑問がわきあがる。

「さて、小乗の小乗たる所以(ゆえん)は、守旧保守というところにあった。
これは、経典の解釈を固定させ、
戒律の条文を一定不変のものにすることにほかならない。
それに反して、より進歩的な人々は、条文の文字や当面の意味よりも、
その裏に隠れた仏陀の真意を知ろうとし、より自由な解釈を与えようとした。
それが大乗とよばれる運動である」(P32)


大乗非仏説というものがある。
大乗仏教はブッダの説いた教えではないから仏教ではないという批判である。
だが、もしブッダの悟った真理が以下のようなものであったらどうなるか。
繰り返しになるが、もう一度確認のため書く。ブッダが悟った真理――。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。
そうであるならば、ブッダの言葉を盲目的に順守する小乗こそ仏教ではない。
他人の言葉に依存するのではなく、
自分のあたまで考えたことを真理として表現した大乗こそ本物の仏教ではないか。
著者の長尾氏も大乗仏教が好きなようで、
以下のような大乗擁護論を紹介している。
4~5世紀のインドの論書にある言葉だそうである。

「この大乗という崇高な教えを、
仏陀でなくてだれがいいったい説きえようか」(P34)


ブッダの言葉うんぬんと言っているものは肩書に目がくらんでいるのである。
あの人は大学教授だから、言っていることは「正しい」。
反対にあの人は時給850円のパートだから主張は信じられない。
成功者の言葉なら真実で、失敗者の言葉なら信用に値しないようなもの。
しかし、世俗ならぬ聖なる仏教世界もそれではいけないのではないか。

「仏陀の説であるからこそ真の教えなのではなく、
大乗が真の教えであるからこそそれは「仏説」である、というこの論理は、
われわれには奇妙に感じられるかもしれないが、
これこそ大乗教徒の信念であった。
このとき、仏陀というのは、小乗教徒が考えるようなシャーキヤムニ[釈迦/釈尊]
ひとりではない。十方の宇宙に浄土があり、仏陀がまします。
仏陀とは文字どおり「悟れるもの」である。
「悟れるもの」以外に、だれがこの教えを説きうるものぞ。
だから大乗は「仏説」なのである」(P34)


わたしはお経は好きだけれども、論説(解釈)はあまり読む気にならない。
経は天才が発明したもので、論はしょせん秀才の仕事だからであろう。
仏教初学者は(わたしもそうだったが)解説書ばかり読みたがるものである。
だが、いきなり経の世界に飛び込んでみると、わからないが、
そのわからないところに独自解釈の余地があっておもしろいのである。
大乗の世界でもまず経が出てきて、次に経を解釈する論の時代になる。

「論の時代は、最初は経の時代に重なっているが、
のちには論の時代が独立してくる。
経の時代はいわば独創的なアイディアの時代であり、
論の時代はそれの組織化・体系化の時代である。
しかし、注釈に注釈を重ねる論の時代が長く続くと、
オリジナリティに富んだ思想は枯渇してくるのが一般の傾向らしい」(P44)


危険なことを言うと、新興宗教はオリジナリティに富んだ「経」の世界だと思う。
伝統仏教なぞ「論」の集積に過ぎず、まったくおもしろくもないし人を救わない。
宗教の原初・根本は論理ではなく、狂騒なのだと思う。
しかし、あれは人迷惑なところがあるからなあ。
もしブッダがいまの日本の創価学会を見たら、
うーん、ああいうのもありというか、いいんじゃないかって言うような気がする。
みたび繰り返す。おそらくブッダが悟ったとされる真理は――。
1.真理は言葉で伝達できない。
2.真理は人それぞれである(貴族の真理と貧農の真理は異なる)。
3.絶対的真理のようなものがないこと、それが真理である。

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07/15 22:33
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07/16 00:48
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