「裁かれた捏造報道」

「裁かれた捏造報道 創価学会に謝罪した『週刊新潮』の大罪」(前原政之/潮出版社)

→事実を報道する、真実を報道するというのは、どういうことなんだろう?
たとえば喧嘩が起こったとするでしょう。双方、言い分があるわけである。
MとTが喧嘩をしたとする。MがTに暴力を振るった。
この場合、いちおうはMが悪いということになってしまう。
二度、喧嘩があって二度ともMのほうがTに暴力を振るった。
Tはいっさい手を出さなかった。この場合、Mは一方的に悪いのだろうか。
TがMに暴力を振るうように仕向けたかもしれないのである。
しかし、ふつうは暴力を振るわないだろう。やはりMは悪いのか。
ものごとをべつの角度から見てみよう。なぜMとTは喧嘩をしたのか。
周囲の影響もあるのではないか。周囲がMにTの悪口をさんざん吹き込んだ。
TがMの悪口をさんざん言っていますよ、とかあることないこと。
Tも周囲からMの悪口を聞かされていたかもしれない。
Mはまえにも暴力事件を起こしている。
Mは金持のドラ息子でさんざん甘やかされて育ったが、親の七光りで威張っている。
周囲がMとTの抗争をあおったのだとしたら、いったい悪いのはだれになるのだろう。
喧嘩のきっかけは偶然のことが多いが、故意か故意でないかというのもわからない。
意図してやったかどうか、である。
たまたま肩が触れ合ったのか、それとも故意のタックルなのか。
本人もわからないケースというのもあるのではないかと思う。
で、この場合、最終的にどちらが「正しい」のか決めるのは第三者である。
社会的にこの第三者はマスコミ(新聞、テレビ、雑誌)と称されている。

マスコミはボランティアで報道をしているわけではない。
利益を追及している企業であることには違いがない。
ならば、当然お客の支持を受けなければならない。
大多数である大衆が好むような物語を提供するのがマスコミとも言いうる。
大衆は善と悪がはっきりしたわかりやすい物語を好む。
たとえば、政治家は悪人で無辜(むこ)の民は苦しめられている、といったような。
ボランティアをしただれそれは善人で多くの人が救われている、といったような。
本当は善も悪もよくわからないのかもしれない。
なにが「正しい」のかよくわからないのかもしれない。
しかし、それでは大衆は納得しないのである。
そして、大衆がなにより求めるのはおもしろい物語である。
わかりやすく、かつ、おもしろかったら、こんなに最高なマスコミ情報はない。
大衆や庶民は退屈な「事実」(ってなにという問題がまだわたしにはわかっていない)
よりも、「ははーん」とうなるようなわかったような気分になる、
おもしろいその日いちにちだけでも気分が愉快になるような記事を好むのだ。

本書で印象的だったのは創価学会と日蓮正宗のある事件である。
このふたつの団体は長いこといがみあっている。
創価学会の幹部と日蓮正宗の僧侶が交通事故を起こしたそうだ。
結果、日蓮正宗、大石寺の僧侶が死んでしまったらしい。
交通事故の場合、警察の所見が「正しい」ものとされる。
警察の判断では非は一方的に大石寺の僧侶にあったという。
大きく対向車線をはみ出して反対側の道路に行ってしまった僧侶が悪かった。
保険会社もそういう判断をくだした。
しかし、「週刊新潮」は創価学会幹部が大石寺の僧侶を殺害したと報道する。
正しくは「大石寺「僧侶」を衝突死させた創価学会幹部」――。
まるで創価学会幹部に非があったような「事実」を捏造した報道である。
これに対して創価学会サイドの著者は「週刊新潮」の非を責める。
いったい「事実」や「真実」はどうだったのだろう?
そもそも交通事故というのがよくわからない。
あれは1分1秒の差で偶然に出会わなければ起きない事故でしょう?
あんなもの是非(善悪)もなく運が悪かったとしか言いようがないと思うのだが。
そして、わからないのが創価学会である。
どこまで創価学会の権力は浸透しているのか。
まさかないと思うけれど、万が一にも創価学会と警察が通じていたら、
交通事故の「事実」はいったいどうなるのか?
保険会社と創価学会はどのような関係にあるのか?
「事実」や「真実」っていったいなんだろう?
元「週刊新潮」のジャーナリストK氏はこう言ったという。

「いうならば『週刊新潮』のレポートは、事実の報道というよりは、
〝いくらか事実の混じったエッセイ”、あるいは〝フィクション”に近い」(P128)


これは「週刊新潮」のみならずマスコミ全般に言えることではないか。
テレビニュースは「いくらか事実の混じったバラエティ」でしょう。
新聞記事は「いくらか事実の混じった大衆好みの客観的文章」でしょう。
雑誌は「週刊新潮」のみならず、どこもそんなもんではないかという気がするけれど。
いちばんの問題は、引用文の出どころが「創」という創価学会系の雑誌なのである。
K氏は元創価学会員だったのではないかという疑いが芽生える。
あるいは現学会員かもしれない。
どちらにしろ学会関係者の発言であることは疑ってもいいと思うのである。
おなじく創価学会系の雑誌「潮」で「週刊新潮」の「生みの親」S氏がこう語っているそうだ。

「うちの基本姿勢は〝俗物”主義でした。人間という存在自体がそうでしょう。
どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女……それが人間なのですよ。
だから、そういう〝人間”を扱った週刊誌を作ろう……
あっさりいえばただそれだけでした」(P138)


繰り返しになるが、創価学会系の雑誌「潮」におけるインタビューが引用元だ。
いったい創価学会というのは、なんなのだろう。
ぶっちゃけ、わたしの病的妄想だろうが(そうに違いない)、
いまのバイト先もSGI(創価学会)のにおいがプンプンするのである。
新入りと古株が異様なほど仲良く話していたり、
職場以外のコミュニティがあるとしか考えられない。
わたしは現在のところ創価学会シンパだから、そういう職場で働くのは抵抗がない。
むしろ和気あいあいとしたいい職場にめぐりあったと思う。
しかし、もし創価学会が関係していないとしたらわからないことが多すぎる。
創価学会っていったいどういう組織なのだろう。
いまは二世や三世が大勢いるわけでしょう?
生まれてからずっと創価教育を受けてきて大きくなった人たち。
今日たいへんご迷惑をかけてしまった社員さんも、創価学会要人とおなじ名字なのだ。
まさかまさかの話で、すべてはわたしの病的妄想だとわかっているからご安心を。
結局、「正しい」ってなんだろう。「事実」や「真実」ってなんだろう。
こういうことをいまもいま今日この瞬間に考えさせてくれるという意味合いにおいて、
著者はそれほど尽力した仕事ではないのかもしれないが、
いま7月15日午後6時のわたしには名著であった。

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07/14 23:56
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07/15 00:05
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