「臨済録」

「臨済録」(入矢義高:訳注/ワイド版岩波文庫)

→禅の典籍は「無門関」を読んだことがあり、あれはまったくおもしろくなかったので、
まったく期待せずに唐の禅僧・臨済の言行録である本書を読む。
そうしたら「臨済録」は非常に刺激的でおもしろかったのである。
臨済(りんざい)が理想としたのは「無位の真人」である。
これはどういう意味かというと、訳注者によれば、
「いかなる枠にもはまらず、一切の範疇(はんちゅう)を超えた自由人」のこと。
本書のメッセージを簡潔に言えば、
禅における悟りとは自由になることだ。もっと自由になれ。
自由になるためには、どうしたらいいか。自分を信じることだ。
自分を信じるとは、どういうことか。
「正しい」教えを他人や本に求めず、自分の目でものごとをよく見てみろ。
釈迦はだれか師匠から悟りを教わりブッダになったのではない。
釈迦は自分こそブッダ(目覚めた人)であると信じたとき悟りを開いたのだ。
悟りを開くとは迷いがなくなることだ。迷いがなくなるとはどういうことか。
迷いが吹っ切れるとは自由になることだ。
ふたたび、どうしたら自由になれるのか。だから、自由になるには自分を信じろ。
師匠に教えを乞うな。自分こそブッダであると信じるのが自由の意味である。
悟りを開き、自由になったことはどのような行為でわかるか。
いきなりちゃぶ台をひっくり返すやつは自由だ。
過激になるのが、自由になったということだ。自分を信じていたら、過激になれる。
悟るとは、もっと自由に、もっと過激になることである。
禅の師弟関係は暴力的だが、弟子は考えに考え迷いに迷い、
師に仏教の根本義(本当の意味)を質問に行く。
師匠はそのたびに弟子を叱り飛ばしたりぶん殴ったりするのが禅である。
これはどういうことか。
禅の悟りは他人から教えてもらうものではなく、自分で気づくことだ。
自分に自信を持ち、自分の目でものごとを自由に見(ら)れるようになったとき、
彼は悟ったということができるだろう。
このため、悟りはどのような行為で表出するか。
尊敬している師匠を叱り飛ばすどころかぶん殴れるようになったら、それが悟りだ。
弟子は師匠を超えたならば、師を殴れるはずだ。
このときニヤリとするのが本当の師匠である。
禅の教えは、自分を信じて自由になれ。他人に頼るな。自分の目でものを見ろ。
「もっと自由に! もっと過激に!」が「臨済録」の要約である。

お忙しい方はもうここでお読みになるのをやめてけっこうです。
本書の内容は上記いたしましたので、あとは証拠となる文を引用していくだけなので。
本当に「臨済録」の内容はそうであるのか以下に証明していきます。
自信を持て、自由になれ。

「今わしが君たちに言い含めたいことは、
ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。
自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。
このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるのか。
病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。
もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、
すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、
そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏と会いたいと思うか。
今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。
君たちはこれを信じきれないために、外に向かって求める。
しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、
生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。取り違えてはならぬぞ、皆の衆。
今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻[転生]し、
好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬(ろば)や牛の腹に宿ることになろう。
君たち、わしの見地からすれば、この[我われの]自己は釈迦と別ではない」(P35)


自己啓発書やハウツー本、人生相談や占い師、師匠先輩の言葉に惑わされるな。
自分が思ったことをやろう。
なぜ君たちが駄目かと言えば、自分に自信を持たないからである。
自分に自信を持てないから、おろおろあたふたして人に聞いてまわる羽目になる。
それぞれが仏なのである。仏は探し回るものではなく、いまのあなたが仏である。
いまそのことに気づかないと、永遠に輪廻転生を繰り返し、来世は牛馬かもしれぬぞ。
あたたやわたしの自己は釈迦と異なっているわけではない。
どうして自分を信じないのか。自信を持たないのか。自由にならないのか。

「師は皆に説いて言った、「今仏道を学ぼうとする人たちは、
ともかく自らを信じなくてはならぬ。決して自己の外に求めるな。
そんなことをしても、あのくだらぬ型[みんなと一緒!]に乗っかるだけで、
邪正を見分けることは全然できぬ」(P69)


流行を追い求めるな。人真似をしてもしようがないだろう。
自分を信じて、自分の目でものの正邪や美醜を見分けよ。
あの人は先輩だから「偉い」「正しい」ということもないし、
あの人は読書家だから「正しい」「偉い」ということもない。
先輩や読書家の言うことなど聞かないで、自分を信じよう。
この欲望世界でいつ死ぬかも知れぬのに、なにゆえ自分ではなく他人を信じるのか。

「諸君、三界(凡夫の迷いの世界)は安きことなく、火事になった家のようなところだ。
ここは君たちが久しく留まるところではない。死という殺人鬼は、
一刻の絶え間もなく貴賤老幼を選ばず、その生命を奪いつつあるのだ。
君たちが祖仏と同じでありたいならば、決して外に向けて求めてはならぬ。
君たちの[本来の]心に具わった清浄の光が、君たち自身の法身仏なのだ。
君たちの[本来の]心に具わった、
思慮分別を超えた力が、君たち自身の報身仏なのだ。
また、君たちの「本来の」心に具わった、
差別の世界を超えた光が、君たち自身の化身仏なのだ。この三種の仏身とは、
今わしの面前で説法を聴いている君たちそのものなのだ」(P38)


なかなかそう言われても信じられないから、
「みんな仏の子」などと説いた法華経を頼らなくてはならないのだろう。
しかし、法華経は難しいから解釈は師に頼るしかない。
すると師の弟子(奴隷)となり、人は自己への信頼(自信)を失ってしまう。
自分を信じろ。自信を持て。自分の人生の主人公は自分であるのだから。

「諸君、時の経つのは惜しい。それだのに、君たちはわき道にそれてせかせかと、
それ禅だそれ仏道だと、記号や言葉を目当てにし、仏を求め祖師を求め、
[いわゆる]善智識を求めて憶測を加えようとする。間違ってはいけないぞ、諸君。
君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ。
自らの光を外へ照らし向けて見よ」(P44)


この訳は訳注者の先生の解釈がかなり入っている。
「君たちにはちゃんとひとりの主人公がある。このうえ何を求めようというのだ」の原文は、
「你[あたなは]祇(た)だ一箇の父母あり、更に何物かを求めん」である。
訳として間違ってはいないのだが、訳注者の解釈が入っている。
その解釈が駄目だというのではなく、わかりやすくていいとむしろほめたいのだが。
「あなたにはたったひとりの父と母がいるではないか」という意味である。
あなたやわたしは世界中にひとりしかいない。では、なぜその自分を信じないのか。
たったひとりの父と母から生まれたあなたにはすべてが入っているのではないか。
生きるというのは父や母からもらったものを用いて生きるしかない。
あなたが持っているものは父と母から受け継いだものしかないではないか。
ならば、あなたの人生物語の主人公はあなたのほかにいないだろう?
だとしたら、どうして自分を信じないのか。
ほかにも訳注者が「主人公」という訳語を用いた箇所がある。

「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、
ますらおの気概がなくてはならぬ。人の言いなりなぐず[愚図]では駄目だ。
ひびの入った陶器には醍醐(だいご/高級ヨーグルト)を
貯えておけないのと同じだ。
大器の人であれば、何より他人に惑わされまいとするものだ。
どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ」(P71)


ここの原文はどうなっているのか。
「大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要(ほっ)す。
随所に主と作(な)れば、立処(たちどころ)皆な真なり」である。
なにが真実かと言えば、自分の目で見たものが真実なのである。
言い換えれば、自分の目で見ないと真実は見えてこない。
人のうわさ話を信じていると、その人の真実の姿(正体)は見えない。
では、具体的にどうしていたらいいのか。

「諸君、ほかならぬ君自身が現にいま見たり聞いたりしているはたらきが、
そのまま祖仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。
勘ちがいしてはならぬ。外に法はなく、内にも見付からぬ。
しかし、こう言うわしのその言葉に飛びつくよりは、先ず何よりも、
静に安らいで、のほほんとしていることが一番だ」(P100)


「なにごともしない人こそが高貴な人だ。絶対に計らいをしてはならぬ。
ただあるがままであればよい」(P47)


「……のほほんとして純一無垢でいるのが一番よい」(P130)

「だからなによりも無事平穏、やることもないままでいるのが一番よいのだ」(P142)

以上の原文にかならずあるのが「無事」である。
「臨済録」は自由人たれと同時に「無事の人」たれ、と主張しているのである。
たまには原文から入ってみよう。

「你[あなたが]若(も)し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられん。
你若し祖を求むれば、祖魔に縛せられん。
你若し求むること有れば皆な苦なり。如かず無事ならんには」(P83)


「君たちがもし仏を求めたら、仏という魔のとりことなり、
もし祖を求めたら、祖という魔に縛られる。
君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。
あるがままに何もしないでいるのが最もよい」(P85)


現代で言うならば、資格取得の勉強などしてもいいが、しなくてもいいのである。
むかしから自分に自信がなく資格(お墨付き)を人からもらいたがる人がいたようである。

「諸君、おいそれと諸方の師家からお墨付きをもらって、
おれは禅が分かった、道が分かったなどと言ってはならぬぞ」(P58)


資格などを持っていると逆に自由になれなくなる。
「私は医師だ」「私は○○会社の部長だ」「私は○○賞作家だ」「私は天台座主だ」
自由になるためには、あらゆる価値観を否定しなければならないのである。
以下は「臨済録」でいちばん有名な箇所だろう。

「諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。
内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。
仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢ったら羅漢を殺し、
父母に逢ったら父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺し、
そうして始めて解脱することができ、自在に突き抜けた生き方ができるのだ」(P97)


もちろん実際に殺せと言っているわけではなく、
権威やしがらみから遠ざかろうという意味かと思われる。
「臨済録」は過激な書でかなりめちゃくちゃなことも書かれているのである。
ここは笑ったなというところを引用ではなく要約で紹介したい。
諸君、自由人であればこそ仏や師匠を批判して高僧の悪口を言うのだ。
そういうことをしたところで悪業になどなりはしない。
むかしの先輩たちも大物であればあるほど、
どこへ行っても理解されず、寺から追い払われたものだが、
そのくらいの嫌われものになってはじめて、ものの価値がわかるのだぞ(P79)。
ほらさあ、偉そうな坊さんがブッダは長い修業してようやく完成したとか言うではないか。
バカ言うなって話で、ブッダがそんなに偉いのならわずか80年で死ぬかよ。
ということは、釈迦と我われはそう変わらず我われもブッダになれるのである(P86)。
ならば、どうしたら悟れるのか。人から教わるのではなく、自分で気づくしかない。

「定上座[坊さん]が参見にやって来て問うた、「仏法の根本義を伺いたい。」
師は坐禅の椅子から下り、胸倉をつかんで平手打ちを食わせてから突き放した。
定上座が茫然と立っていると立っていると、そばの僧が言った、
「定上座、なぜ礼拝なさらぬ。」
そう言われて定上座は礼拝したとたん、はたと悟った」(P170)


なにを悟ったのか? 仏法は教わるものではなく、自分で気づくことだ。
釈迦も仏法を師匠から教わったわけではなく、自分で悟ったのだから。
自分をブッダ(目覚めた人)であると信じられたら、それが悟りなのである。
自分はブッダなのだから自分を信じよう。
自信を持って、自分の目で自由にものごとを見て、自由に行動しよう。
臨済が悟った経緯というのもおもしろいのである。
臨済は師匠の黄檗(おうばく)に三度仏法の根本義を聞いて三度とも殴られたという。
わけがわからなくって高僧の大愚(たいぐ)に質問に行く。
大愚は臨済に言うのである。おまえは師の黄檗に感謝しなくちゃいかんよ。
このとき臨済は悟るのである。
大愚は臨済になにを悟ったのかと問う。
すると臨済は大愚の脇腹を三度、力いっぱいぶん殴ったというのだから。
臨済は師匠の黄檗のところに戻り、このいきさつを話す。
黄檗はおれも大愚を殴りたかったなあ、と言うのである。
これを聞いた臨済はどうしたか。師匠の黄檗の頬をひっぱたいたというのである。
黄檗はニヤリとして、臨済に坐禅でもしていやがれと言ったらしい。
禅の悟りというのは、このような過激なものなのである。
そして、禅における師匠から弟子に伝えられるものとはなにか。
師匠は弟子になにも教えないのである。
ただ弟子にできるのは師匠を超えることだけである。

「弟子の見識が師と同等では、師の徳を半滅することになる。
見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある」(P190)


これは言い換えたら、弟子が師匠の頬をひっぱたいたり、
あたまをポカリと殴ったりしたときに法の伝授が完成したということになるのではないか。
「臨済録」は言っている。自分を信じろ。自信を持て。自由になれ。過激になれ。
具体的にはまずなにから始めたらいいのか。

「君たち、ただ自分の目で見て取れ。これ以上何があろう。
いくら説いてもきりはない。各自しっかりやってくれ。どうもご苦労だった」(P147)


COMMENT

- URL @
07/13 21:12
管理人のみ閲覧できます. このコメントは管理人のみ閲覧できます








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4199-6446ba5d