「快感のプラクシス」

「快感のプラクシス」(南伸坊・植島啓司/平凡社)

→87年刊行の「快感っていったいなんだろうねえ」という、ゆる~い対談本。
考えてみたら生きる目的や人生の目標がなくても、
快感があればそこそこ生きていて楽しいから社会的地位は低くても
そこまで気にやまずにのほほんと生きられるのかもしれない。
ふたりは有名人だけれど。
この本で知ったけれど植島さんの実家は踊りのお師匠さんらしい。
相当な資産家のお坊ちゃんのような気がする。
貧乏人は快感よりも、まず富や名声、地位を求めるものだろう。
いったい快感ってなんだろうねえ。
プルンプルン、プリンプリンとしたものって快感だよねえ(植島)。
そうそう、おっぱいとか(南)。
子どもが好きなものって、快感の原点じゃない(両者同意)。
ミニスカートでパンツがちらちら見えそうなのって快感っす(植島)。
ボクは制服が好きで、婦警さんをこってりいじめてみたいなあ(植島)。
おなじ鶏肉でも名古屋産とか書いてあるとよけいおいしく感じるわ(植島)
こんなくだらないことばかり書いてあるわけではなく――。
南伸坊は言う。

「ボクはすごくこわいことだとか危ないことだとか、
平常の自分の秩序を壊してくれるものがおもしろいもんなんだっていうふうに
思っているわけだけど、いちばん秩序を壊されるっていったら、
いわば死っていうものにまつわるものなワケですよ、最終的にね。
死んだらどうなるかなんて、なにしろ全然わかんないんだから」(P62)


死を取り扱っているのが宗教である。
当時は新進気鋭の宗教人類学者だった植島啓司は言う。
宗教儀式のトランス状態はよろしい。

「単純にね、狂騒状態って、近代社会では禁じられてきたと思う。
むしろリラクゼーションみたいなものばっかりが、
たとえば自然に還れみたいな感じで求められていて、
むしろお祭りだって人を殺したり、酒を飲んでめちゃくちゃになったりするっていうことは、
どんどん規制されていくわけでしょう。(……)
ところが宗教のいちばん大事な点は、
むしろそっちじゃないかっていう気がボクにはある。
感情的なポテンシャルが異常に高くて、
普段の経験的なマップに対応点が見出せない状態、
たいていのことだったらちょっと異常な状態でも、
経験的に知っているからなんとかなるけど、
そういう理解不能な状態こそ宗教と関わってくると思うんです」(P161)


日本の仏教史のなかでいちばん狂騒的なのは一遍の踊り念仏だとわたしは思う。
貧富や地位や格差を取っ払った一体感を人はこころよく思うことがある。
みんなひたすらお金や地位や名誉を求めているけれど、
そんなものは意味がないんだよと気づくことのできる興奮状態は快感である。
日常はつまらない。快感とは「飲む・打つ・買う」に尽きるのか。
本書で快感を求めて語り合ったふたりが最後に行き着くのがギャンブルの陶酔だ。

「南――で、ギャンブルの誘惑ってなんだろうね。
植島――やっぱり危険なことをしたいっていうのはあるんですよね。
なけなしの金を賭けて、オレはこんなに危険なことができたとか。
南――なるほど。みんなほんとは危険なことをしたいんだもんね。
でもできないから、やってる人がカッコイイんだ」(P173)


危険なことやそれにまつわる恐怖とか本当はおもしろいんだろうなあ。
殺すか殺されるかみたいな瞬間って一度味わったら病みつきになるのかもしれない。
一か八かという瞬間の興奮のことである。
どうなるかわからないことをあえてやってみて動向を見守るとか。
やってはいけないとされている危険なことをあえて人はやりたがることがある。
ジェットコースターなんて比較にならないスリルの快感があるのかもしれない。
当方、ヘタレだから絶叫マシーンとか子どものころから大嫌いだけれど。
バンジージャンプとかもできる人をよくやるなあと思う。冬山登山もそう。
パチンコや競馬でさえやり方を知らないわたしは、
人生でもっと自分の快感を求めたほうがいいのかもしれない。
かといって幼児性愛者や快楽殺人犯にはなりたくないけれど(さすがにならないって)。
人生に目的や目標がなくても、自分の快感があれば生きていけるのかもしれない。
だれからも承認されなくても、自分の快感を追求していけばいいのかもしれない。

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