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「恋愛の超克」

2015.623

「恋愛の超克」(小谷野敦/角川書店)

→やべえよ、この本やべえ。こええ。こんなに本当のことばかり書いていいのか。
こんなことを書く人に会いたいとか思う人って異常だと思う。
だって、この人狂っているぜ。なにをされるかわからないじゃん。
「もてない男」のフリーライター小谷野敦氏の若かりしころの激論集である。
テーマは著者のご専門であられる恋愛である。
男女が対等になったら恋愛もセックスもできないぞ!
といったブルブルッとするような本当のことばかり書かれている。
みんな適当にごまかしているところに本音をぶちかましている。
この本にはただただ敬服して、感銘を受けたところを抜き書きするしかない。
この人、すげえよ。関わりたくない。そばに来たら全速力で逃げる。
小谷野氏は自身の信じる本当のことをお書きになる。
まず論客を総叩きしてから――。

「吉澤にせよ上野にせよ小森にせよ、彼らの言説の背後には、
ひとは、「他者」とコミュニケートすることによって世界を切り開いて行かねばならない、
という理念があると思われる」(P34)


たしかにこれはみな盲目的に信じている理念だが、かならずしも「正しい」わけではない。
バーベキューなんてその象徴なわけで。
もしかしたらだれともあいさつさえしない自閉症のようなやつが
もっとも閉じた世界において幸福かもしれないのだから。
耐えられるのならば、べつにひとりぼっちでもぜんぜんいいわけである。
さて、いよいよ本丸に入る。いきなり、である。いきなり性行為の話。

「性行為が欲望の対象となるのは、
前近代においては、男に征服の、そして女に被征服の悦びを与えたからであり、
近代においては、(……)被征服を必ずしも悦びとはしなくなった女の側には、
「特別な人」とのロマンスという口実が与えられた。(……)
そして、女が性関係における男との平等を要求し始めると、
男の側の征服の快楽は次第に減殺(げんさい)されてゆくことになる。
そして、仮に男にとっての性行為の快楽が女を征服する快楽だとすれば、
論理的には、男女の平等化が進み、それが最終的な段階に達したとき、
恋愛やセックスの快楽は、
対等であるべき相手としての女への気遣いの煩(わずら)わしさによって
凌駕(りょうが)されてしまい、恋愛とセックスは快楽であることをやめるだろう」(P38)


小谷野さん、自分の書いた文章の意味をわかっているのか。
やばすぎる本音で、それを言っちゃあおしめえっていうか。でも、たしかにそうよねって話。
ゴーゴー本音。

「しかしながら、男女関係ならば、「相手の選択」という問題が入り込むから、
「条件抜き」ということはありえない」(P53)


そうそう、恋愛も結婚も条件の関係だよねえ。

「セックスというのは女が男に「与える」もので、
男はその代償として「カネ」や「愛」や「結婚」を与える」(P151)


交換条件がうまく成立したときに恋愛関係が成立すると小谷野氏は本当のことを書く。
それを言っていいのかって話だけれど。
しかし、これら条件の交換が恋愛ならば、その交換行為はもうなくなるのではないか。
恋愛は終焉するのではないか。

「一九八〇以降、ほとんど「恋愛バブル」とでも言うべき状態が続いている。
けれど、それもあと5年ではじけるのではないか、と私は見ている。
その原因の一つは、やはり女の経済的自立が大きい。
家父長制社会では、女は経済力がないから、男に頼らざるをえず、
そのことを自分に納得させるために「恋愛」を夢想したのである。
その状況が、いま変わってきている。
男に依存しなくても生きていける女は増えているし、
そのことは男女の結びつきさえ変えようとしている」(P68)


そして恋愛の終焉のみならずセックス幻想の崩壊まで氏は預言する。

「十九世紀が「恋愛幻想」を育てたとすれば、二十世紀は「セックス幻想」を育てた。
セックスというものがものすごい快楽であり、
ひとはすべからくその営みをすべきであり、
恋人同士は体が結びつくことによって一体となる、という幻想である。
しかし、セックスというのは小説や映画や、
ましてポルノグラフィーに描かれるような物凄い快楽では必ずしもないのだ。
まあ、自分にとっては最高の快楽だと言うひともいるかもしれないが、
誰にとってもそうだというわけではない。
男にとって重労働だし、女にとっては必ずしも快楽が得られない、
ということは『モア・リポート』などで明らかにされている。
それは男が下手だからとか思いやりがないからだとか説く本が
たくさん出ているけれど、
何もセックスが快楽でなければならない理由などない」(P69)


小谷野敦さんは色即是空を悟りきった聖者なのかもしれない。
小谷野敦ならなにを言っても許されるのか!?

「私が繰り返し言ってきたのは、人間には能力の差というのがあって、
それは克服できない、ということなのだから。
そのことを八〇年代以降の日本でいちばんはっきり言ったのは、村上龍だろう」(P256)


はっきり言ったのは村上龍かもしれないが、
人間の能力差をはっきりと大衆にわかるように描いたのは山田太一ドラマである。
一般大衆はおそらく小谷野敦の本どころか村上龍の本でさえ読めない。
山田太一ドラマでさえ難しいと敬遠する層がいることを著者はよくご存じだろう。

……はあ。疲れる本であった。
結局、恋愛やセックスというのは「わたしひとり」の問題で、普遍的に語れるものだろうか?
「わたし」が経験したことはたしかに真実だが、それは果たして普遍的真実か?
本書の冒頭から。

「たとえば、ひとを好きになる、ということ、つまり「恋」は、確かに誰でもできる」(P7)

「わたし」はこの一文をある種の真実だと思うけれども、
みんなに通用する普遍的かつ絶対的な真実ではないかもしれないと思っている。
「わたし」の真実は「みんな」の真実ではないかもしれない。
少なくとも「わたし」の真実とこの記事をお読みの「あなた」の真実は異なる。
この真実の仕組みをわかっているこの記事の書き手は、
たいへん刺激的な名著をお書きになった著者よりもある意味で現実をよく知っている。
小谷野敦さんの真実はみんなの真実ではないことをわたしは知っている。

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