「第三の男」

テレビライターの山田太一氏が推薦していた()映画「第三の男」を
だいぶまえジェイコムで録画視聴した。
いまネット検索をしないとストーリーを思い出せなかったくらいだから、
いまのわたしにとっては大した映画ではない。
むかし見ていたらどうだったかわからないし、
もしかしたら新たな体験をした将来に見直したらば、
これほどの名作はないと思うのかもしれない。
テーマはとてもはっきりしている。友情と正義のどちらがたいせつか、である。
もし親友が悪事をしていたら、どうしたらいいか?
山田太一ドラマは直接的な答えを出さないことが多いけれど、
映画「第三の男」では明確な答えを出していて正義のほうが大事だと主張している。
正義の主人公が親友をだらだら追跡したあと(長すぎてうざかった)射殺している。
正義のためなら世間的に悪人ということになっている親友を殺してもいい。
むしろ、正義のためなら親友でもだれでも殺すべきだ、
というメッセージがこの古典映画にはあるような気がする。
こんな映画が多数派の支持を受けた正義の時代があったんだなあ。

わたしはこの正義の思想に拒否感をおぼえてしまう。
主人公の親友のなした悪というのは、
自分の利益のためにペニシリン(薬剤)を水で薄めて売って薬害を出したことである。
友人のせいで小さな子どもが苦しんだり、死んだりしている。
だから友人は悪で、正義の主人公はかつての親友を射殺してもいい。
これが正義の思想である。
だが、ちょっと待てよ、などとわたしは思ってしまう。
自分の利益のために他人を苦しませるなんてみんなやっていることでしょう?
他人を苦しませるか自分が苦しむか――。
このとき、自分の利益を取るのがそこまで悪と言い切れるのかわからない。
自分と他人といったいどちらがたいせつなのか。
このとき他人のことを思えと言えるのは恵まれた偽善者だけではないか?

人間は体験からしか物申せないかなしさのようなものを持っている。
いま時給850円で世間的には底辺と見なされかねない職場でアルバイトをしている。
いつクビになるかもわからず、
先日もわたしとおない年の社員さんから「ツチヤさんも呼ばれなくなるかもしれませんよ」
とありがたくもご忠言いただいた(生意気にも入庫はいやだと申し上げましたら)。
で、こういう下のほうの世界で働いているとわかることがたぶんにあるのである。
人間は「悪」のようなことをしないと生きていけない。
自分の利益のために他人を苦しませなければいけないというのが人間存在ではないか。
たとえば、いまの職場のマネージャーさんは決して悪人ではなく、
むしろいい人の部類だと思うが、
ご自分の立場(やご家族)のためにパートを苦しませなければならない。
外国人労働者から「今月はやばい」とか「生活が苦しい」
といったようなことを聞くとこちらもいっとき偽善的に深刻になってしまうが、
どうしてそうなったかはマネージャーさんのせいとも言えなくはないのである。
いや、経営者のせいか、株主のせいか、日本資本主義のせいか。

みんな自分の利益のために他人を苦しませていると言えなくもないのである。
わたしなどその象徴で、
わたしがバイトで少し楽をすることで苦しんでいる同僚がどれほどいることか。
しかし、わたしよりももっと楽をして
もっと多く稼いでいるパート仲間もけっこういるのである(Hくんとか世渡りうますぎ!)。
自分が生きるということは、他人を苦しませることだ。
我利我利亡者の古参パート女性が毎日たくさん稼ぐことでどれだけの人が泣いているか。
しかし、彼女は悪人とは呼ばれない。
社員さんがパートに早く帰ってくれと言うことで毎日多くの人が苦しんでいるのである。
しかし、それは社員が悪いからではなく、仕事としてそれを言わなくてはならないのである。
いったいどういう正義で悪人を裁けようか?
ペニシリン薬害で小さな子どもを苦しませるのがもし悪だとしたら、
自分の利益のために他人を苦しませているマネージャー、社員、古参パート、
そしてなにより自分勝手なわたしは悪だというのか?
たしかにわたしは悪人だが、ほかの人はそう悪人のようには思えない。
みんな自分(の地位や収入、家族)がたいせつだから仕方なくそうしているのである。

自分と他人とどちらが大事か?

究極のテーマになるのだろう。
だから、このテーマをあつかった映画「第三の男」は名作と言われるのかもしれない。
いったいだれが犯罪者を裁けるのだろう。
いまの職場の古株パート女性たちは、自分のために人を苦しませた犯罪者を、
テレビや新聞といったマスコミに洗脳された結果、正義という名のもとに裁くことだろう。
しかし、そういう本人たちこそ
底辺男性パートや収入不安定な外国人労働者を苦しませているのである。
そのうえ、そういう自覚さえまったくなく、
自分たちは間違っていないと群れて弱いものをさらに苦しめてなんとも思わないのである。
むろん、わたしもその一員である。その象徴かもしれない。
わたしのせいでどれほどのパート仲間が苦しんだことか、
苦しんでいることか、苦しむことか。
それを知りつつ、さらにクビになるのを恐れながら、明日もわたしは職場に行くことだろう。
そんなわたしには、とてもとてもこの映画の主人公のように、
他人を苦しめたという理由からだけで正義のために親友を射殺するようなことはできない。
自分とて同罪だと思うからである。

COMMENT

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06/11 23:45
. いや、最後にコットンは好きな女から冷たくされるんだから、違うでしょう。








 

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