「あかるい郊外の店」

「あかるい郊外の店」(山田太一/「すばる 1998年3月号」集英社)

→98年に地人会で公演された山田太一作の芝居「あかるい郊外の店」を戯曲で読む。
多作の氏からしたら、とりたてて記憶に残っているものではないかもしれないが、
これがおもしろいのである。
たしか山田太一は演劇賞はひとつも受けていないはずだが、
ほかの創作劇のつまらなさと比較したら
氏の全部の芝居作品に賞を与えなくてはならなくなってしまうような気がする。
雑誌にさえ掲載されていない芝居台本がいくつかあるのである。
どっかのだれかさんみたいに氏に直接お願いしたら閲覧させていただけるのかどうか。

さて、「あかるい郊外の店」の舞台となるのはコンビニ。
基底音として流れているのは「つまらない」ではないかと思う。
実際に夏恵という不良少女っぽい子が「つまらない」と4度も言う。
なにをしてもつまらない――。
登場する人物みんなの共有しているのが、この「つまらない」ではないか。
独身者も既婚者もどこかでみんなそんなことを思っている。

「なにもないなあっていう気持、一人ぼっちだなあって気持、
このまま、ただ年をとっていくだけなのかなあ、という気持」(P303)


みんなどこかで思っている。わたしも、あなたも。

「あなたは自分を変えようと思っている。いまのままじゃ嫌だと思っている。
しかし、なにをしたらいいか分らない」(P279)


かすかな希望がないわけではない。

「私はもしかすると、自分が思っているような人間じゃないかもしれない。
見当ちがいの思い込みで生きてるのかもしれない。
本当の私は、全然ちがうのかもしれない」(287)


しかし、本当にそうだろうか。
本当にいまのままのあなたやわたしはそのままではよくないのだろうか。
いまの世界はそのままで美しくはないのか。
あなたやわたしは変わる必要があるのか。
世界はそのまんまでこのありふれた一瞬に奇跡のような輝きを放っているのではないか。
恋をする四十代中頃の男性が和也である。歯医者をしている。
これを演じるのが芝居っ気たっぷりの風間杜夫。
この役は風間杜夫にしか演じられないだろう。
相手のするのはコンビニ経営者の30過ぎの夫婦。秀司と佐代.
山田太一ワールドのコンビニエンスストアではこんな会話が繰り広げられるのである。

和也[風間杜夫] 奥さんは、いま幸せですか?
佐代 なんかの宗教?
秀司 そうなの?
和也 全然ちがいますよ。私は神を信じない。仏も信じない。女房も信じない。
 娘も――女房の味方だし(と淋しさがこみあげるが)
 私は(と気をとり直し)幸せに見えますか?
佐代 (かぶりを振る)
秀司 (かぶりを振る)
和也 そうでしょう。
 こんなふうに歩けるのに(と歩き)自分を幸せだなんて思えない(立止り)
 でも、病人だったらどうですか? 半年ベッドで動けなかった病人が、こうやって一歩、
 地面を歩いたら、とても幸福なんじゃないですか? 
 二歩三歩、ただ歩けるだけで幸せでしょう。
 脊髄(せきずい)をやられてる人が、奥さんのように立つことが出来たら、
 こみ上げるように幸福なんじゃないでしょうか?
佐代 でも、私は別に立てなかったわけじゃないし――。
和也 そう。だから幸せだとは思えない。
 たとえば、この通路、この棚、しんとした夜更け、
 こんなことに、特に幸せを感じようもない。でも、地震があったらどうですか?
 棚のものが、ドドッと通路に落ち、冷蔵庫があいて、
 瓶が割れたり、牛乳がころがったり。
 勿論(もちろん)家がつぶれればもっと大変だけど、そこまで行かなくたって、
 掃除するのは、何時間もかかる、お金もかかる。
 そんなことをしないですむ夜更け。しんとした棚、これって幸せじゃないですか。
佐代 理屈はそうだけど――。
和也 そう。理屈はそうなんだけど、
 だからって、いま幸せで仕様がないなんて感じようもない。
 むしろ眠いし、客は来ないし、そのあたりのもんを棚にあげたりしなきゃならないし、
 気持は不幸かもしれない。でも、本当は幸せでしょう。
 歩けるんだし、立てるんだし、地震もないんだし、仕事もある。物もある。
佐代 それで幸せなら話は簡単だけど。(P296)


「ありふれた奇跡」のことを言っているのであろう。人生、一寸先は闇。
明日、大きな地震が来てなにもかもめちゃくちゃになってしまうかもしれない。
明日だれが愛する人と突然の死別をするかもわからない。
末期のガンを宣告されるかもしれない。足を切断する難病になってしまうかもしれない。
もしそうなったら今日のつまらない1日は、
かけがえのない幸福な日々として思い返されることになるのである。
しかし、けれども、そうは言っても、毎日のつまらなさはどうにもならない。
理屈ではわかっていても、いまのままでは満足できない。
なんにもないなあ、と思ってしまう。一人ぼっちだなあ、と思ってしまう。
それは歯医者の和也(風間杜夫)もおなじなのである。
そして、ここは現実ではない。現実のコンビニではない。舞台上の芝居である。
風間杜夫(和也)は芝居っ気たっぷりになにかを求めて演戯するのである。

和也 すいません。(とさえぎるように)
佐代 なに?
和也 助けて。
秀司 え?
和也 助けて。(とちょっと身を揉むようにしゃがむ)
佐代 トイレ?
和也 そんなんじゃない。
佐代 じゃ、なに?
和也 飛びたい。
秀司 飛びたい?
和也 飛び立ちたい。(とぶ身振り)
佐代 マジで?
和也 なんとかしたい。
秀司 なんとかって、なにを。
和也 (佐代を見て)恋をしてしまったんです。(立つ)
佐代 私に?
和也 ふざけないで。
佐代 ふざけてないよ。
和也 旦那の前で、あなたに恋してるなんていうわけないじゃないですか。
秀司 かげならいうのか。
和也 あの人に。あの人に恋をしてしまったんです。
秀司 あの人って――。
佐代 あの女?
和也 そうです。矢川、芳美さん[鳳蘭/おおとりらん]。
秀司 そうじゃないかと思っていたけど。
和也 (左の頬を指し)半年ほど前、あの人は、
 ここの第一小臼歯が痛むといってやって来た。
 でも、私は全然どうってことなかった。それどころじゃなかった。客が減って来ていた。
 なにより駅前のサロン風歯医者のせいです。
 新宿を立退く前から十二年つとめてくれたアシスタントの女性に辞めて貰った。
 色恋じゃない。月給が高すぎて払えなくなった。若い人をやとった。男です。
 女じゃ女房がやくかと思ってね。ところが、そんな心配はいらなかった。
 女房が急に別れたいっていい出した。私が宇宙人に見えるというんです。
 結婚して十九年。今更、宇宙人でもないだろう、といったけど、
 いわれてみると、私もなんだか女房が宇宙人に見えるんです。得体が知れない。
 そういえば、前から俺のすることにどう反応するか見当がつかなくて、
 女房のことが全然分っていないのではないかと、
 怖いような気になっている時があった。
秀司 ――。
佐代 ――。
和也 しかし、別れるとなりゃあ、いろいろ面倒です。うだうだしているうちに、
 急に、二ヶ月前高校二年の娘連れて、広島の実家へ帰っちまった。
秀司 そう。
和也 それから、あの人が久し振りで、治療に来た。その時のことは、前に話しましたね。
秀司 ああ。
佐代 ううん。
和也 とにかく、びっくりしたんです。治療が終わったあと、幸せそうで、輝いていて。
佐代 へえ。
和也 どうして何回か来てるのに、
 この人の美しさに気がつかなかったんだろうと思った。
 よく見れば――いや、よく見なくたって、大きな目、大きな口、
 そこらにいくらでもいるような人じゃない。ところがちっとも目立たない。
 本人が自分の輝きに気がついていないからです。
佐代 フフ、相当、熱い。
和也 フフ、そう。自分でも、この齢で、こんな気持になるなんて思わなかった。
秀司 恋かなあ。
佐代 なによ。
秀司 恋なんてものが、昔、あったなあとちょっと思ったんだ。いいだろ、思うぐらい。
和也 私もそうですよ。恋なんて昔の話だった。ところが、あの人に、恋をした。
 醒(さ)めたいい方をすれば、あの人じゃなくてもよかったのかもしれない。
 甘いものが欲しかった。甘いものがなくては、きりぬけられそうもなかった。
佐代 勝手ね。(P298)


山田太一節(ぶし)全開というのか、なんというのか、いいなあ。
恋をしつつ醒めているところがいい。
「あの人じゃなくてもよかったのかもしれない」とかまで言い切っているわけだから。
とはいえ、退屈でつまらない日常をどうにか生き生きさせるには、
神や仏を信じられない人にとっては恋愛モドキのようなものしかないのかもしれない。
恋愛モドキをするとなにがいいのか。
自分でもわからなかった自分、自分でも知らなかった自分が出てくるからだろう。
なぜそういうことが起こるかと言えば、
おそらく恋愛とは相手のそれまで気がつかなかった美点を発見することだからだろう。
人は他人の長所を見つけたとき、自分も多少なりとも変化するのかもしれない。
しかしまあ、他人の恋バナなんちゅうものは「やれやれ(ため息)」である。
中年男の和也(風間杜夫)は「やれやれ」と言われてもめげない。

「そう。恋をしてるやつなんて、はたから見ればやれやれです。
でも私は、あの人を解きはなちたい。
自分をダメなオバンなんて思ってることから、
地味な服装から、暗い人生観から、解きはなちたい。
解きはなつと、どんなに素晴らしいか、を見ちゃってますからね」(P300)


和也は恋する相手の目のまえでも言ってしまう。
これは山田太一が風間杜夫の口を借りて観客全員に言いたかったことだろう。

「私は、はじめてあなたを見た時、幸せが似合う人だと思った。
周りに幸せをふり撒く人だと思った。でも、実際はそうじゃなかった。
淋しそうで、自分が嫌いで、なんとかしようとしていた。
(……) 不自然、だという気がした。
あなたは自分のスバラシサにも、自分の幸せにも気がついていない。
気がつけばいいんだと思った――歯医者として」(P311)


甘いことを百も承知で言えば、
それぞれがそれぞれのよさに気づけばどんなにいいことか。
自分ほど自分のことを見ることができない存在はないのかもしれない。
他人のほうが自分のよさに気づいてくれているのかもしれない。
あなたはことさら変わろうとしなくても、
いまのそのままでもいいところがふんだんにあるのかもしれない。
「なーんにもないし、一人ぼっちだし、いまのままではいけない」とみな思っているが、
「なにかあるかもしれないし、一人ぼっちでなくなるかもしれないし、いまのままでいい」
という可能性も、もしかしたらあるのではないか。
いや、これはフィクションの芝居だから現実とは異なる。
お芝居ではないのだからやはり
「人生なんて、そんなもの」「人間なんて、こんなもの」なのか。
実人生で風間杜夫のように芝居っ気たっぷりに言えたらどんなにいいことかと思った。
「助けて」と言えたら。しかし、「助けて」と言っても無視されて終わりだろう?
いや、だれか手を差し伸べてくれるのか。
そのとき、風間杜夫のように言えるものだろうか。「飛びたい」と。「飛び立ちたい」――。

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