「勝鬘経」

「勝鬘経」(山口益・小川一乗編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いったいなんのために仏典なんか読んでいるんだろうなあ。
先日バイト先でさ、TOEIC900オーバーのネパール人修士に、
暇なときは仏教の本を読んでいるって言ったら、
やさしい気持になるでしょうって言われた。
いやあ、やさしい気持にはぜんぜんなっていないけれど、そうとは言えなかった。
勝鬘経(しょうまんぎょう)はまえにも読んだことがあって、
そのときのブログ記事を読んだら驚きで、
今回引用しようと思っていたところをもうそこで抜き書きしているのね。
まあ、みなさんむかしの記事なんて読まないでしょうし、
読んだ人も忘れているでしょうし、なにより書いた当人が忘れていたのだから。
としたら、2年まえからまったく進歩していないのかなあ。
べつに人間は進歩しなくてもいいとは思っているけれどさ。
仏教を勉強してなんになるんだろう?
大学院にも寺院にも所属していないから意味ないよなあ。
でも、なんで意味のないことをしちゃいけないのかもわからない。
結局、自分を救うためなのかな。
でさ、救うってなにかを突き詰めて考えると、だますってことなんだよね。
他人を救うというのは、他人をうまくだますということ。
先生の本を読んで救われました、というのは、うまくだまされました、ということ。

勝鬘経は、まるで創価学会婦人部にいそうな、
勝鬘夫人というおばさんが釈迦に向かってギャアギャア自説をしゃべりまくるお経。
いちばん重要なのは、人間には如来蔵(にょらいぞう)がそなわっているという部分。
如来蔵とは、如来(仏)になるための種子(因)。
この如来蔵がよりどころになって人は生死輪廻している。
「している」って決めつけちゃったけれど、そう勝鬘経に書いてあるって話。
死んでもかならず生まれ変わってきて、
そういうことを延々と繰り返して少しずつ仏教に触れていくと、
いつかみんな仏になれますよ。なぜなら如来蔵があるから。
――とお経に書いてある。
これを信じる(これにだまされる)ことができたら死ぬのが怖くなくなるでしょう?
愛するものとの死別の悲しみも癒される。
現世でこれだけ縁があったんだから、また来世で再会できると信じられる。
如来蔵があるかどうかはわからない。
あることもないことも科学では永遠に証明できない。
信じるかどうか。だまされるかどうか。
わたしはけっこう信じているところがあるけれど、人には強制したくない。
前世も来世もない。人生1回きりだとがんばるのも悪くないのではないかと思う。
くだんのネパール修士さまは人生1回きりだから一生懸命勉強すると言っていた。
家は仏教らしいけれど。仕事中になにを話してんだって話だよな。反省。
またおなじところをべつの訳で抜き書きしておこう。
世尊は釈迦を尊敬した言い方ね。

「世尊、死というのも生というのも、それは世間の言い慣わしであり、
世間的なことでございます。
世尊、死というのは諸根[五官]の滅することであり、
生というのは新たな諸根の生まれることでございます。
ところが世尊、如来蔵には、生まれ、老い、死ぬということも、
死して生まれるということもございません。
世尊、如来蔵は常住不変であり、堅固であり、不動でございます」(P1123)


人生1回きりじゃないって思ったら、かなり気楽に生きられるんじゃないかなあ。
そんなこともないのかしら。
まあ、だんだん加齢とともにいろいろ落ちてきた感じがする。
落ち着いた、ではなく、いろいろなものが落ちていったという感じ。
過去の勝鬘経の感想を読み返した。
むかしは気張ってすごいがんばった文章を書いていたんだ。
こんなだれも読んでいないブログでバカだよねえ。

(参考記事)
「勝鬘経」(高崎直道訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

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