「入楞伽経」

「入楞伽経」(山口益編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→入楞伽経(にゅうりょうがきょう)は禅の仏典。
中国禅宗の開祖とされる達磨(だるま)が重んじた大乗仏典である。
学者が解説で難解すぎると投げ出しているものを、わたしごときがねえ、まあその。
わかったところは解説できますよ、ということで底の浅い紹介をする。
結局、世界はある個人の妄想分別でできているんだってことを悟れよってこと。
世界は我われの心が言葉で分別して、あげく妄想することで成立している。
それは被害妄想だとかよく言うけれど、世界はすべて妄想なんだよという。
世界はそれぞれの妄想で成り立っている。
多数派の共有している妄想(本当はそれぞれ異なる)が現実などと呼ばれている。
「うちの母親は悪い」というとき「悪い」というのは言葉による分別だよね。
あるがままの母親は善でも悪でもなくただそのものとして存在している。
(本当は存在しているかどうかも不明でそれさえ妄想かもしれないのだが)
「いい上司」の「いい」も言葉による分別だよね。
100万円があるとする。これを「高い」と思う人と「安い」と思う人がいる(いるの!)。
100万円は100万円でしょう。100万円は100万円にすぎない。
しかし、我われはこの100万円を
「高い」「安い」といった言葉による分別抜きに見ることがなかなかできない。
おなじように、ある人がいたとする。
だれもその人を「正しい」見方で評価することはできない。
「気難しそう」「やさしそう」「ずる賢そう」「守銭奴」「ガリガリ」
――すべて言葉による分別である。
言葉で分別した結果、我われは妄想する。
その妄想が周囲に受け入れられなくなると現代は精神病院に行かなければならない。
質のよい個性的な妄想をうまく言葉で表現できるものは作家や評論家になるだろう。

おそらく前提として、言葉も妄想もなにもない世界が想定されているのだと思う。
絶対無でなおかつ絶対有の、なんにもないがすべてがある絶対世界。
100円、200円に血まなこになっている人にはわからないよねえ。
こういうことに思いをはせるためには、やはり精神的ゆとりのようなものがないとダメか。
すべてが言葉による分別で妄想だって言われても、
バイト先で毎日早く帰されて家賃が払えねえよってなったら、とてもとてもねえ。
大家に向かって、それは言葉による分別で妄想です、と教えさとしたら、
逆におまえ大丈夫かって警察を呼ばれかねないよなあ。
わたしだって言葉のうえでは「世界は言葉による分別にすぎず、
すべては妄想である」と理解していても、すぐ怒るような品性下劣さがあるし。
あたまでわかるのと身体全体でわかるのは違うということだろう。
それに言葉による分別を完全になくした人って、それは精神障害者じゃないかって話で。
言葉による分別をなくせって禅は言うけれども、
逆に語彙(ボキャブラリー)が豊かになると、
いまの自分の苦しみを適切に言葉で表現することができるようになり、
結果として精神科のご厄介にならずに済むという面もあって、
だから、なにがよくてなにが悪いのかよくわからないってことになるのではないかと。
トラウマみたいのも言葉による分別で妄想にすぎないんだけれど、
そう言われたってトラウマはどうにもならないし、
トラウマによって生かされているような人もいるだろうから、
それを取ってしまったら逆に危険になってしまうとも言えるわけで。
将来が不安といっても、それは「不安」という言葉による分別にすぎず、
このため不安という実体はなく、それは妄想なんだよ、
と言われて幾人が納得してくれるかどうか。
将来の不安のために株や健康食品に夢中になるのも本人にとっては生きがいで、
それを取ってしまったら、今度はなんのために生きるのか、
死んだらどうなるのかという、人間最大の不安に向き合わざるをえなくなるから、
適度に言葉で妄想分別しているのも決して悪いと言えなくもない。
いちおう入楞伽経はこういう「正しい」ことを言っておりますよ。

「楞伽(りょうが/スリランカ)の主よ、そなたは、
過去の如来応供正等覚者[偉い人]にわたしが問い、
それら如来たちが答えられたと言ったけれども、
楞伽の主よ、〝過去の”というこの語は妄想分別である。
同様に、過去であるとしているのも、そのように妄想分別しているのである。
同様に、未来も現在もそうである。
諸如来[仏さまたち]は、それの法性・真実性という点からいって妄想分別がなく、
一切の妄想分別という誤った形で表現された戯論を超出している。
それは形貌・色の自体が妄想分別せらるごとくではなく、
それとは異って、遍知・完成智に通達する楽のために、
無相を行ずる慧によって開顕せられるものである。
であるから、諸如来は智の体であり、智の身である。
妄想分別せられるのではない」(P1099)


そう言われても過去のムカついた体験は消えないし、
将来の不安は強まるばかりだし、
毎日生活のためにこんなにやりきれない思いをしている、
まさにこの思いはちっとも消えやしないじゃないかと言われたら、
それはもう仏典の限界というほかなく、
反対に毎日そのようにせわしなく生きているからこそ、
根源的な不安と対面せずに済んでいるのだと考えられたら、
それはそれでラッキーとも思えませんか? って思えないよなあ。

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