「涅槃経」

「涅槃経」(横超慧日編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→正式名称は大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)。
涅槃経には原始仏教経典のそれと大乗仏典としての涅槃経のふたつがある。
本書に収録されているのは大乗仏典のほうの涅槃経。
かなり成立時期が新しい(4C)後期大乗仏典である。
釈迦が死に際して語った内容ととされるが、
実際は没後600年近いときを経て創作されたものである。
内容は説話形式でおもしろいものが多いので逐次紹介したいと思う。
お経の内容を広めると功徳があるというが、そういう現世利益を目的とはしていない。

一般的に古いものは偉くて「正しい」とされることが多い。
あらゆる集団で古参や古株は上位に位置し新参は低位に甘んじなけれなならない。
知識のようなものも古いものほど「正しい」とされ、
いまでも「釈迦に還れ」などというおかしなことを言う人がいて、
にもかかわらずけっこうそういう意見が支持を得ているという現実がある。
しかし、考えてみたら釈迦の言葉が「正しい」根拠はどこにもない。
あるとすれば、ただ古いからという理由だけになろう。
古いから「正しい」というのはおかしいのではないかと考えたのが大乗仏教である。

後期大乗仏典の涅槃経では以下のような説明をして
おのれの「正しい」論拠としている。
醍醐(だいご/最上のヨーグルト)はどのようにして作られるか考えてみよう。
まず牛から乳をもらう。この乳から酪が作られ、酪から生酥は作られ、
生酥から熟酥が作られ、こういう過程を経て最後に熟酥から醍醐が作られるのだ。
仏教もこれとおなじ話で、最初は釈迦の説法から始まり、
その説法から小乗仏教が生まれ、小乗から大乗仏教が生まれ、
今度は大乗経のなかから般若波羅蜜が生まれ、
最後に生まれたのがこの涅槃経である。
ならば、この涅槃経は醍醐のような最上最妙の教えで、
これはいかなる病をも治す薬のようなものである。
なぜならあらゆる薬の効能をすべて内包した醍醐のような教えだからである。
これはなかなかよくできたおもしろい話だと思う。
結局、仏教の歴史というのは変転の繰り返しである。
なぜか釈迦の教えが日本にまで到達すると、
殺人OKの親鸞念仏になってしまうわけだが、まさにそれが仏教なのだろう。
この論理が「正しい」のであれば、
最先端の仏教とも言えなくもない創価学会が最勝なのか。
そうとも言えるし、そうでないとも言える。どういうことか。
創価学会もふくめて時間の許すかぎり各時代の仏教を学んで、
最終的にあなたやわたしというひとりの個人の内奥に生まれた信心こそ、
まさに醍醐のようなもっとも自分に合った仏教なのではないだろうか。
(以上1058ページ参照)

人は変わるのだから、そのときどきで信じる仏教が変わって当然なのだろう。
仏が説法していたとき、赤ん坊に乳を与えすぎた母が相談に来た。
このとき仏は無常(常なるものなし/相対)の教えを説き母を導いた。
この赤ん坊が大きくなったら飲む乳の量も増えるだろう。
このとき仏は以前と違った常住(絶対)の教えを説くが、そういうものである。
むかし人間釈迦は無常の教えを説き、それはそれで「正しい」のだが、
人の成長に合わせていまブッダは常住(久遠仏/永遠/絶対)の教えを説く。
(以上962ページ参照)

常住(永遠/絶対)の教えとは、どのようなものか。
月のようなものと考えてみたらどうだろうか。
たとえば満月は町にも村にも、山にも川にも、井戸にも池にも、
ビンにも釜にも、あらゆる場所にすがたを見せる。
人がどれだけ遠距離移動しようとも月はどこまでもつきそってくるように見える。
愚かな人は家で見た月と、この旅先で見る月は、はてまあおなじものかと疑う。
さらにいったい月はどのくらいの大きさかと迷う。
水たまりに映る月が「正しい」というものがいれば、
いや、月は車輪くらいの大きさだと主張するものもいる。
それは違うぞ、月というのははかり知れないほど大きいのだと言うものもいよう。
これらはみなおなじ月の光明を見ていながら、にもかかわらずこうした違いがある。
月の本体はひとつなのだが、人によってそれぞれの見方が変わるのである。
常住(永遠)の仏というのも、この月とおなじである。
常住の仏は人によって見せるすがたを変えるけれど、どれもおなじ仏なのだ。
このため仏はありとあらゆる言語を話すことができる。
聾唖(ろうあ)のもののまえには聾唖の仏が現われて法を説くのである。
(以上992ページ参照)

仏は人それぞれに異なる教えを説くのかもしれない。
仏の説く「正しい」真実の教えはこんなものだと考えてみたらどうだろう。
我われはもしかしたら本当は生まれつきの盲目なのではないか。
目が見えないため「乳の色はどのようなものかとたずねる」
「ウサギのように白い」と教えてもらう。
「では、乳は飛び跳ねるのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
「ウサギはどのような色か」とたずねる。
「餅(もち)のように白い」と教えてもらう。
「それでは乳の色は餅のように固いのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
「それでは餅の色はどのようなものか」とたずねる。
「雪のように白い」と教えてもらう。
「それでは餅は雪のように冷たいのか」とたずねる。
「そうではない」と教えてもらう。
いつまで経っても盲目の人(我われ)は乳の色がわからない。
けれども、しかし、なんとなくイメージできるものがあるはずである。
それはそれぞれ正しく、
にもかかわらずれっきとした乳の色(常住の真実)は存在しているのである。
(以上1056ページ参照)

涅槃経はかなり暴力的なことも書かれているのである。
仏僧が説法しているときに、それを盗聴している反対勢力の少年がいたそうである。
少年を発見したある力士は怒りのあまり殺してしまったという。
これは「正しい」行為かどうか。
仏はまだ年端もいかない少年の殺人をどうごまかすかといえば、
あれはまぼろしの少年で実在はしていなかったとうそぶくのである。
そのうえで自分は反対勢力のものもわが子に接するような愛情を示すと説く。
しかし、自分の滅後(死んだあと)はべつであると仏は涅槃経で説いている。

「私の滅後に、威儀ととのって正法を護(まも)ろうとする持戒の
比丘(びく/男性出家者)があったならば、
もしも彼が法を破る者あるを見つけたとき、どこにいても彼はそれを追い出し、
訶責(かしゃく)し、懲治(ちょうじ)することができるであろう。
この人はこれによってはかり知れぬ福を得ることになるのである」(P953)


仏敵を打ち負かせたら現世利益があると仏が言っているのである。
在俗の信者は武器を取れ、とも仏は言っている。
正法を護るためならば在俗の男も女も武器を持ってよい。
本物の信者ならばどんな武器を持ってもいいから仏僧を守護せよ。
静かな悟りの人だった釈迦が涅槃経で仏になると過激な発言をする。

「国王、大臣、長者[金持]、優婆塞[在家信者]らが、
護法のために刀杖[武器]を持っても、私はそれを持戒だという。
刀杖を持ちながら命を断つごとき殺害を行なわぬならば、
そのようにあり得る者は、これを最高の持戒と言ってよいのである」(P959)


武器を持ってるときに敵が襲いかかってきたら使わずにはいられないだろう?
涅槃の仏は、このとき人を殺しても、
それは護法のためだからいいと言う直前にいる。
言っていないが、武器を取れと言った以上、言っているも同然である。
仏教は平和主義のような思い込みを持った人が多いと思うが、
敵を倒せ、武器を取れと仏は言っているのである。
キリスト教だけではなく仏教も戦争を起こすパワーがあるようだ。
そもそも徒党を組んだ時点で他のグループとは争わざるをえない宿命にある。

涅槃経は被害妄想が強い仏典でもある。仏は予言しているのだから。
自分の死後、この涅槃経は広く流布するが、
しかし、悪い層がめちゃくちゃな抜き書きや引用をして主意をたがえるだろう。
(わ、わ、わたしのことですか?)
とはいえ、大丈夫と仏は断言している。
ある女は利益のためにカルピスを水で薄めて売るだろう。
それを買ったべつの女も(なぜか男ではなく女)水で薄めて転売するだろう。
その女もまたカルピスに水を加えるだろう。
これを客へのご馳走として買い求めた客がいる。
味見してみたらちっともカルピスの味がしない。
煮沸したら、少しだけカルピスのような味がしなくもない。
これでも塩水を出すよりははるかにましである。
このように涅槃経もこれからさんざん水で薄められることだろうが、憂(うれ)うなかれ。
このもっともすぐれた教えである涅槃経の醍醐味は、
あのカルピスのたとえのようにかならず継承されるだろう。
(以上1008ページ参照)

ユーモラスなエピソードも掲載されている。
原始仏教には笑いがないけれど、大乗仏教には妙なユーモアがあるような気がする。
仏があるとき在家信者から質問されたという。
金銭を用いないで多額の寄付をした施主だという評判を得るためにはどうしたらいいか。
そんなことはかんたんだ、と仏は答えたという。
娼婦(売春婦)を仏僧に布施をしたら受け取られないからいいじゃないか。
酒や肉をたんまり布施するのも仏僧は受け取らないからおなじこと。
こういう手を使えば、身銭を切らずに名声だけ得ることが可能である。
(以上963ページ参照)

これは宗教評論家のひろさちや先生がよく使う持ちネタだが、原典は涅槃経だったのか。
あるきれいな美人さんが孤独な男性の家を訪問したという。
名前を聞くと美女の名は功徳大天で、自分は行く先々で財宝を与えてまわるという。
それはすばらしいと主人はすらりとした女性を歓待した。
しばらくして、ひどく貧相な成りをしたみすぼらしい女性が戸をたたく。
開けてみると醜女は黒闇と名乗り、行く先々で財宝を消滅させるというではないか。
帰ってくれというと醜い女性は、あなたはものを知らないと言う。
いまあなたの家にいるのは自分の姉で、姉妹はいつも一緒に行動している。
このため、あたしを追い出すのなら美しい姉もいなくなるが、それでもいいのか。
主人は家に入り美女にことの子細をたしかめると、たしかにそうだと言う。
美しい女が言うには、あたしを愛してくれるならば妹も愛していただかねばなりません。
あたしを尊敬するのなら妹も尊敬してほしいのです。
気が短い孤独な主人は、ふたりとも出ていけと姉妹を追い出してしまった。
姉妹は次に貧乏な男の家に行った。
男はきれいな姉が自分のことを思ってくれているなら、
姉妹ふたりとも愛そうと言ったという。
これは臨床心理学者の河合隼雄の言う「ふたつよいことさてないものよ」であろう。
プラスにはかならずといってよいほどマイナスがついてくる。
マイナスもよく見るとプラスのようなものがひそんでいる。
仏がどうしてこのたとえ話を弟子の迦葉(かしょう)にしたかは以下である。

「迦葉よ、世間の人々は誤った見方に心が覆われているので、
生まれることは好ましいとして、それに貪着し、老や死を厭い嫌う。
迦葉よ、菩薩はそうではない。
最初の生の中に、早くも過患がひそんでいるのを見出しているのである」(P1042)


ほかにも涅槃経には意味深なエピソードがある。
これは哲学上「カルネアデスの板」と呼ばれる問題である。
ある人が浮き袋を持って大海を渡っていたとき、
海中に羅刹(らせつ/鬼)がいて、浮き袋がほしいと言ってくる。
渡したら自分が溺れ死んでしまうのである。
「羅刹よ、たとえ殺されても、この浮き袋は渡さないぞ」と答える。
羅刹は半分でもいいから、1/3でもいいからと哀願してくるが拒絶したという。
「この大海はいつまで続くかわからないから、
少しでも与えてしまったら途中で空気が抜けて溺れ死ぬから、それはできない相談だ」
こういう態度をみなさんはどう思いますか? 仏はどう解釈すると思いますか?
仏はそれでいいと羅刹を見殺しにした人を肯定するのである。
なぜかというと菩薩にとって禁戒をまもるのはおなじだからという理屈である。
羅刹は煩悩のようなもので、少しならいいだろうと戒を破ることを求めてくる。
しかし、少しでも戒を破ってはならない。
このような意味で羅刹を見殺しにして自分だけ生き残った人は偉いと仏は言っている。
この仏教説話はいろいろなことを考えさせられる意味深なものだと思う。
(以上1028ページ参照)

さて羅刹を見殺しにするのではなく、自分のほうを殺す説話も涅槃経にはある。
有名な雪山童子の話で、
以前にブログに詳細を書いたことがあるので()かんたんに紹介する。
雪山に真剣に仏法を求める童子がいた。
そこにやさしい声が聞こえてきた。
「諸行は無常であり、生滅するものである」
これこそ真理だと思った童子は続きを聞かせてもらいたくて声のほうに行く。
するとそこには腹を空かせた飢えた羅刹がいるではないか。
童子が続きを教えてくださいと頼んだら、おまえを食わせてくれるならいいという。
童子は了承する。そこで羅刹が教えてくれた真理は――。
「生滅を滅し已って、寂滅になった時が楽である」
童子は真理を岩や木に書き残すと、高い木によじ登り、そこから飛び降りて死んだという。
この童子こそ釈迦の過去世のすがたである。
真理というのは、もしかしたら死ぬのが最高であるということかもしれない。
(以上1062ページ参照)

あるいはみなが憂(うれ)い恐れる死こそ最上の恵みではなかろうか。
死こそ苦に満ちた生における最大の楽ではあるまいか。
涅槃経では仏が死ぬまえにこう言ったことになっている。

「欲望はみな無常なり。それゆえ私は貪着せぬ。
欲を離れて善く思惟(しゆい)すれば、そこで真(まこと)がさとられる。
完全に迷いを断ちきった者、その私は今日涅槃に入る。
私は迷いの岸を渡って、もはや苦しみをのりこえた。
さればこそ今日私は、上妙の楽しみばかりを受けられる」(P950)


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