「金光明経」

「金光明経」(山口益・小川一乗編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→これも全訳ではなく抄訳(部分訳)だが、むしろそれでいい。
マイナーな仏典の全訳なんていちいち読んでいたら寿命が尽きてしまう。
これは懺悔品(さんげほん)と呼ばれるところだけを訳したものらしい。
なーんかよく知らねえ菩薩が出てきてさ、これまでの旧悪を懺悔(ざんげ)するわけよ。
で、これからは善業(いいこと)をするから仏にしてくださいと哀願している。
ここで非常識なわたしは、ものすごーくヤバいことに気づいてしまったのだ~よ。
おさらいをすると小乗仏教は仏の教え(おれルール)。
大乗仏教は仏になるための教え。人間でも仏になれるとしたのが大乗仏教。
さてさて、だ~よ。バーンと言っちゃうよ。
いまふとおっさんは思っちゃったのだが、どうしてみんな仏になりたがるんだろう?
わたしは仏になりたいかって自問してみたら、うーん、べつにとしか。
キリスト教の信者さんは、神になりたいとか思わないわけだよね。
どうして仏教の人たちは仏になんかなりたがるんだろうか。
仏になりたいとか、そういう欲望自体が邪悪な煩悩(ぼんのう)なんじゃないか?
だって、考えてみてくださいよ。
成功者になりたいと仏になりたいって、どこかおなじ俗臭がプンプンしませんか?
仏になりたいって、おまえなにさまだよって話とも言えなくはないわけで。
仏になりたいとか考えているやつって、もしかしたらいちばん嫌いかもしれない。
仏志願の無名の菩薩がこんなことを懺悔している。

「身業の三種と、口業の四種と、意業の三種との十種の悪業のすべてを、
わたくしはいま懺悔いたします。
わたくしは、まさに自から苦報を受くべき罪業のすべてを、
諸々のみ仏の面前にて、いま誠心もって懺悔いたします」(P922)


なにこいつ善人ぶってるんだって思いませんか?
行為(身業)はまあともかく、悪口(口業)や邪念(意業)くらいはいいじゃん。
悪口って楽しいだろう? いない人の悪口とか最高だよねえ。
あたまのなかでくらい悪いことを考えたって、そのくらい自由だろう?
いわゆる善人ってこちらが思っているよりも生きるのが辛いのかなあ。
ちくいち悪いことを考えたら反省したりしているんだろうか。
でもさ、懺悔するってなんか「許して」って思いがありそうで、そこが甘い。
いったい悪を嫌い、善を求める人間の気持ってなんなのだろう。
悪いことをしたと後悔し、善行をなしたいと思う人ってなに?
それは人から善人って思われたいってだけじゃないのかと思ってしまう。
それにさ、あまり大きな声では言えないけれど善人ってつまらないよね。
善人って小さな悪もしない代わりに小さな善しかしない小物のような気がする。
悪人のほうがたしかに悪もするけれど、
思い切った大きな善をするのはこちらではないだろうか。
うだつの上がらないサラリーマンとか、仏さまのような顔をしていそうじゃん。
仏になりたいって、なんかもっとも卑賤で邪悪な煩悩のような気がする。
ある菩薩が仏になりたいって仏に泣きついている。

「願わくは、わたくしをして、これらの善業によって、
未来世に仏と成さしめて下さい。
群生を利益せんがために正法を説かしめて下さい。
有情の苦しみをことごとく解脱せしめるようにして下さい。
諸魔を降伏せしめるようにして下さい。
無上の法輪を転じしめるようにして下さい。
不可思議の永きにわたって有情利益のために生死に住せしめ下さい」(P924)


要するにみんなのために役立ちたいという欲望の発露である。
しかしさ、その欲望って最低の煩悩じゃないかという気もしなくわないわけで。
みんなの役に立ちたいとか、なーんかうさんくさくねえか。
敵を倒したいとかこっそり言っているのも自分を善だとか正義だとか思っていそうで怖い。
他人の苦しみって、どうにもならないことも多いよね。
こちらがあの人は大変そうだなと思ってる人が、けっこうお気楽に生きていて、
同情して助けようとしたから、かえって相手に自分の不幸を意識させちゃったりする。
むかしの虫けらのような貧農がだよ、「人生、そんなもんさ」とか思って、
うまくあきらめて生きていたのを、あなたたちの苦しみを救いたい、
とか仏モドキから真顔で言われたら逆にムカッとするというかさ。
なんでこんなにわたしはひねくれていて通俗的な善が嫌いなんだろう。
そして、どうしてみなさんがみなさん、そう善人ぶりたがるのかもわからない。
仏になりたいなんて善人ぶりっ子の極致とも言えるのではないか。
まあ、そういう善人たちに支えられて生きているという自覚が薄いのは、
当方がまだまだ未熟だからかもしれない。

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