「華厳経 浄行品」

「華厳経 浄行品」(長谷岡一也編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→いままで小乗仏教批判ばかりしてきたけれど、出家者にもいいところはある。
出家者はあるかないかわからない悟りを目指して修行しているわけだ。
少なくとも自分のあたまで考えようという姿勢は捨てていない。
しかし、在家の信徒というのは情けないところがある。
とくに新興宗教の末端信者なんかそうでしょ?
まったく自分のあたまで考えることなく機関紙や教祖の言うことを妄信している。
それは批判対象だが、しかし、そういうのがいちばん楽な生き方でもある。
なにも自分のあたまで考えることなく、
言われたとおりに行動するのがもしかしたらいちばん楽な生き方かもしれない。
このお経でも身分の低い智首菩薩が有名な文殊菩薩に質問している。

「どうすれば、一切衆生の依るべとなり、
燈(ともしび)となり、光明となり、導き手となるでしょうか。
どうすれば、菩薩は一切衆生の中で比類のないすぐれた者となるのでしょうか」(P762)


甘い、甘い、甘い! おまえごときが導き手になりたい?
そんな自分のあたまで考えられないやつが民衆を導いていけるものか。
そのくせイチバンになりたいなど、そのふざけた野心をまずなんとかしろ。
しかし、文殊菩薩は手とり足とりマニュアルをこいつに教えてやるのである。
むかしから教祖タイプと弟子タイプにわかれたのだろう。
教祖タイプは自分のあたまで考える人間で、弟子タイプはマニュアル愛好者である。
美人を見たときはどうしたらいいか?
ブスを見たときはどうしたらいいか?
そんなことまでいちいち書いてある。少しは自分で考えろって。
とはいえ、自分で考えるのって難しいことはたしかである。
とくに集団行動の際は自分のあたまで考えると自分勝手と非難されてしまう。
どうしても世間の通俗的価値観(いまだけ通じる価値観)を意識してしまい、
たとえば異常なほど女性を優先したりする行動を取る人も少なくないだろう。

「どうすれば?」というのは古今愚かな民が発してきた最多の問いなのではないか。
「どうすればいいか?」「どうすれば◯◯になるか?」「どうすれば××にならないか?」
答えがどこまでも「わからない」ことを知ったものは自分のあたまで考え始める。
答えをだれか人に求めるものが教祖や占い師、コーチのカモになるのだろう。
さて、美人を見たときはどうしたらいいか?
わたしは、けっ、いままでいい思いをしてきたんだろうなと舌打ちする。
ブスを見たときは、まあ「蓼(たで)食う虫も好き好き」だから安心しなと思う。
お経によると「正しい」答えは――。

「みめうるわしき人を見れば、衆生が、人間は本来、不浄なものであると知って、
諸々の仏や菩薩を敬うように、と願わなければならない。
みにくい人を見るときは、衆生が、悪を遠ざけ、
善をもって自分(みずから)を飾るように、と願わなければならない」(P772)


ブスを見たときの菩薩先生が取るべきとされる態度がすげえよな。
ブスは悪とか言っているみたいなもんだよ、これは。人権問題に発展しかねない。
いま(わたしも含めて)自分のあたまで考えられる人間って少ないよねえ。
毎日テレビを見、新聞を読み、病気になったら医者に行く。
自分のあたまで考えるというのは権威を疑うということなのかもしれない。
わたしのように釈迦は本当に偉かったのか、とか疑っちゃうと危ない人だけど。
まあ、大学教授や企業経営者くらいなら疑ってもいいんじゃないかなあ。
それから通念を疑ってみるのもおもしろいかもしれない。
時給850円の肉体労働はそれほどうんざりするものではなく、
ゲーム感覚でやればそこそこ悪くない時間つぶしの遊びではないか、とか。
……ちょっとマイナーすぎるネタでした。
金持は本当に幸福か? 長生きすればいいのか? 
役に立たないことはしちゃいけないのか?
まだまだいろいろ疑う(=自分のあたまで考える)余地は
世の中に残されているような気がする。
人間釈迦の権威を疑った不埒(ふらち)なやつらが
自分(たち)のあたまで考え創作したのが大乗仏典である。

(参考記事)
「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)


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