「華厳経 入法界品」

「華厳経 入法界品」(長谷岡一也編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→華厳経には「一即多 多即一」などおもしろい考え方が書かれているのだが、
本書における抄訳では取られていない。
興味のある向きは参考記事をご覧ください(だれも読まないよなあ)。
仏教って最初は我われとおなじ人間である釈迦の教えだったでしょ?
四諦(したい/苦しみを消す方法)とか十二因縁(苦の哲学)とか。
それが大乗仏教になるとお天道様(てんとさま/太陽)になっちゃうわけ。
お天道様が見てくれているから安心だよ、悪いことはできないね、という感覚。
身もふたもないことを言えば、人間の言葉にはそれほど力はないのかもしれない。
たとえば愛するわが子を亡くした親にかける言葉なんてないでしょう。
これはもう本当にかける言葉がない。
どんな言葉をかけても、「私の気持などわかるか」となってしまう。
意味不明の四諦や十二因縁を説くなど、火に油を注ぐようなもの。
じゃあ、周囲のものはなにをすればいいのかというと、なにもしなくていいのね。
かえって、なにもしないほうがいい。
弱みにつけこんで新興宗教に勧誘するなんていうのは人としての最低の行為。
子を亡くした傷心者にはなにもしなくていい。
本人が時間を経て回復するまで静かに見守ってあげたらいい。
しかし、これが難しい。ついついなにか手出しをしたくなってしまう。
どうしたら悲しみに暮れる人を気づかいながら、それでもなにもしないでいられるか。
お天道様(み仏)を信じることだと思う。
かならずお天道様(み仏)は見ていてくださるから、
いつか雪がとけるように悲しみで氷のようになった心も自然の色合いを取り戻すだろう。
これが大乗仏教の仏なのだが、わたしは小乗仏教の釈迦よりよほどいいと思う。
言葉による教えなんてめったに人を救わないのね。
もし悲嘆者を救うものがあれば太陽のような自然のちからとそれから時間である。
修行者の苦しみには四諦もいいのでしょうが、生活者の悲しみには役に立たない。
このため釈迦を超える大乗仏教の太陽のような不変の仏が考案されたのだろう。
今回は功徳など求めず謙虚に仏典から引用させていただく。

「日輪[太陽]が虚空にあって
すべての場処をへだてなく照らすように
み仏の智もまたそれに同じい。
三世を平等一味であると了知し、着するところなく、平等に照らしたもう。
たとえば、十五夜の
月は円満(まどか)にして、欠けることのないように
如来[み仏]もまたそれに同じい。
白法(清浄な法)で満ちたまえるを人は見る。
たとえば、空中を日輪が
運行して、しばらくも止まることのないように
如来もまたそれに同じい」(P691)


大空にまします日輪のような仏さまがかならずいらっしゃるから、
どんな悲しみにひたる人たちの氷のようになった心もいつかとけるだろう。
この太陽が夕方に落日となったとき、もっともその輝きは温かいものとなるので、
人は西方浄土の存在を確信し、阿弥陀仏信仰を始めたのであろう。
生活者の愛するものを亡くした悲嘆に修行はほとんど意味を持たないといってよい。
とはいえ、ほとんどだれもが人生で味わうのがこの悲しみであるといってよい。
いや、しかし、すべての血縁との関係を切って出家したものは、
この悲しみとは無縁であろう。小乗仏教の教えが
在俗の生活者に役に立たない理由はこんなところにもあるのではないか。

(参考記事)
「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4132-71e4c6b2