「首楞厳三昧経」

「首楞厳三昧経」(横超慧日・福島光哉編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→首楞厳三昧経(しゅりょうごんざんまいきょう)。
マイナーかつ、とてもいかがわしいお経である。
サンスクリット語原典が断片しか遺っていないらしく、ならインチキくさい。
インチキくさいのがよくないのではなく、そこがまたカルト的で香ばしい。
内容は、弟子が釈迦に究極の悟りを教えてください、とかいういつものやつだな。
なーんか話が神通力(超能力)になっちゃうんだ。
たしかにアホな民衆を一発で勧誘する手口として超能力ほど効果的なものはない。
修業を積んでいくと神通力(超能力)が身にそなわるらしいんだ。
ここであまりにもオカルトすぎてついてこれなくなった人には、はい、ごめんなさい。
わたしは超能力とかないだろうけれど、あってほしいと思う人間だから。
(妄想だろうけれど)いきなり相手の考えていることがふっとわかる(誤解する)
ような超能力モドキのテレパシー体験もなくはなくて、
あるのかって聞かれたら、ありますとは言えないけれども、
この複雑な感じ、おわかりいただけますでしょうか?

大乗仏教というのは四諦や十二因縁を否定して空(くう)を持ち出したわけでしょう。
空(くう)から見たら善も悪もない。善人も悪人もいない。
よい会社も悪い会社もない。よい方法も悪い方法もない。
なにをしてもいい。なんだっていい。
しかし、生きているかぎり、はっきりと善や悪はあるわけでしょう?
いくら空(くう)だとはいえ、悪いことは悪い。
ここでひっくり返るのだが、善ってそんなにいいのだろうか?
ぶっちゃけ、善人ぶったやつほどうざいものはないよねえ。
いつも善人ぶって「正しい」ことを言いながら、
しっかり自分だけ儲けている人とかいるじゃん。
本当は勇気がなくて悪いことができないだけなのに、それを善人の証にしているような。
もしかしたら悪って善よりも美しいのではないか。
邪悪なものは善よりも光り輝いているのではないか。黒光りしているとでも言おうか。
そもそも正も邪も空(くう)の「正しい」見方からしたらないのである。
善はあるのか、悪はあるのか。
空(くう)からしたら善や悪は有(存在する)でも無(存在しない)でもない。

「もし有無相対の区別をしなければ、悪魔の束縛より解脱できる。
もし見解する所がなければ、これが正見である。
このような正見には正もなければ邪もない」(P663)


善も悪もない(なにをしてもいい)。正も邪もない(なんだっていい)。
このお経のなかで、
菩薩(ぼさつ)が悪魔の国に舞い降りるシーンがあって、そこが圧巻だ。
まるで新興宗教のようで生き生きとしていてとてもよい。
見目うるわしい菩薩が悪魔の国に舞い降りたら、この国の女たちはどうするのか。
それに対して、菩薩はどうするのか。
あるいはここに神通力(超能力)の源があるのではないか。法悦とはこのことではないか。

「そのとき、悪魔のうち二百人の天女たちは淫欲にかられ、
この菩薩の端正なすがたに愛着心をおこした。
そして「もしこの人がわたくしと一緒になってくだされば、
わたくしたちはみなこの人の教えに随いましょう」とくちぐちにいった。
そこでこの菩薩は、天女たちには救われるべき宿縁が備わっていることを知った。
そのとたんに、この菩薩と同じように端正な二百人の天子のすがたとなった。
また宝珠をちりばめて、魔宮よりも優れた二百の閣台を作った。
天女たちはみな、自分がこの宝台の上に載せられているのに気づいて、
「この菩薩と一緒に楽しもう」と思った。
彼女らは願いがかなうと淫欲は消え失せて、みな深い信心を生じ、菩薩を敬愛した。
菩薩は彼女らの求めに応じて説法をし、
天女たちは無上なる完全な菩提心をおこしたのである」(P665)


これって乱交とか集団セックスって呼ばれるものでしょう?
神聖なるお経にこんな性描写があるんだから、仏教世界は奥深い。
禁欲的なキリスト教世界とは毛色の異なる味わいがある。
きっとこれは「なんだっていい」から「なにをしてもいい」という、
善悪や正邪を超えたまさしく空(くう)の世界の出来事なのだろう。
なんだっていい。なにをしてもいい。

「悪魔界の真実と仏界の真実とは一つであり、区別はないのです。
わたくしたちはこの真実を離れてはいないのです。
悪魔の世界のすがたはそのまま仏の世界のすがたであり、
悪魔界の法と仏界の法とは一つであって区別はありません」(P669)


このお経に文殊菩薩が「死ぬ死ぬ詐欺」をしたことが書かれている。
ある世界に文殊菩薩が高僧としていって死んでみせる。
そこで民衆からのお布施が集まり、信仰も深まる。
しかし、文殊菩薩は本当には死んでいないのである。死んだふりをしているだけだ。
またべつの世界に文殊菩薩は現われ説法する。
人は死に際して深く心を動かされるものだから、文殊菩薩はここでも死んでみせる。
布施として宝玉がたんまり集まり、その地における信仰も深まった。
文殊菩薩はこういうことを繰り返しやったと首楞厳三昧経に書いてある。
文殊菩薩は智恵を象徴する菩薩であるとされる。
まったくずる賢いというか、新興宗教の基本であるお布施集めをじつにうまくやっている。
そうして貯めこんだ金で乱交パーティーを開催したのだから、
それほど悪いやつでもないのだろう。まあちょっと狂っているが、
あたまのいいやつはときに狂人のように思われるものだから致し方あるまい。
もし世界が空(くう)ならば善も悪もなく、
ならば「なんだっていい」「なにをしてもいい」――。

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