「SとM」

「SとM」(鹿島茂/幻冬舎新書)

→どれだけ知識が偏っているのかと笑われるかもしれないが、
著名なフランス文学者(ってなに?)の鹿島茂氏のことはまったく存じあげなかった。
本書を読んで笑えて笑えて、生きているのってちょーおもしろいと思ったので、
ブックオフオンラインにて著者の本を複数購入してしまったよ。
世の中にはおもしろい本ってまだまだあるんだなあ。
著者の肩書だけが主張の根拠のちっとも学問的ではないヨタ話なのだが、
そこがいい。とっても笑えておもしろい。あんた、おもしろいことを書くなあ。
SとMは、サドとマゾで、加虐嗜好と被虐嗜好と言えるだろう。
マゾっていう言葉はすごいよなあ、と思う。
じつのところ苦しみは苦しみではなく、苦しみこそ快楽だって意味でしょ?
これほど深い人生思想はめったにお目にかかれないのではないか?
人間は楽を目指すように一見思われているが、
じつは苦にこそ快楽は宿っている。
苦行は快楽だから修行としておのれを痛めつけている修行者がいる。
苦行をしている人は偉いのではないのかもしれない。
彼(女)らは苦行が本音のところでは楽しいのかもしれない。
著者は宗教における苦行と快楽についてこう語っている。

「あまりに苦しく、あまりに怖いと、
脳がそれを緩和するためにドーパミンを放出することが実際にあるのです。
[引用者注:ちなみに著者は脳科学者でもなんでもない、ただのフランス文学オタク]
これと同じことが宗教の分野でも起こります。
多くの宗教では、抑制や禁欲を通り越して、
自分に苦痛を与えて痛めつけるという修行がおこなわれますが、
この宗教的な修行なども、「我慢する」が、ある限度を超えてしまうと、
ランナーズハイのような快楽に転化するという例とみなされます。
涅槃(ねはん)の境地というのは、おそらく、
こうした快楽となった禁欲・苦痛のことなのでしょう。
自己規律のレベルがものすごい人物をたまに見かけると、
「スゴイ!」と尊敬してしまいそうになりますが、
しかし、我慢をしている当の本人は、
案外、そのことで快楽を得ているかもしれないのです」(P38)


マゾの楽しさを深く知る著者はサドの不足を嘆く。
うまくマゾをいじめるようなサドが、まあいないのである。
サドとマゾのどちらが楽しいかといったら圧倒的にマゾである。
しかし、マゾが苦の快楽を味わうためには、
うまくサドにいじめてもらわなければならない。
マゾはサドに自分勝手にいじめてもらいたいわけではないのである。
自分の望むようないじめかたをしてもらいたい。
女にとって壁ドンは理想だが、うまい壁ドンをやれる男はまったくいないということ。
マゾよりサドのほうがはるかに難しい。
サドはマゾの気持を読んでいじめなければならないのだから、
より人の気持がよくわかる切れ者でなければならない。
人間はマゾで苦しみたいという面があるのである。
うまく苦しむのは快楽なのである。
社畜や仕事中毒者ほど人生の快楽を享受している人はいないのかもしれない。

「ところが、人間というのは、
「みんなの前で、お尻をむきだしにされて、鞭(むち)でビシビシと打たれる」
というような苦痛や屈辱を味っていると、なぜか、
それに快楽を感じるという回路が作られてしまうらしいのですね」(P64)


性的願望として女になっていじめられたいと夢想している男は多いのではないか。
女になってちからで強引に恥ずかしいところをむきだしにされたい。
女になっていやいや恥ずかしいポーズを取らされたい。屈辱にまみれてみたい。
好きな男から支配されて、あえて露出の多い格好をしろと言われたい。
人から支配されたい、はずかしめられたい、欲情されたい。

「もちろん、SMにも性的エクスタシーはあります。
セックスに近いものではあります。
ただし、SMの上級者にとって、
セックスは「恥ずかしさ」を出すために利用する程度のもので、
明確に「SMよりも下のもの」なのだそうです。
その理解に関しても「いいSがいない」からなのです」(P92)


SよりもMのほうが快楽が高く、しかしけれどもいいSはいないという困った状況だ。
うまくいじめてくれるSをMは求めている。
しかし、人は善人ぶりたがるものだから、なかなかMを効果的にいじめられない。
ついつい善人ぶってMの本当に望んでいるものを誤解するのである。
苦しむのを喜びとしている人のほうがはるかに多いのだから、
職場では平等や公平など考えず、マゾにはきつい仕事を振ったほうがいいのである。
バイト先で、この人はマゾだなあ、と思う大好きな人が幾人かいる。男女ともにである。
たぶんわたしはサドで、いじめられているマゾを見るのが楽しい。
それも優秀なサドで、マゾの快楽を理解したうえで、あえでサドの立場にいる。
名前を出しちゃいけないのだろうが、あの人なんかマゾでしょう。
ライン(流れ作業)できついところに振られたとき、
かなりの快楽を味わっているのではないか。
その快楽をどこかでわかっているから、わたしはちらちら見るのである。
マゾは苦痛を快楽と考えるから、あえてあまり声をかけない。
ただし、あなたの苦しみはわかっているということはアピールする。
マゾの場合、恋愛や友情が成立してしまったら、快楽は終了するのである。
だから、めったにいない稀有ないいサドであるわたしは相手の気持を尊重する。
繰り返すが、マゾのほうがサドよりも快感が強く、
そしてマゾ的快楽はだれにでも味わえるがサドはなかなか難しいのである。
苦しんでいる人を見て平気でいられる精神の持ち主は貴重なSである。
Mの気持がわかるSほど、よりMに深い満足を与えられるのである。
わたしは千人にひとりレベルのサドの素質を持ち合わせているようだから、
わざわざ志願してマゾになりたいとは思わない。苦しいことはしたくない。
マゾに奉仕する「サービスのS」でありたく思う。

「カルメンはドン・ホセの気持ちをもてあそびながら、
どんな束縛からも逃れようとする「自由な女」のように思えるのかもしれないけれど、
実際は、そうすることで、ドン・ホセのひそかな願望をかなえ、
究極のクライマックスに向かって
彼を駆り立てるという「サービス」をしているのです。
やはりSは「サービス」のSなのでしょう」(P150)


本書で高名なフランス文学者の著者が指摘していることだが、
日本人はマゾ体質な人が多い。苦しむのを喜びとしているマゾが多い。
サービス残業や労働中毒という苦を快楽に転化する能力を持つのがMである。
Mの快楽が成立するためにはSがいなければならない。
マゾの快楽というのはサドの視線があってはじめて発生するのである。
わたしはあえてMのために稀有なる貴重なSでありつづけたいと思う。
Mのように苦しい仕事をするのはいやだ。
けれども、ほかの凡庸なMとは異なり、
わたしは苦しんでいるMを無視せず直視するSの才能が少しばかりあるようだ。
SがいるおかげでMの快楽が増すのならば、わたしの存在価値もなくはない。
Mの気持がわかって、にもかかわらずSに徹せられる人のことを、
著名なフランス文学者で有名大学教授の鹿島茂氏は
「天然のS」と呼んで絶賛している。
きっとMはMのままで、SはSのままでいいのだろう。
Mのほうが快楽は高まるのでしょうが、あえてわたしは損なSの役を引き受けたい。

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