「先生はえらい」

「先生はえらい」(内田樹/ちくまプリマー新書)

→春日武彦との対談本でものすごくえらそうだったから内田樹は嫌いだったが、
この本はとてもおもしろく、ああ、そうそう、とものをわかる喜びに震えた。
「人はわかりあえない」というのはある種の真実である。
しかし、これは絶望ではなく、ものすげえ輝きを放つ希望なんじゃないか!?
というのが本書の内容である。
「人はわかりあえない」からこそ相手を誤解して恋愛なんてやらかすんだろう。
「人はわかりあえない」からこそコミュニケーションがおもしろくなる。
わからないという現象がいかに魅力的か。
そして、わからないものを誤解するところにこそ生きる楽しみがある。
だから、ラカン(えらい人らしい)はわざとわからない本を書いた、
と著者は本書で主張する。
わからない文章のほうが誤読する余地があっておもしろいじゃないか、と言うのである。
これはまったくそうで仏典なんかも意味がよくわからないから、
独自解釈をするのがおもしろいのである。
わたしなどわかりやすい文章を書こう、書こうとしているけれど、
もう少しわかりにくい文章を書いたほうがいいのかもしれない。
いや、いくらわかりやすい文章だって、わたしの考えていることは伝わらず、
読者さまはそれぞれ勝手な解釈をするのだろうが、そこがおもしろい。
わかってもらおうなんて思わないで、
いかに秘密の人でいつづけられるかが周囲から人気を得るこつなのかもしれない。
弟子がえらいとき先生がえらくなるのである。
先生をえらくするのは弟子なのである。
先生が教えようとも思っていなかったことを弟子は勝手に学び、
まさにその行為が先生をえらくするのだ。
そもそも「人はわかりあえない」のだから、
師匠(先生)が弟子になにかを教えられるはずがない。
あらゆる教育のようなものは弟子が勝手に学んでいるだけなのである。
「人はわかりあえない」は希望である。
「人のことがわかる」は絶望である。そもそもわかりあえないのだから、
わかったというのは誤解なのだが、その誤解も楽しいからまたいいのだろう。
名著から名文をいくつか抜粋しよう。この本はおもしろかった。

「恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は
「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」
という文型で語ります。みんなが知っている
「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。
先生も同じです。
誰も知らないこの先生のすばらしいところを、私だけは知っている、という「誤解」
(と申し上げてよろしいでしょう)からしか師弟関係は始まりません」(P21)


恋に落ちやすい人と落ちにくい人っているよねえ。
あまりにリアリストだと恋に落ちないんじゃないかなあ。
「人間なんて、そんなもの」という山田太一先生から教わった名文句を
一時期愛誦していたことがあったけれど、あれはよくないのかもしれない。

「先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。
そういうことが起こるのです」(P27)


アントニオ猪木はホウキとも名試合をすることができたというけれど、
本当に学習能力の高いやつにとっては時給850円の職場が学校になるのかもしれない。
わたしは自分のことが本当によくわからない。
最後までわかることはないから、そこがおもしろいのだろう。
親友と話していると、ふと話が脱線することがある。
そして、なんでもないつまらない話をするものだが、
あとになってから自分の話した言葉によって自分のことが少しだけわかるのである。
いや、わかったというのは錯覚で、自分への新しく楽しい誤解がひとつ生まれた。
人との会話はおもしろいのである。
どうしても相手から受けることをねらってしまうから、
自分が話そうと思っていなかったことを話してしまう。まさにそれこそ会話の妙。
これは相手が引き出しているということも言えるが、
相手が聞きたそうなことを自分がイメージしているだけとも言えなくはない。

「あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意していたこと」でも、
「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、
あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」
によって創作された話なんです。
奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、
対話している二人の当事者のどちらでもなく、
あるいは「合作」というのでもなく、そこに存在しないものなんです。
二人の人間がまっすぐ向き合って、
相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、
そこで話しているのは、二人のうちどちらでもないものなんです。
対話において語っているのは「第三者」です。
対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。
言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。
自分のものではないようだけれど、
はじめてかたちをとった「自分の思い」であるかのような、
そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。
見知らぬ、しかし、懐かしいことば。
そういうことばが口をついて出てくるとき、私たちは
「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります」(P61)


この感覚、わかるわかる、わっかりまくり、なのは対人運がいいからなのかもしれない。
なにが出てくるのがわからないから会話っておもしろいんだよねえ。
そういう創造的な会話をできる人とめぐりあえた人はなんて運がいいのだろう。
変なものが出てくる会話ほどおもしろいものはないのである。
文章を書くのも会話だから。
この文章は特定のだれかに向けて書いているわけだから。
来週の日曜日が楽しみです、みたいな。
しかし、その人以外もこの文章をそれぞれ好きなように解釈できるわけで、
なんでこんな感想文を書いているかっていうと、
書かないと本になにが書いてあるのかわからないから。

「恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」
というのは愛の始まりを告げることばですけれど、
「あなたって人が、よーくわかったわ」
というのはたいてい別れのときに言うことばです」(P192)


ブログにアフィリエイト(広告)を張っているけれど、ぜんぜん本は売れない。
みなさん、うちの記事を読んで、もうわかったと思っちゃうんだろうなあ。
いや、べつに本が売れても10円、20円の世界だから、
買ってくれなくてもぜんぜん構いませんけれど。
わたしってけっこう個性的な人だって思いませんか? 変人というかさあ。
わたしは間違える天才のようなところがある。
思いっきりの180度ずれた誤答をちからいっぱい書くような勢いがある。
でもさ、「正しい」ものがないとしたら、ぜんぶ誤答だから、
楽しくておもしろい誤答をできるのもまた能力じゃないかなあ。

「人間の個性というのは、言い換えれば、「誤答者」としての独創性です。
あるメッセージを他の誰もそんなふうには誤解しないような仕方で
誤解したという事実が、
その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです」(P152)


「先生はえらい」をひと言で要約したら、
「先生はえらい」と言えるのは「弟子のわたしがえらいから」ということになろう。
内田樹先生はえらいなあ。こう言えるのはわたしがえらいからである。
わたしはえらい。
この文章を読んで書き手をえらいと思ったとしたら、それはあなたがえらいからである。

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