「阿閦仏国経」

「阿閦仏国経」(桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→これもまた名前を聞いたこともないようなマイナーなお経である。
なんでもこのお経にめぐりあえた人は、さきの世で高い徳を積んだからだそうで、
このお経の内容を広めたものには広大な功徳があるらしい。
だまされたふりをして、このお経の内容を紹介してみたい。
みなさまもこの紹介記事を通して阿閦仏国経に触れられたのだから、
スーパーで半額食品をゲットできるくらいの功徳は得られるかもしれない。

阿閦仏(あしゅくぶつ)は東方妙喜世界におられる仏さまである。
対照的なのは西方浄土世界にいるという阿弥陀仏だろう。
この東西の仏の(お経のなかでの)発生時期の古さは
だいたいおなじくらいとされている。
阿弥陀仏信仰は栄えていったいっぽうで阿閦仏のほうはすたれていった。
いったいなにが勝敗をわけたのか。
こういうのを勝敗って言っていいのかわからないけれど。
阿閦仏も阿弥陀仏も一般人にはよくわからない世界なんだよねえ。
用語の確認をすると、仏になるまえの修行者のことを菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。
阿閦菩薩は、誓願を立てた、つまり目標を立てたんだ。
まあ、いい人間になりたいっていうか、仏さまになりたいから厳しい修業をするよって。
その結果として東方に阿閦仏の仏国土が開かれ、そこは妙喜世界と言われた。
イメージ的に理解できますか?
人間が誓願を立てて修行して、その結果、仏さまになって領地をもらうっていうの?
彼の仏国土を開き、そこで多くの人を救済するわけである。
結局、これはあれなんだよね。あれをごまかすためのテクニックっていうか。
厳しい修業とか本人にしか意味がなく、ほかの困っている人たちを救わないわけじゃない。
あいつら修業とか言ってるけれど、生産活動もしないでいい気なもんさ。
こういう批判をかわすために創作された物語ではないかと思う。
お坊さんが修行しているのは意味があって未来世で仏国土を開くためなんですよと。

ほかにも気さくなイメージで仏国土を説明することができる。
職場のひとりでも改心してさ、少し明るくなったら、笑顔の輪が広がるじゃんって話。
なにかに洗脳されたかのように「生産性は絶対正義」
とうわ言のようにつぶやいていた会社トップがさ、
「生産性も大事だけれど働いてくれる人も大事だな」とか、
ビジネスマンなら決していだいてはいけない仏心(ほとけごころ)が生まれたら、
職場の雰囲気も変わるわけで、それが仏国土とも言えなくはないわけ。
しかし、阿閦仏の仏国土である東方妙喜世界はすてきなところなんだ。
まず、みんな働かない。だから搾取されることはない。
以下は東方妙喜世界の説明の一部。

「人々はそれぞれが農・商などの業務に従事することなく、
その暮らしはみなしとしく快さとしずけさの中にある。
かの国の音楽は・歌謡は愛欲や恋情のしらべでなく、
それを聞いてほとけの法を受けるのである」(P632)


まったくいまの日本とは正反対だねえ。
いま経済界は若者に恋愛させようと必死でしょう?
マーケティングの偉い人が言っていたけれど、消費するのは女なんだってね。
男が稼いで女のために金を使い、結果として経済がよくなるというのが理想らしい。
というか、もう消費のくだらなさが男にはばれていて、
バカな女の欲望を刺激するしかない。
男は男のある欲望から、先に女の欲望を満たそうと働きアリのようにせっせと働く。
ではなく、働いてくれ。働いて女のために金を使ってくれ。
働け、働け、もっと働け! 使え、使え、湯水のごとく、じゃんじゃん金を使え!
景気がよくならないじゃないか。
べつに恋愛しないで家で本を読んでいてもいいと思うけれどね。
本はかならず新刊本屋で、そのうえ読まなくてもいいからたくさん買ってね。
結果としてうちの会社も少しうるおうから。
さて、仏典に話を戻すと、阿閦仏の東方妙喜世界には労働も恋愛もない。
それから名聞(修行者)たちは群れない。がんばらないけれど、怠けもしない。

「かの国の名聞たちは連れ立つ者のあることを願わず、
ひとり道を修行することを好む。
いちずにはげみ過ぎるような者もなければ、怠けおこたる者もいない」(P634)


修業(努力)はがんばりすぎず、そしてサボりすぎないで継続することが重要ってこと。
それから阿閦仏の東方妙喜世界はおかしなところなんだ。
自殺が流行っている。連鎖自殺の起こることがある。仏教で自殺は悪ではない。
欲望のなくなった状態を涅槃(ねはん)というけれど、それは死と限りなく近いわけ。
SMの世界はよく知らないけれど、
死を意識するときのエクスタシーってすごいんでしょ?
自殺というのは脳に最高の快感を得られる悟りの最高形態という可能性もありうる。
もちろん断定はしないけれど、
自殺にそういう見方もできなくはないと仏典に書いてある。
東方妙喜世界における自殺の様子を引用する。
般涅槃(はつねはん)とは入滅(にゅうめつ)すること、つまり死ぬこと。

「あるいは身から火を出して、みずから焼きつつ般涅槃したり、
身を隠したまま風の吹き去るように般涅槃するもあり、
あるいは空中を五色の雲が飛び、やがて消え去るように般涅槃するもあり、
あるいは身が雨のようになって空中にふりそそぎながら、
地上までは達せず、中途で消滅して般涅槃するもある。
これらはみな、阿閦ほとけが菩薩の行を修行しておられたとき、
その仏国の声聞たちが般涅槃するときは不思議なさまを示すべきであると
願(がん)を立てておられることによるのである」(P634)


焼身自殺をするのも、飛び降り自殺をするのも阿閦仏の思し召しってことか。
阿閦仏自身も、このお経の最後で焼身自殺をしているのだから意味深である。
「仏教では自殺を悪としている」なんて説く坊さんは不勉強なんだなあ。
さてさて、おいしいものはいちばん最後まで取っておいた。
この阿閦仏国経には大乗仏教とはなにか見たままにわかる重要な一文がある。
正直、若いお坊さんなんて釈迦と大乗仏教の関係がよくわかんないでしょ?
おっさんになったら適当にごまかしてうやむやにするのだろうけれど。
大乗仏教とはなにかを、マイナーな阿閦仏国経に教えてもらおう。
このお経で釈迦がすごいことを言っている。

「阿閦ほとけがかの国においてお説きになる法に比べれば、
われ釈迦牟尼(しゃかむに)ほとけがこの世界において説く法は
その千百万分の一にも足らぬ」(P635)


阿閦ほとけ>釈迦牟尼世尊

大乗仏教というのは、こういうもんなんだ。
お経で釈迦に自分なんかくだらない存在ですよ、と自己卑下させてしまう。
死人に口なしなのをいいことに、あろうことか釈迦の口を借りて、
釈迦をおとしめようとしたのが大乗仏典の作者たちだったのである。
ひでえやつらだが、まあ賢いことは認めざるをえない。
だって、なまの人間よりも小説に出てくる人たちのほうがおもしろいでしょ?
いや、そんなことはないかな?
問題は功徳だ。功徳、功徳。
このマイナーな経典をネットで広めてやった我輩に本当に功徳はあるのか。
いまからバイトに行くけれど、今日なんかいいことないかなあ。

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