「維摩経」

「維摩経」(横超慧日・三桐慈悲海編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→大乗仏典の維摩経(ゆいまきょう)は、小乗仏教批判の生活者仏教である。
出家主義の小乗仏教を、在家の生活者が否定している。
維摩居士という金持が病気になり、そこに見舞いに来た古株の仏弟子たちだが、
弟子たちは見舞いをいうどころか論争をふっかけられ在家の維摩に負けてしまう。
さて、この維摩経を読むのは二度目だが、いままで不思議に思っていた謎が解けた。
みなさんも思いませんか? どうしてこんなに仏典があるのだろうと。
おそらく、その答えのようなものが維摩経に書かれている。

「仏は一つのみ声によって法をお説きになるが、
衆生(しゅじょう/我われ人間)は分に随ってそれぞれに理解する。
そして皆世尊が自分と同じ言葉でお説きになったと思っている。
これぞ仏にのみそなわった神力であろう。
仏は一つのみ声によって法をお説きになるが、
衆生はそれぞれの理解したところに随ってあまねく受け学んで利益を得る。
これぞ仏にのみそなわった神力であろう。
仏は一つのみ声にによって法をお説きになるが、
衆生は畏(おそ)れるもあり、喜ぶもあり、また厭離の心をおこすもあり、
疑いをはらす者もある。これぞ仏にのみそなわった神力であろう」(P587)


仏教信仰とは葬式や法事のときに坊主を呼んで酒を呑ませ小遣いを与えることではなく、
我われのそれぞれが心のなかで仏を思い、
その自分のイメージした仏から自分に託されたメッセージを聞くことなのだと思う。
仏典を読むのもいい。わかりやすい解説書やブログを読むのもいい。
カルチャースクールでうさんくさい職業坊主の偽善的な説教を耳で学ぶのもよかろう。
しかし、それらの学習が仏教信仰なのではなく、
学んだことを自分のあたまで考え、自分の心のなかにそれぞれの仏を作り、、
その自分の仏を深く敬い仏の教えを聴聞するのが本当の信心ということになろう。
そうであるならば、これが絶対に唯一「正しい」というような仏の教えはなく、
仏の教えはそれぞれの心の数だけ存在するといってもいいのではないか。
仏典がたくさんあるのはこのためである。
それぞれがそれぞれの心のなかで仏から説法を受け、
その自分の真理こそ「正しい」仏法として世に広めたのが仏典ということだと思う。

維摩経には3つの漢訳(中国語訳)があるという。
そのうち有名なのが鳩摩羅什(くまらじゅう/344年-413年)のものと、
三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう/602年-664年)のものである。
鳩摩羅什のものが名訳として広く知れ渡ったらしい。
ところが、鳩摩羅什の訳と玄奘の訳では決定的な解釈の違いがあったという。
むろん、大学研究者ならぬ一般読者のわたしが本書の解題から教わったこと。
ひとつの文をまったく異なるように解釈して訳してもいいのだろう。
象徴的な文章は煩悩(ぼんのう/欲望)についてのものである。
ご存じでしょうが、釈迦は四諦(したい)の教えで煩悩を否定した。
維摩経は煩悩を肯定した教えとされている。
もしかしたらそれは鳩摩羅什の訳(解釈)のせいなのかもしれない。
ふたりの名僧の訳を比較してみよう。
涅槃(ねはん)とは悟りの境地のことである。煩悩と涅槃の関係はいかん?

「煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを冥坐となす」(鳩摩羅什訳)
「生死を捨てずして煩悩なく、涅槃を証すと雖(いえど)も所在なし、
これを冥坐となす」(玄奘訳)


玄奘訳のほうはとりたてて煩悩を肯定しているわけではないのである。
むしろ通常の仏教思想にしたがい煩悩は否定されているように見受けられる。
創価学会が鳩摩羅什をもてはやし玄奘をおとしめているのはこのためか。
ほかのも鳩摩羅什と玄奘の訳では煩悩の見方がまるで異なっている。

「諸々の煩悩はこれ道場なり、如実を知るが故に」(鳩摩羅什訳)
「諸々の煩悩を息(や)む、これ妙菩提なり、
如実に真法性を現証するがゆえに」(玄奘訳)


なにがいいたいのかというと、これこそ仏教だということである。
おなじ一文をいかように解釈してもよく、
そのそれぞれの解釈に全身で賭けて生きていくのが本当の信心である。
本当の信心は教祖さまや師匠の言葉を奴隷のように繰り返すことではなく、
それをさらに自分のあたまで考え心中におのれの真実を創造し、
そのうえで自分の仏に全身で賭けをして生きていくことだと思う。
本当の信心は教祖や師匠の言葉に陶酔することではなく、
自分の心(のなかの仏)を信じて生きていくことになるのではないだろうか。
そうだとしたら、鳩摩羅什訳も玄奘訳もどちらも「正しい」ことになろう。
彼らはそれぞれの心中で仏からの「正しい」言葉を聞いたのである。
唯一の「正しい」信心というものはおそらくなく、
それぞれの数だけそれぞれ「正しい」信心ならばあるに違いない。

維摩経の教えに話を移そう。
在家の資産家である維摩は解脱(げだつ)をこのようなものとして講義している。

「一切のことがらは幻化のすがたのようなものなのだから、
あなたはいまそれを懼(おそ)れるようなことがあってはなりません。
一切の言説はこの幻化の相と同じことなのです。
智者ともなると、文字に執着しないので懼れることがありません。
文字は自性[実体]のないものです。
従って文字というものもありません。これがすなわち解脱ということなのです。
解脱の相とは、諸法[世界]のあるがままなのです」(P597)


これをわかりやすく説明すると、世界って言葉で出来ているでしょう?
たとえば会社というのも言葉で、しかし実体はないといえばない。
会社と呼ばれている建物があるに過ぎない。
善とか悪とかも言葉に過ぎないと言えなくもない。
本当は世界および人間は善も悪もなく、ただあるがままで真実なのだが、
我われは心で対象を解釈して、あの人は悪人だ善人だと決めつける。
苦楽というのも結局、言葉による識別に過ぎず、ある労働はあるがままそのままだ。
なにかの仕事を苦しいと思うのも楽しいと思うのも心(言葉)による分別である。
維摩経は女風情が仏弟子に説教をかますおもしろい仏典なのだが、
その場で天女は仏弟子に男女の相違というのは
言葉による分別に過ぎぬと言い放っている。
解脱したら、あるがままの世界が見えてくるのである。
解脱から程遠い我ら凡夫は言葉によってあれは男、あれは女と分別してしまう。
男だからきつい仕事をやってもらおう、女だから楽な仕事をまわしてあげよう。
こういうのは解脱(悟り)の境地からもっとも離れた邪見とも言えよう。
仏さまのような上司がいたら、男に楽をさせ女に苦しみを与えるかもしれない(笑)。

さて、維摩居士が病床に伏したから説法の場が生まれたわけである。
まあ、どこが病気かよって話でピンピンしていて仏弟子をやっつけるのだが。
維摩が病気になった理由というのがおもしろい。

「あらゆる衆生が病気である。そのことのためにわたくしも病むのです。
もし衆生の病気がなくなれば、わたくしの病気もなくなるでしょう」(P600)


維摩というのは、我われ生活者の代表なのである。
市井の人々が病んでいるから、そのために維摩も病んでいるのである。
これは非常におもしろい考え方だと思う。
だれかひとりが悩んでいるということは、
もしかしたらそれは社会全体が悩んでいることなのかもしれない。
ならば、そのひとりの苦悩が解消されたら、社会全体も少しはよくなるのかもしれない。
いまわたしは苦悩していることがあって、自分の答えを求めて仏典を読み漁っている。
しかし、これは社会全体といったら大げさだが、
少なくともわたしが働いている職場全体の悩みと連関していることは疑いえない。
職場ではいろんな人の目線や笑顔、ため息からいろいろなことを無意識に感じている。
そういうことがこの読書ブログで読む本のタイトルを決め、
さらに職場全体の雰囲気を毎日感じながら、こういう記事を書いているのである。
そう考えたら、このブログ記事は職場の全員が創作しているともいえなくもない。
いちおうこの記事は仏典の解釈である。
もしかしたらあらゆる仏典がこのブログのような意味での集団創作だったのかもしれない。

いまからバイトに行くが煩悩にまみれたわたしは好きな人も嫌いな人もいる。
煩悩が燃えさかっているため、好きな仕事も嫌いな仕事もある。
しかし、維摩経によるとそのような煩悩はあっていいということになっている。
あの子はかわいいなあ、あの人は嫌いだあ、と思ってよいのである。
維摩経にそう書かれているからである。

「我見[自己主張]を起すこと須弥山(しゅみせん)のように高くてこそ、
よく無上なる完全な菩提心を発し、仏法を生ずることができるのです。
ですから一切の煩悩が如来[ほとけ]の種子であるのです。
譬(たと)ば、大海の底に入らなければ、
量(はか)り知れない価値の宝珠を手に入れることができないように、
このように煩悩の大海に入らなければ、一切智の宝を得ることはできません」(P618)


(だれも読まないでしょうが参考記事)
「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

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