「般若三昧経」

「般若三昧経」(桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→マイナーな初期大乗仏典の般若三昧経を読む。
ネットで検索したけれど、ほとんどヒットしなかった。
中国にはじめて念仏を伝えたお経とされている(もちろんインドからだよ)。
釈迦の教えをもとにしたという小乗仏教は禁欲的で人を幸福にしない宗教だと思う。
なぜなら小乗仏教はいうなれば目標宗教なのである。
悟りという究極の目標があって、その境地を目指してみんなで毎日24時間修行する。
いつか来るとされる悟りといわれる日のために毎日を修行に費やす。
で、悟れるかどうかもわからない。
というのも、だれが悟ったかを判定するのかって話だから。
偉い人から悟ったといわれたら悟りになるとしたらおかしな話だ。
それは他者からの評価(承認)を期待した俗物的な悟りになってしまう。
高僧とされている坊さんも本当に悟っているのかどうか疑わしい。
高僧が高僧たるゆえんはかつて高僧とされる人から認められたという一点に尽きる。
上司はどういうときに部下を認めるか考えてみよう。
どう考えたって自分にあいさつもしないような部下を
上司は出世させようとは思わないでしょ?
上司から気に入られるのが部下の出世するほとんど唯一の方法である。
上司を批判したらよほどの人格者以外は左遷されるかクビにされるかが落ちである。
であるならば、小乗仏教の目指す悟りは上司から認められることになってしまう。
上司(高僧/古株)から認められるために毎日懸命に努力(修業)するなんて、
それは悟りを目指す道のりとは程遠いのではないか。

繰り返すが、小乗仏教とは悟りを目標とした宗教だ。
悟りなんて一生あるかどうかわからないのだから(たぶん人は悟れないのでは?)、
毎日今日は悟っていないと苦しまなければならないことになる。
悟りまで一歩でも二歩でも近づくために毎日苦行を実践する。
あのさ、そんな人生のなにが楽しいのかって話になるわけ。
ちっともおもしろそうな人生ではない。
毎日、悟り澄ましたような顔をしながら、
今日も悟っていない、今日も悟っていないと苦しむだけの苦に満ちた修行人生。
話をがらりと変えるが、いまの日本人だってそうなのである。
目標を立ててそれに向けて努力しなければならない、
みたいな世間の威圧的な風潮があるじゃないですか?
いまのままではダメで常に目標に向かって努力しろ、
みたいな脅迫観念に支配されている人が多いように見受けられる。
将来のために資格をひとつでも多く取るよう、
毎日会社から疲れて帰ってきて、それからまた勉強する。
独身のものは少しでも条件のいい異性と結婚するのを目標にして婚活すべし。
どのビジネスマンもスキルアップを目指さなければならず、
願わくばより条件のよい転職や独立起業を果たすべきである。

根底にあるのは、子どものころより上(親や教師)から植えつけられた、
いまのままではいけないという洗脳である。
勉強していい学校に行きなさい。いいお友だちをたくさん作りなさい。
努力していい会社に入りなさい。会社では仕事で認められなさい。
あなたもいい齢なんだから結婚相手のひとりもいないの?
早く孫の顔が見たいわ。子どもの将来を考えていい学校に行かさなければ。
老後の貯金はいくらあっても十分ということはないから節約に努めよう。
貯金は今日よりも1円でも増えていたほうがいい。
以上のような、より上を目指すという考え方は生得的なものではなく、
教育の結果として植えつけられ、
マスコミからの強い影響のもとに育った洗脳ともいえるのではないか。
個人の人生のみならず会社もそうで、
企業は目標を立ててそれをかなえるのがよいとみな盲目的に信じている。
どうしていまのままでもいいとは思えないのだろう。
ひとりの人間として、いまこうして生きているだけでもいいではないか。
ひとつの会社として、
いま利益が上がっていてみんなで楽しく働いているならいいではないか。
なにかに洗脳されたように「上(悟り?)」を目指して、
毎日を苦しみにまみれたものにする必要がどこにあるのだろう。
たしかに上を目指すのはたいせつなのだろうが、しかし、
そうするといまあるもののよさに気がつかなくなってしまうのではないか。
上を目指して努力したら、かえって病気になったり、
逆に会社における収益が下がることもあろう。

では、どうしたらありきたりな毎日のよさに気づくのか。
いまこうして仕事があっていちおう健康に生きていることのすばらしさに
どのようにしたら気づくことができるのか。
一見すると退屈にも感じられる毎日は、
もしかしたら「ありふれた奇跡」の連続であるかもしれないのである。
いつ天災や難病、愛するものとの死別がドカーンと来てもおかしくないのである。
そうだとしたらいまがいちばん幸福だという可能性も考えられないだろうか。
幸福になるのは将来や明日ではなく、いまこの瞬間ではないだろうか。
しかし、忙しい日常に追いまくられているとなかなかそうは思えない。
我われは小乗仏教の坊さんのように毎日、
目標(悟り)を達成するために努力して自分から苦しんでいるようなところがある。
いかにしたら「ありふれた奇跡」に気づくことができるのか。

そこで大乗仏典の作者の創造したのが西方浄土なのである。
いま生きている世界とは異なるまったくべつの世界が西方にある。
そこは阿弥陀仏が常時説法している楽園である。
おそらく阿弥陀仏は西日(夕陽)信仰から生まれたものだろう。
夕焼けは美しいが、我われは西日にさえ注意しないと気がつかないほど忙しい。
仕事で忙しい手や足をストップして落日を見てみよう。
それから強い西日が照らし出す、なんでもないありきたりなものを見てみよう。
ぞくっとするほど美しいと感じることはないだろうか。
公園のゴミ箱でさえ夕日に照らされていると詩的な美をそなえている。
これとおなじ理屈で西方浄土にまします阿弥陀仏のことを念じていると、
毎日の単調な生活がまるで「ありふれた奇跡」のように見えるのである。
具体的には、会社の同僚のひとりひとりが生彩を放っているかのように見える。
ああ、この人も生きているんだなあ、
ということに打ち震えるような感動をおぼえる(大げさで偽善的かしら)。
センチメンタルかもしれないが、
ある瞬間にいま生きていることのすばらしさに打ちのめされることもあろう。
どうしてこういう奇跡体験が起こるかといえば、
べつの世界(西方浄土)の光で、いま生きている世界を照らしているからである。
心にもうひとつの世界を念じたら(想像したら)いまの世界の輝きが増す。
以下の般若三昧経の記述はそういうことをいっているのだと思う。

「人は睡眠中に夢みたさまざまなことを、やがて目覚めてのち、
ありありと思い出し、まのあたりに見るごとくにそれを他の人に語って、
あらためて悲喜の思いを起こしたりする。
ちょうどそのように、出家者にせよ、在家者にせよ、身をただし、心を静め、
西方の阿弥陀ほとけの国のありさまや、仏の法をお説きになるお姿を思って止まず、
一昼夜、ないしは七昼夜をも経るならば、
かれはやがて阿弥陀ほとけのお姿をありありと、
もしうつつにでなければ、夢の中においてなりと、
必らずまのあたりにあおぐだろう」(P567)


初期大乗仏典の般若三昧経はやはり小乗仏教を批判している。
小乗仏教の教えは、耳によっているといってよいだろう。
釈迦の教えを耳で聞いた人たちの歴史が小乗仏教の正しさの根拠となっている。
しかし、耳というのはそんなに当てになるものだろうか。
たとえば、山田太一氏でもだれでもいいが有名人の講演会に行ったとする。
翌日、聴衆に昨日どんな話を聞いたか質問したら答えは多様だろう。
驚くくらいまったくべつべつのことをそれぞれ人は聞いているはずである。
科学的実験でもやってみれば、これは実証されるはずである。
なぜこういうことが起こるのか?
講演会の聴衆は翌日、山田太一氏のことを思い出しているからである。
耳で入ったものは心で思われてはじめて一定の意味内容となる。
ボキャブラリー(語彙)が豊富な人ほど優位になるのはいうまでもない。
本当に山田太一のことが好きならば、
講演の断片を目にしただけで講演内容の全体までも思い描けるはずである。

なにをいいたいのかというと、重要なのは耳ではなく心ではないか?
大事なのは耳で聞いた意味内容ではなく、
釈迦というほとけをどれほど豊かに深く尊く心のなかで思えるかではないか?
釈迦の実際の弟子も、釈迦の説法を聞いたあと、
ひとりで孤独に心のなかで釈迦のことを思い、それを自分の生きるヒントにしたのである。
釈迦というほとけのことを孤独のただなかでどれだけ深く思えるかが問題なのだ。
ならば、大乗仏典作者のほうが小乗仏教の古株よりも、
より生き生きしたほとけを心のなかで思い描くことができたとは考えられないか。
生きている人間というのはどうしようもなくヘマをやらかすものである。
だとしたら、死後の弟子のほうが師匠の教えを深く理解することもないとはいえまい。
大乗仏典一般の重んじているのが耳ではなくそれぞれの心である。
これは大乗仏典が耳からではなく、心から創作されたためであろう。
そして、心というものは不思議なもので、
気分のいい日はなにもかもが人もすべて輝いて見えるようなところがある。
古いお経にもそういうことが書かれている。
功徳を積むとでも思って、どうかおつきあいください。

「実は三界(さんがい/世界)はただ心のみであり、
人はおのれの心に念ずるところを見るのである。
心がほとけとなり、心こそがほとけを見る。
心はそのままわがほとけであり、心はそのまま如来(にょらい)である。
心はすなわち、わが身であり、心によってほとけは見られる。
心は心を知らず、心は心を見ない。
心に固定的な思いのあるときまよいがあり、心に固定的な思いの無いときさとりがある。
およそすべての法に固定不変なものは無く、みな心の思いより起こる。
心によって何か固定的なものとして思いなされたところのものが
実はすべて空(くう)であることを知る時、そう思いなす心もまた空なのである」(P570)


ちょっと似合わぬまじめな話をやりすぎたような気もしなくもないので、
最後に俗っぽい話をしましょう。
耳は当てにならないって書いたけれど、目も当てにならないのかもしれない。
ひとつのおなじものを見ていても、
実際はそれぞれみんなべつのものを見ているのかもしれない。
目で見たものはいっしょでも、それを心で思ったときに変形するというのが理由である。
だから、恋愛みたいな珍現象が起こるのかもしれない。
結構さ、イケメンとブスや、ブサイクと美人みたいなカップルもいなくはないよね。
きっとあれって心のなかですごい変形が起きているんだろうなあ。
というのは、間違いで(だまされましたか?)、そもそもブスと美人の差がわからない。
わたしなんか心が病んでいるためか、女性の美を感受する器官が壊れている。
みんながこんな子のどこがいいの?
という子をきれいだなって思っちゃうようなところがある。
反対にテレビに出ているアイドルとか、みーんなおんなじ顔にしか見えないけれども。
こう考えるとブサイクやブスも絶望してはならないのかもしれない。
あるとき、ものすごい心のゆがんだ異性と出逢うかもしれないのだから。
とはいえ、メンヘラはめんどうくさすぎて、ちょっとって話だけれど。
ああ、オウム真理教の麻原彰晃みたいのも多くの信者の目には尊師と映っていたのか。
あの人、よく知らないけれど、目がよく見えないって話もあったよね。
あんがい目というものはものを見るものではなく、
なにかを見間違えるために人間にそなわっている器官なのかもしれない。
美女など糞袋(くそぶくろ)にすぎないのに、みんなチヤホヤするもんねえ。
はてまあ、いったい何人がこんなつまらない記事をお読みか知らないけれど、
目で読んだ内容もきっとそれぞれ心のなかでそれぞれに変化するのだろう。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/4122-d0f9ac48