「大品般若波羅蜜経」

「大品般若波羅蜜経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→結局、お坊さんが釈迦の作った戒(おれルール)を守っても、なんにもならないわけ。
いまもいま病院では難病で苦しんでいる高校生とかその親がいて、
それはもう必死になってどうにかならないかと願っているのだけれども、
本音をぶちまけるなら、
そういう現実に対して坊さんが修行してなんになるのって話でしょ?
貧困問題もどうにもならない。
貧困は連鎖するもので、貧困家庭に生まれちゃったらなかなか這いあがれない。
そこはもう努力とかなんの関係もない。
上のほうの人たちは貧困問題を努力の有無に帰結しようとしている。
そうしないと安心できないから。
貧困をかかえている人は努力が足らなかったから本人の問題なんだ。
証拠は、貧困家庭出身でも成り上がったやつがいるじゃないか。
だから、いま貧困で苦しんでいるものは努力が足らない。
しかし、実際はぜんぜんそんなことはない。
貧困をかかえているにもかかわらず変に努力をしちゃうと負のループにおちいる。
毎日くたくたになるまで働くとものを考えるゆとりがなくなるからかえってよくない。
つまり、なにが現実かっていうと、いまの日本もむかしのインドも、
世の中は徹底的に理不尽で不公平で不平等だってこと。
顔ひとつとってもそうでしょう。
それぞれの顔に世の中の理不尽や不公平が刻み込まれていると言ってもよい。
女なら納得してくれるでしょうが、美人に生まれたら絶対得でしょう?
貧困家庭出身でもちょー美人なら一発逆転もありうるってくらい。
男が顔のことを言っちゃいけないのでしょうけれど、イケメンはいいよなあ。

で、なにが言いたいのかっていうと坊さんが修行してなんになるわけ?
お坊さんが釈迦が決めた「おれルール」を守って、それがなんの役に立つの?
坊さんが修行したら難病の少年少女が治るわけ?
坊さんが一生懸命努力したら貧困の苦しみが消えるとでもいうのか?
そもそもどうしてこういう理不尽、不公平、不平等があるのか説明してみろ。
おまえはブッダ(目覚めた人)なんだろう?
だったら、この狂った世界の成り立ちでも教えてくれよ。
四諦八正道(小乗仏教の教え)なんてまったく役に立たないぞ。
こういう疑問に対する答えとして仏典が創作されたのだろう。
まず基本用語を確認します。
以下は宗教評論家のひろさちや先生の受け売りだけれど――。
小乗仏教というのは釈迦(仏)の教え(まあ、おれルールだよなあ)。
大乗仏教は仏になる教え。
大乗仏教では永遠のブッダ(目覚めた人)というのを創造して、
インドに生まれた釈迦は無限かつ無数のブッダのひとりに過ぎないと考える。
そして、大乗仏教ではブッダになろうと修行しているものを菩薩(ぼさつ)という。
菩薩は六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵)を実践しなければならない。
ちなみにいま六波羅蜜がパッと出てこないでネット検索してしまった(笑)。
いちおう菩薩も釈迦の作った「おれルール(五戒)」は守ろうねって話になっている。
でも、そんなルールを守ったって現実の理不尽や不公平は変わらないじゃないか。
どうして世の中はこうまで不平等なのか。
マイナーな大品般若波羅蜜経にはこう書かれている。
ほとけ(ブッダ)が須菩提という弟子に説いている。

「また、須菩提よ、菩薩が戒波羅蜜を修めている時、
もし衆生(しゅじょう/人間)にして、過去において殺生(せっしょう)を犯し、
あるいは盗みをし、
あるいはそのほか十の悪しき行為として数えられるような悪事のどれかをなして、
その結果、短命であったり、多病であったり、顔の色が悪かったり、
身に威儀が具わらなかったり、身分の低い家に生まれたり、
姿かたちが醜かったりする者を見たならば、
まさに次のような誓願を起すべきである。
――『わたしは、その所に応じ、その時に応じた仕方で、よく戒波羅蜜を修めるであろう。
そして、わたしがやがて無上のさとりを得る時には、
わが仏国の衆生にけっしてこのような不幸はあらしめまい』と」(P529)


ごまかしっちゃあ、ごまかしである。
ふつうの人はかわいそうな人たちを見ていると心が痛むのではないか。
あのかわいそうな人たちは過去世で悪事をなしたんだといったん切り捨てるのだ。
それはごまかしだけれども、
そうでも思わないとこの世の理不尽を正視すると狂ってしまうようなところがある。
そのうえで仏国という、もうひとつの世界を仮構するわけである。
あらゆる不幸が存在しない仏国というものがあるとする。
我われ仏教の信徒は六波羅蜜を実践しようではないか。そして、願おう。
さとりを得たらば仏国というのが目のまえにきっと開かれ、
そこにはあらゆる不公平や不平等が存在しないだろう。
仏国というのはフィクションのようなものと考えればよい。
我われは映画や小説といったフィクションを鑑賞して慰めを得るでしょう?
けれども、現実には映画のようなこと、小説のようなことはない。
でも、そういう世界があったらどんなにいいことか。
仏国というのは、いまの映画や小説の世界のようなものと解釈すればよいのではないか。
しかし、インドの仏教徒は映画や小説が大好きな恋愛がお嫌いのようである。
お経に書いてあるから。

「また、衆生が男女恋愛して、身を交わらすのを見ては、
わが仏国にはこのようなことは無からしめようという願いを起こすべきである」(P532)


じゃあ、仏国はどこにあるのかって話だよねえ。
たまになら映画や小説みたいなことも現実に起こるわけじゃない。ごくたまになら。
それと同様、いまここが仏国だと考えてみたらどうだろう。
いまこのありのままの世界がそのまんま仏国だとは考えられないか。
どうしたらそう思えるのかというと、そこは空(くう)の思想が関係している。
まえに空というのは「ええじゃないか」という意味だと書いたことがある。
教科書的には空(くう)とは、なにごとも実体がないとかそういう意味になっているはず。
これは言い換えたら、なんだってええんじゃないかということになるわけ。
短命だって、病気だって、貧乏だって、ブスだって、ブサイクだってええじゃないか。
永遠の宇宙から見たら、そんなもん大した差はありはせんよ。
短命の人、病人、貧乏人、ブス、ブサイク、
そういう人がいるから世界は美しいんじゃないか。
そういう不幸な人がいるから美談のようなものが生まれるわけだから。
不幸ってあんがいそのままで美しいのではないか。
まあ、実際に病気で苦しんでいる人はそう思えないのだろうけれど。
でもさ、病床でふっと夕陽を見たとき、
サラリーマン時代にはその美しさに気がつかなかったと思うこともあるんじゃないかなあ。
よくわかりませんよ。よくわかりませんけれど。

さて話は変わってもし世界が空(くう/なんだっていい)であるならば、
修業のレベルみたいのがあるのはおかしいわけだよね。
人間のいやなところはすぐ上下をつけたがる。
おれはあいつより上だとか、あいつより下だから悔しいとか。
いまの成功法則みたいのもそうだよね。
成功するかどうかなんて運や過去世が決めていると思うけれど、
世の中には成功法則があって成功のレベルがあると信じている人もいる。
仏教の世界では我われは菩薩で悟りを開くことがいわゆる成功になる。
成功法則とか修行のレベルとか、大乗仏教にはそういうのはあるのか。
弟子が世尊(釈迦)に質問している。

「世尊、もしすべての法はその法のおのずからなあり方、
すなわち法性にほかならないのでありましたら、
菩薩はなにゆえに第一地から第十地に至るまでの修行の段階を追って
学んでゆかなければならないのでしょうか。
法性の中にはこのような段階の区別は無いでありましょうに。
また、世尊、菩薩が誤った道に陥ち込むということは無いことでありましょう。
なぜならば、世尊、
法性の中には正しい道とか誤った道とかの区別はありませんから」(P537)


この問いに世尊(釈迦)はどう答えているか。
「そのとおりである。須菩提よ、そのとおりである。そなたの言うとおりである」
どういうことか。「正しい道とか誤った道とかの区別」はない。
人生に正しい道などない。
すいすい世を渡っているつもりでも、あるとき難病にかかってしまうかもしれない。
会社で出世して役職に就き生産性と効率、スピードこそが正義と思っていたら、
自分の子どもが自動車に轢き殺されて不幸のどん底に落ちてしまうかもしれない。
自分は社会のスピードアップに貢献していると思っていたら、
まさにその社会のスピードの象徴である自動車に
愛するわが子が殺されてしまうようなことも絶対にないとは言えまい。
そうならないかもしれないし、そうなるかもしれないし、
それはもう運や過去世の問題だから仏国ならぬ人間世界ではどうしようもない。
正しい道を歩んでいたら不幸に遭遇しないとかそういうことはまったくない。
なぜならそもそも「正しい道とか誤った道とかの区別」はないからである。
大品般若波羅蜜経にはそういうことが書かれているのではないかとわたしは思う。

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