「小品般若波羅蜜経」

「小品般若波羅蜜経」(干潟竜祥・桜部建編訳/「仏教聖典」平楽寺書店)

→「小品般若波羅蜜経」は大乗仏典である。
大乗仏教と小乗仏教の違いを簡単に説明する。
仏教というのは、釈迦ファンクラブからスタートしたのである。
AKBでもなんでもそうだろうが、ファンクラブというのは古参が威張るものと決まっている。
新参は古株の老人のまえで肩身の狭い思いをしなければならない。
いまの若い人は知らないでしょうが、山田太一というテレビライターがいる。
このファンクラブのようなものに参加したことがあるけれど、
「私たちは30年まえから山田先生のドラマを見ているのよ」と言われるとかなわない。
何回か山田先生とお茶をしたことがあると言われるともっとかなわない。
しかし、わたしほど山田太一のホンを読み込んだものはいないという自負もある。
果たして古株ファンとわたしのどちらが山田太一を理解しているか。
古株ファンが山田太一を好きなのはわかるが、
彼(女)らはその「好き」をうまく表現できないのである。
山田太一ドラマのどこかどういうふうにいいか庶民ゆえ言葉でうまく説明できない。
しかし、古参で古株だから自分たちのほうが山田太一を理解していると思っている。
「あなた山田太一さんとお茶したことあーる?」と聞かれたら終わりである。
わたしは山田太一さんとお逢いするどころか言葉を交わしたことさえ一度としてない。
ならば、わたしが山田太一ドラマを論じるのは意味がないのか。
それはそうではないわけでしょう? 
山田太一さんと逢ったことがなくても氏のドラマを論じることができる。
古株なんかよりもより深く山田太一ドラマの魅力を語れるかもしれない。
古株のファンより自分のほうがわかっていると言ってもいいのかもしれない。
言ってもいいだろう。――これが大乗仏教なのである。
古参や古株でなれあっているいる釈迦ファンクラブを大乗仏教は批判した。
あれは少しの人しか救いの船に乗せない小舟のような仏教で、
自分たちが大乗仏教ならばやつらは小乗仏教だと古株連中を否定した革新派がいた。

大乗仏教は釈迦の教えではないから仏教ではないという批判もあろう。
しかし、どちらもおなじ釈迦ファンクラブ。
逢ったことがあるかないかなんて、それほど重要だろうか。
小乗仏教のほうだって釈迦の死後10年も経てば開祖に逢ったことのない信者も
わんさかいたはずである。
わたしは小乗仏教よりも大乗仏教のほうが好きだ。
なぜなら小乗仏教の教えはどこまでもつまらなく役に立たないのに対して、
大乗仏教はロマンスがあるというか突飛でおもしろいのである。

「小品般若波羅蜜経」の話をしよう。
意味は小さな(小品)智恵(般若)の完成(波羅蜜)くらいでいいのだろう。
では、このお経で完成した智恵とはなにか。
ひと言でいえば、絶対がある。永遠がある。無限がある。このくらいになろうか。
お偉いお釈迦さまも結局人間であっさり死んでしまったわけでしょう。
釈迦も限界のある有限の存在でしかなかった。
人間釈迦はひとりふたりとカウントできる人間にしか過ぎなかった。
彼の教えもカウントされうる有限のものでしかない。
しかし、カウントできない絶対なるもの、永遠なるもの、無限なるものがある。
人間釈迦は死んだが、絶対的な永遠的な無限のブッダはいるのではないか。
そういうブッダがいたらどんなにいいことか。
なら、いたことにしてしまえ。こうして「小品般若波羅蜜経」は創作されたのだと思う。
以下は永遠が発明された瞬間なのかもしれない。

「およそ物質的な存在にせよ、精神的な存在にせよ、すべてが無量ですから、
般若波羅蜜は無量です。また無限なものを対象とするから、般若波羅蜜は無限です。
無限なものを対象にするとはいかなることかといえば、
あらゆるものが初めもなく中もなく終りもなく、
また最初も中ほども最後も認識することができないから無限であり、
そのように無限なものを対象とするから般若波羅蜜は無限です」(P425)


意味がわからないって? 
わたしだってわからんよ。わからないところがいいんじゃないか。
まあ、わかりやすくいえば永遠というものがございますよってこと。
宇宙の永遠を考えたら、たかだか百年にも及ばぬ人の一生など米粒程度だろう。
時給850円と1000円のあいだで心が揺れ動くのは永遠を知らないからともいえよう。
永遠から見たら、人生でなにが起こっても大したことではないと考えられないか。
10万円のほうがたしかに5万円よりも多い。これは有限のカウントできる世界の話だ。
しかし、般若波羅蜜は無限の智恵なのである。
そこでは10万円も5万円も意味をなさない。
そういうカウントできない世界があるという智恵があれば、ときにおもしろいことが起こる。
実際にカウントできない世界はあるのである。
なぜならこのお経にそう書いてあるのだから。
意味がわからなくても、ここまで読んでくださっているのならそれだけでいい。
なぜなら、いま抜粋だけれどお経をみなさまもお読みになられたでしょう?
これだけで功徳があるのだから。今日なーんかいいことあるかもよ~。
釈迦はお経のなかで弟子のカーウシカに語りかける。

「またもし、カーウシカよ、人が般若波羅蜜の教えを書写し、あるいは読誦している時は、
他の者は、それが人間にせよ、人間でないものにせよ、
その場所に近づいてかれに害をなすことはできない。
ただかれがおのれの過去の業(ごう)のむくいとして
害を被(こうむ)らねばならない場合は例外である」(P428)


お経はお守りみたいなものなんだ。
今日の占いで運勢がいいと気分がよくなるでしょう? あれとおなじと思えばよい。
結局、古今、人間にとって不安がいちばんよくないのだと思う。
あることをするのでも不安たっぷりでするのと自信を持ってするのでは結果が異なる。
では、どうしたら不安を少しでも消せるか。自分に自信を持つことができるようになるか。
不安になどなる必要はないのである。もっと自信を持っていい。
なぜなら、永遠のほとけさまが常にあなたを見守ってくれてるからである。
釈迦は弟子の舎利弗(しゃりほつ)に語りかける。

「さて、舎利弗よ、わたしが亡くなったのち、
般若波羅蜜の教えはまず南の地方に流布するであろう。
南の地方からさらに西の地方に流布するであろう。
西の地方からさらに北の地方に流布するであろう。
舎利弗よ、のちの世の正法(しょうぼう)の消え失せようとする時、
この教えは如来(にょらい)によってその土地にもたらされるのである。
そこにおいて、もし般若波羅蜜を書き写し、受けたもち、供養する者があれば、
ほとけの眼はその人を見ており、ほとけはその人を知り、
たえずその人に思いを送っているのである」(P454)


ほとけさまが見守ってくれているから、なにがあっても大丈夫なのである。
絶対になんとかなるから大丈夫、大丈夫、大丈夫なのである。
いちおう、なにが起きても大丈夫という理論的根拠はある。
少し難しいかもしれないが、功徳を積むと思ってちょっとがんばってみてください。

「そのとおりである。須菩薩よ、すべて法はみな言葉による表現を超えている。
すべてのものの空(くう)なるあり方は言葉をもって言い表すことができない。」
「世尊、そのように言葉による表現を超えているものには
それによって何かが増えるということはありませんし、
それによって何かが減るということもありません」(P478)


この世の現象はすべて空(くう)で実体のない幻想のようなものだから、
なにが起きようとそんなものは大したことがなく大丈夫なのである。
この世の裏には目に見えない、
言葉にならないものが存在しているから大丈夫なのである。
なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい。
がんばってもいいし、がんばらなくてもいい。
修業してもいいけれど、べつに修業なんかしなくてもいい。

「般若波羅蜜[永遠]に立てば、いかなる法もこれと定まったものとして
捉(とら)えられるものはありません。
道の実践というもむなしいおおぞらのごときものであり。
それこそがすなわち般若波羅蜜による実践であります。
世尊、いかなる法をも実践しないのが、
すなわち、般若波羅蜜による道の実践であります」(P467)


なにもしなくていいとお経に書いてあるのである。生きていたらいい。
死んでもいいが、生きているのもいい。生きているのは楽しいだろう。
なら、生きていていい。生きているだけでいい。生きているのはいいものである。

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