「お経のすべて」

「[宗派別] お経のすべて」(藤井正雄編/日本文芸社)

→むかしインドに3ヶ月行ったことがあると言ったら、
バイト先のインド人女性から「仕事で?」と聞かれた。
本当はうまいこと事故かなんかで死ねないかなあ(犯罪に巻き込まれて死ぬのもいい)、
と思ってふつう3ヶ月も旅するのなら入らない海外旅行保険にあえて入っての
不届き極まりない渡天竺(インド行)だったのである。
「遊びで」と答えたら「いつ」と聞かれた。
9年まえと答えたら、9年まえのインドはいまとぜんぜん違うと言われた。
数えなおしてみたら、正しくは今年で10年だった。あれから10年経ったのかあ。
これ見よがしに岩波文庫の「ブッダのことば(スッタニパータ)」を持って
3ヶ月かけて南から北までインド全土を旅した。
八大仏跡地はぜんぶ行ったし、そのほか仏教観光地もかなりまわった記憶がある。
それがきっかけで仏教を勉強するようになったのである。
インドでもらった宿題にこの10年取り組んでいたとも言えよう。
10年間も独学で仏教を勉強していたのかと自分でも驚いてしまう。
ひろさちや先生や梅原猛先生の本のお世話にはなったけれど独学である。
独学でも10年やればお経の意味くらいはわかるようになるのである。
本当にお経の意味がわかったのかって? ええ、はい、わかっておる。
お経の意味は「わからない」であることがわかった。

ちょっとまえ少しバイトを休んでお経を読んでいた。
お経を読むとなにがいいのかと言うと「無敵の人」になれるのである。
将来の不安とか目先の損得勘定とか、どうでもよくなるってこと。
たぶん客観的に見たらいまのわたしの状況はそうとうにヤバいのではないか?
38歳で時給850円でアルバイトしているって社会的評価は最低だろう?
はっきり言って、わたしより社会的信頼がないのは生活保護受給者くらいではないか?
読者さまがもしわたしの身分になったら不安で爆発してしまうような気がする。
将来、どうするんだ? 資格を取ったりしないのか?
少しでも時給のいい仕事を探せ。いまからでも遅くないから職業訓練に行け。
むろんのことわたしだって心配性な日本人だから、
ときおりこういう常識があたまをぶんぶん飛び交って発狂しそうになるときがある。
でもさ、お経を読むとスパースター状態というか「無敵の人」になれるんだ。
エリートとか底辺って、そういう目で見るからそうなんで実際は空(くう)じゃないか。
時給850円と1000円の差とか、宇宙から見たら塵(ちり)にも等しい。
人はどのみち死ぬのだし、死んだら浄土に往生できるのだから、ま、なんでもいっか。
お経によって「ええじゃないか」モードに入ることができるのである。
ええじゃないか。なんだって、ええじゃないか。
いまが楽しかったら人からはどう見られようが、そんなもん、ええじゃないか。
もてなくたって、ええじゃないか。
友人がいないのや少ないのも、そんなもん、ええじゃないか。
イケメンとかブサイクとか、美人とかブスとか、ええじゃないか。
お経を読むと、ええじゃないか、とみんな笑い飛ばせるようになるのである。
むかし龍樹研究家の大学の先生からメールをいただいたことがあるけれど
(自分が学んだ仏教大学院に奨学金で入ってはどうかという内容)、
そこに入って数年間勉強してもいまのように空(くう)はわからなかったのではないか。
仏教の空(くう)って、なんでもええじゃないかってことよ。
サンスクリット語やパーリ語を勉強するのはたしか偉いのだろうが、
そういうことをすると自分が偉くなったような気がして
かえって空(くう)から遠ざかるのではないか。

観音経はおもしろいねえ。人はなんで救われてもいいって書いてある。
子どもに救われても犯罪者に救われても他の宗教家に救われてもいい。
婆羅門(ばらもん)に救われてもいいって書いてあるんだから。
創価学会でも幸福の科学でも本人が救われるのならなんでもいいのだろう。
カトリックでもプロテスタントでもイスラームでもなんだっていい。
男は女に救われたらそのときその女は観音菩薩の化身だって考えるわけ。
男に救われる女がいたら、そのときの男はそのときその場だけのかもしれないが、
男は女にとっては観音菩薩。
われわれみんながときに観音菩薩になり、
ちょっとした笑顔の交流で救いあっているのかもしれない。
で、その観音菩薩はなんのために娑婆(しゃば/この世)に来たかっていうと、
遊びにきたんだってはっきり観音経に書いてある。
だから、遊んでいいんだよね。もっと遊んでいい。遊び暮らしてもいい。
だって、われわれはみな観音菩薩で
遊ぶためにこの世に来たって観音経に書いてあるんだから。
観音経っていったら法華経の一部よ。
法華経は石原慎太郎先生も愛好しているようなお偉いお経なわけね。

最後にだれも興味のないマイナーなお経の話。
天台宗では俗に「朝題目に夕念仏」といわれているらしい(P254)。
どういうことかというと、朝は法華経を読誦する。
で、一日が終え夕方になったら今度は阿弥陀仏を念想するという。
これすごいわかるって気がする。
朝はなんだか法華経(観音経)のほうが意気が上がる。
夕方はなんとなーくおつかれさま南無阿弥陀仏って言葉が出てきちゃう。
結局、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の差ってそのくらいなんだよねえ。
法然も日蓮もおなじ天台宗出身で、
ふたりの違いは夕方が好きか朝が好きか程度のもので、
つかみあいの喧嘩をするほどのものではないのではないか。
朝は南無妙法蓮華経で夕方は南無阿弥陀仏でもいいとわたしは思う。
根っこの天台宗では実際にそんな感じらしいんだから、
どっちが「正しい」とか獅子吼(ししく/シャウト)する必要ってあるか?
南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏、どっちでもええじゃないかって話だ。
マネージャーでも正社員でもパートでも、
そんなもん、なんだってええじゃないかという話とおなじ。
いまから法華経でも読んで時給850円のパートに行くことにしよう。

COMMENT

東方不敗 URL @
04/24 12:34
男はつらいよ. >で、その観音菩薩はなんのために娑婆(しゃば/この世)来たかっていうと、
遊びにきたんだってはっきり観音経に書いてある。

フーテンの寅さんみたいな感じ?
Yonda? URL @
04/26 07:57
東方不敗さんへ. 

「男はつらいよ」って恥ずかしながら1作も見たことがないのでよくわかりません。

金曜日、やたらみんな誤ピックを連発し検品がすごいことになっていたそうです。休憩室で「土屋さんがブログに変なことを書いたから」という声を盗み聞きました。え? と思いましたね。共時関係はあっても因果関係はないのではないかと。まあ、どうでもいい戸田の話でした。








 

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