「新註歎異抄」

「新註歎異抄」(佐藤正英/朝日文庫)

→歎異抄を数百回も読んだことあるなんて白状すると、
どんなヘビーな人生を送ってきたのかと思われるかもしれないけれど、
いまはもうなにがヘビーなんだかよくわからなくなっている。
50歳を過ぎて毎日低賃金で深夜までヘビーなものを持ちつづける人生のほうが、
わが人生なんかよりよほどヘビーじゃないかと思ったり。
でもさ、本人は正社員中間管理職時代より
いまのほうがよほど満ち足りている可能性もある。
他人のことはわからない。それぞれ持って生まれたものが異なる。
人の話を聞くと、自分だったらその人生は耐えられないと思うことがある。
しかし、本人はぜんぜんしんどいなんて思っていない可能性もあるわけだから。

歎異抄はゴーストライターの唯円が書いた親鸞の教えの書とされている。
どうやらまったく世間には受けいれられなかったようだが(お気の毒さま)、
本書で当時(1994年)東京大学教授だった著者は
歎異抄に関するかなりとっぴな新説を出している。それがまたおもしろい。
通常、歎異抄は第一条から第十条までが親鸞の言葉とされ重んじられている。
いっぽうで第十一条から十八条、後序は唯円の思想がまじっているので
軽んじられることが多い。
つまり第一条から第十条までが主内容で、
あとは文庫本の解説のようなものという考え方だ。
東大教授の著者は、
錯簡(さっかん/ページの取り違え)があったのではないかと指摘する。
むかしの本はたまにページの順番が違っていることがある。
歎異抄のオリジナルたる和綴じ本でこの錯簡が起こったのではないか。
著者は書いていないが、腹黒い蓮如がわざとやったのではないか
とわたしはさらに新説を出したくなってしまうところではあるけれど。
さて、著者はどうしてそのようなことを思いついたのか。
歎異抄の後序に「大切の証文ども少々ぬきいでまゐたせさふらふて、
目やすにして、この書にそへまゐらせてさふらふなり」とあるが、
その「大切の証文ども」がどこにもないからである。
もしや歎異抄の第一条から第十条までがその「大切の証文ども」ではないか。
要するに、どういうことか。
完全な正確を期すといささか著者の説とは異なってしまうのかもしれないが、
わかりやすく言えばこういうことである。
じつのところ歎異抄の主内容は第十一条から第十八条の唯円の論述であった。
第十一条から第十八条までが最初に掲載され、
第一条から第十条まではおまけに過ぎなかった。
歎異抄は親鸞の本ではなく唯円の仏教思想書で、
親鸞の言葉は自分の論述を証明するための付け足しに過ぎなかった。
以上がだれにも認められなかった東大教授の佐藤正英氏の考えた新説である。

この考えをもとに第十一条から第十八条までを最初に持ってきて、
その後に附録として第一条から第十条を付け足し再構成したのが本書である。
読みなれた歎異抄をいままでの逆の順番で読んだ感想は――。
わたしはほとんどだれにも認められていない佐藤正英氏の説は正しいと思う。
識者は親鸞の言葉だからという理由で(権威に弱い!)
第一条から第十条までをことさら重んじるのがいままでのならいであった。
しかし、私見では第一条から第十条よりも、
第十一条から第十八条までのほうが深い内容を語っているように思われるからだ。
もっと言ってしまえば、第十一条から第十八条のほうが本としておもしろい。
著者の新説をさらに過激化すると、歎異抄は親鸞の書ではなく唯円の思想書である。
教科書には歎異抄=親鸞のようなことが書かれているが、じつはそうではなく、
歎異抄は唯円その人の主著で、唯円はおのれの権威づけに親鸞を利用しただけだ。
わずか順番を変えただけだが、従来の歎異抄と佐藤正英氏の新註歎異抄は、
読んでみるとまったく別の代物になっていた。
歎異抄の主役は唯円で親鸞など脇役に過ぎないことがよくわかる。
親鸞など河合隼雄の本におけるユング程度の役割しかしていないとも言いうる。

さて、難しい学問的な話はもうおしまい。
いままでこのブログにも10回近く歎異抄の感想を書いているのではないか。
調べてみたら歎異抄を読み返したのはほぼ1年ぶりのようだ。
2015年の4月に歎異抄を読んで思ったことをできるわけわかりやすく書きたい。
現実は歎異抄程度でも、しかも現代語訳でさえも読めない人が大半だろう。
歎異抄はやはりインテリか心に生死の悩みをかかえたものしか読めない。
歎異抄を読む気力や時間のない人のためにいちばんのエッセンスを抽出する。
歎異抄の考え方のどこか革命的なのか。
それは自力信仰(努力信仰)を批判して他力信仰を推奨するここである。
以下、わかりやすくするため適宜[カッコ]で意味内容を補足する。

「願[仏さま]にほこりてつくらんつみ(罪)も宿業のもよほすゆへなり。
されば、よきこともあしきことも業報[宿業による報い]にさしまかせて、
ひとへに本願[仏さま]を
たのみまゐらすればこそ[信じることこそ]、他力にてはさふらへ」(第十三条)


たとえば、悪いことをしてしまったとする。卑近な例をあげると――。
自転車に乗っていたら誤って飛び出してきた小学生とぶつかってしまった。
もっと軽い例は、ダイエットをするつもりだったのにケーキを3つも食べてしまった。
これはあなたが悪いのではなく「宿業のもよほすゆへ」なのである。
前世でなした行ないの報いとして、
あなたは自転車で小学生と衝突しなければならなかったのだし、
いまケーキを3つ食べざるをえなかっは、
これまたじつのところは前世でなした行ないの報い。
そうだとしたら、まったく反省する必要がないことになる。
「されば、よきこともあしきことも業報にさしまかせて」生きよう。
生きていれば大小を問わずいいことも悪いこともあろう。
いまの人はいいことが起こるのも悪いことが起こるのも、
なんとなく自分のせいだと思っている。しかしそれは違うと歎異抄は言うのである。
いいことも悪いこともいまのあなたとは関係なく、前世の行ないの報いなのである。
宿業とは、前世でなした業(行ない)がいまの命に宿っているということ。
業報とは、宿業が逃れようもなく報いてしまうこと。
いいことも悪いことも自分のせいで起こるのではなく業報だとしたらどうだ。
もしそうならば「よきこともあしきことも業報[宿業による報い]にさしまかせて、
ひとへに本願[仏さま]をたのみまゐらすればこそ[信じることこそ]、
他力にてはさふらへ」でいいのではないか。他力を生きていいのではないか。
他力の反対は自力である。
親鸞はほかの本(「一念多念文意」)で自力をこう定義している。

「自力といふは、わが身をたのみ、わが心をたのむ、わが力をはげみ、
わがさまざまの善根をたのむひとなり」


なんでも自分で努力して自分の心がけしだいでなんでも可能だと信じているのが、
自力の人である。ビジネス書や自己啓発書が好きな人は自力の人だろう。
しかし「よきこともあしきことも」業報ゆえと考えるのが他力の人である。
たとえば、現代の多くの人が目標としているのが成功や幸福だろう。
いっぽうで鎌倉時代の人にとっては極楽往生することが成功であり幸福だった。
であるならば、歎異抄の「往生」の部分を「成功」に入れ替えて読んでもいいのではないか。
学者には決してできない冒険的なことをしてみよう。

「信心さだまりなば、往生[成功]は弥陀[阿弥陀仏/仏さま]に
はからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。
わろからんにつけても[うまくいかなくても]いよいよ願力[仏さま]を
あをぎまゐらせば、自然のことわりにて、
柔和・忍辱の[辛抱する]こころもいでくべし。
すべてよろづのことにつけて往生[成功]にはかしこきおもひを具せずして、
ただほれぼれと弥陀[仏さま]の御恩の深重なること
つねにおもひいだしまゐらすべし。
しかれば念仏もまうされさふらう。これ自然なり。
わがはからはざるを[自分であれこれ努力しないことを]自然ともうすなり。
これ、すなはち他力にてまします。
しかるを自然といふことの別にあるやうに、われものしりがほ[物知り顔]に
いふひとのさふらうよしうけたまはる、あさましくさふらふ」(第十五条)


そうはいってもやはり鎌倉時代の人も往生のために善行をしたがったのである。
いまの人も成功するために、いわゆる善とされていることをすることが多いでしょう。
みんなと仲良くしなければという強迫観念にかられて嫌いな人にも笑顔を差し向けたり。
満員きつきつの通勤電車のなかで脳を活性化させるとかいう変な音楽を聞いたりさ。
夢を手帳に書いて毎日10回見ることをおのれに課している人とかいそう。
会う人はみな自分の先生とか思い込んでやたら腰を低くしてみんなからバカにされたり。
そういう成功のための努力を歎異抄は自力と言っているのである。
しかし、本当に往生(成功)したかったらくだらぬ自力を捨てて、
仏さまの力=他力にまかせたほうがよろしい。
どうしてみなそんなに努力して世間的にいいとされることをしたがるのだろう。
いいことをしている自分はしていない人よりも上だとか思い上がっているんじゃないか。
それは間違いであると歎異抄は言う。
いいことをしている人よりもむしろ悪いことをしている人のほうが往生(成功)に近い。
きれいごとを廃して、本音で世界を見たら悪いことをしている人ほど成功しているじゃない。
女を何人も泣かせているような悪人がけっこう人生うまくいっているのが現実じゃん。
このからくりを歎異抄は解き明かしてくれるのだからありがてえ。

「善人なをもて往生[成功]する。いはんや悪人をや」。
しかるを、世のひとつねにいはく「悪人なを往生[成功]す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれ[理由]あるにに(似)たれども、
本願他力の意趣にそむけり[仏さまの力を理解していない]。
そのゆへは、自力作善のひとは、
ひとへに他力[仏さま]をたのむこころか(欠)けたるあひだ[ため]、
弥陀の本願にあらず[仏さまが本当に救われたい対象ではない]。
しかれども自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、
真実報土[正真正銘]の往生[成功]をとぐるなり」(第三条)


これはいったいどういうことを言っているのか。
成功(往生)したかったらなにをすればいいのか。
ただただ念仏(南無阿弥陀仏と口にする)して、
ほかはことさらなにもしなくてもいいのである。
たまたま宿業ゆえにいいことをしてしまうことがあっても、
それが成功(往生)につながるなんて思うのは仏さまの力を信じていない証拠。
たまたま宿業ゆえに悪いとされることをしても反省する必要はなく、
それが成功(往生)する妨げになるなんて思うのは仏さまの力を信じていない証拠。
ここでいう仏さまの力とは自然の力、つまり他力のことである。
念仏するとはどういうことか。念仏する意味とはなにか。
歎異抄にはこう書いてある。

「念仏には、無義[よくわからん]をもて義[その意味]とす。
不可称[測り知ることができない]、
不可説[説明できない]、不可思議のゆゑに」と[親鸞は]おほせさふらひき」(第十条)


親鸞は念仏は不可思議であるという。では、この不可思議とはなにか。
親鸞の別の本(「善導和尚言」)に不可思議をこう定義しているところがあるらしい。
本書の注で著者に教えてもらったが、この箇所はかなり有益だった。
親鸞、いわく――。

「不可思議と申すは、……こころのおよばずと申す言葉なり。
……仏、仏とのみぞしろしめすべきなり。それを不可思議とは申すなり」


不可思議とは、仏と仏のみが知っていることである。
つまり、念仏の不可思議とは人間にはわからないことである。
人生万事、どうなっているのかわからないことを、
わからないままそのまんま認めようというのが念仏だ。
ちなみにこの「仏、仏とのみぞしろしめすべきなり」は、
法華経の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」にほかならない。
浄土教系は法華経を捨てたと思われがちだが、
深いところでは念仏も法華経に根を持っていることがわかるのではないだろうか。
人生はデタラメで裏側がどうなっているのかまるでわからない。
善人が不幸のどん底に落ちることがあれば、悪人がトントン拍子に出世することもある。
そもそも善人、悪人というが、なにが善でなにが悪かも仏さま以外は知りようがない。
そのことを深々と認めようではないかというのが唯円や親鸞の推奨する南無阿弥陀仏だ。
人生の不可思議(デタラメ)に波長を合わすために念仏をするのである。
人生は不可思議(デタラメ)だから、その不可思議をそのまんま認めて念仏すればいい。
なぜなら念仏の意味は不可思議だからである。
人生の不可思議に対して我われのなしうるのは、
その不可思議をそのまんま称えることくらいではないか。
桜の花は咲かすことも散るのをとめるのも人為的にはできないが(=不可思議)、
ただただ桜の美しさ(=自然)をそのまんま愛(め)でることならば可能である。
書きたくないが成功マニュアルのようなものにしてしまえば、
人生で起こる小さな不思議に目を配りながら、
その不思議をそのまんま大切にしていたら、それほど悪いようにはならない気がする。
なにかしないと不安なら抹香くさいけれど、南無阿弥陀仏と小声でつぶやけばいい。
個人的には南無観世音菩薩や南無妙法蓮華経でもいいと思う。

さて、以下は「ここが変だぞ歎異抄」を書いてみよう。
むかしはあの古典の歎異抄に書いてあることだから、
おかしいと思うのは自分がいたらないせいだと思っていた。
もう数百回も読んだ身ゆえ、おかしいところはここがおかしいと指摘してみよう。
宗教書というのはそういうものだからもうどうしようもないのかもしれないが、
歎異抄の著者・唯円も自分は絶対に正しくてほかはぜんぶ間違えというスタンス。
その根拠は自分こそ親鸞の正しい教えをじかに耳で聞いた正統の弟子だからという。
これは親鸞の権威を利用して、
自分の考えを絶対的に正しいと主張しているようなものではないか。
そもそも唯円が親鸞に会って教えを聞いたとされるのは40年以上もむかしである。
人間は40年以上まえに聞いた話をそうそう記憶していられるものだろうか。
だから、このため「本の山」に何度も書いてきたが、
歎異抄の正体は親鸞の教えというよりも唯円自身の教えであったような気がする。
しかし「正しい」ことは狂気か権威によらなければならない。
親鸞はおのれの狂気に依拠し、唯円は親鸞という権威に正しさを求めたのだろう。
それから歎異抄には決定的な矛盾がある。
「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」と言っているのである。
にもかわらず、唯円が弟子ぶって――。

「先師口伝の真信に異なることを嘆き、後学相続の疑惑有ることを思ふ」

このようにいうのはどう考えても理に適っていない。
これは歎異抄の序文に唯円が自分こそ親鸞の有力な弟子で
あるかのように装って書いていることである。さらに続けて唯円は書く。

「幸いに有縁の知識に依らずんば、争(いか)でか易行の一門に入ることを得んや。
全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ」


これを著者はこう現代語訳している。

「幸いにしてすぐれた師に出会うことがなければ、
どうして念仏という易行門に入ることができようか。
自分勝手な理解によって
阿弥陀仏のはたらきの本来の趣旨を乱してはならない」(P86)


これはおかしいと思う。念仏は難しい聖道門ではなく易行の浄土門である。
易行とは、かんたんでだれでも可能な口で唱える念仏のことである。
すぐれた先生に出会わないと易行門に入れないというのはおかしい。
あたまのいい先生に教わって修業するのが難しい聖道門(お坊さんの世界)。
念仏は易行門だから、そうだとしたらどう考えたところで、
すぐれた先生も熱心な勉強も厳しい修行もいらないのではないか。
念仏というのは「自分勝手な理解」でしていいから易行門なのである。
学のない貧農がそれぞれの理解で救われるのが易行門たる念仏のよさだ。
すぐれた師に出会わなければ易行門に入れないのならば、
どこが易行門なのだろうか。それはおかしいぜってことだ。
これは唯円が先生商売をしていたから、思わず書いてしまったことではないか。
人間はなかなか「自分勝手な理解」=「自分のあたまで考えること」ができない。
ついつい偉いとされる人に「正しい」ことを聞きに行ってしまう。
そこを利用して先生商売でメシを食うやからが現われるわけである。
念仏なんて易行なんだからなにもわからず念仏していれば救われるのである。
にもかかわらず、「先生、先生!」と言ってしまうところに、
それぞれどうしようもなく孤独で群れたがる人間の業のようなものが透けて見える。
本来、南無阿弥陀仏と唱えたら独りではなく阿弥陀仏さまが寄り添ってくれるのだが、
そこまでの信心にはいたらないものが「すぐれた師」なるものを求めたがるのだろう。

(参考記事)
以下は暇なときに書いた歎異抄の感想。
目薬必須の超長文記事ゆえ読んでくれた人にはお茶をご馳走します。
まあ、読めないと思いますがね。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3196.html

COMMENT

上善如水 URL @
04/23 20:41
. 超長文でしたが、読みましたありがとうございます
Yonda? URL @
04/24 10:50
上善如水さんへ. 

お読みくださりありがとうございます。人さまの貴重なお時間を奪ってしまったと思うと心苦しくさえあります。ここで南無阿弥陀仏とか最後に書くと、大嫌いなうさんくせえ偽善坊主っぽいですね。南無阿弥陀仏。








 

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