「ゴッドファーザー PART2」

パート1がつまらなくてパート2がおもしろくなる映画なんてあるんだなあ。
パート1はパート2をおもしろくする布石に過ぎないのに、
なぜ助走のようなパート1が多数派から支持され権威からも評価されたのかわからない。
そもそも人生万事、世の中のこと、評価に関することみなみな、
本当のことはなにもわからない。
いったいなにが「おもしろい」作品なのか。おもしろいってどういうことなのか。
自分がおもしろいと感じたものは他人もおもしろいと感じるものなのか。
おもしろいと好き嫌いってどういう関係があるんだろう?
「おもしろい=好き」「つまらない=嫌い」の等式は成立するかどうかだ。
映画オンチのわたしの感想は「ゴッドファーザーPART1」はつまらなかったけれど。
PART2の後半はとてもおもしろかった。
で、このふたつをふくめて「ゴッドファーザー」を好きか嫌いかと問われたら、
それはわからない。あえてわからないと言いたい。
なぜなら好き嫌いを言ってしまうと党派性、派閥性が生じそうだから。
いきなり大げさな話をすると、
人間はみな孤独でさみしいからどうしようもなく連帯してしまう(群れちゃう)。
しかし、血縁以外で人間同士をむすびつけるものは好きと嫌いしかないような気がする。
ある人が好き(ヒットラー、昭和天皇、毛沢東、ホーチミン、会社創業者、池田大作)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
反対にある人が嫌い(ユダヤ人、穢多非人、アカ、中韓、貧乏底辺、脱会者)
ということが理由で人は群れていっときの孤独を忘れることができる。
好き嫌いと群れというのはとても強い相関関係があるような気がしてならない。
みんな群れたいからなにかを好き、あるいは嫌いと言うのではないだろうか。
いや、考えすぎかな。
わたしは群れるのがなんかいやで、みんなが好きと言っているものを
群れたくないという理由で嫌いと言ってしまうようなところがある。
PART1、2を見て「ゴッドファーザー」が好きか嫌いかはやはりわからないと答えたい。

☆ ☆ ☆

「ゴッドファーザーPART2」はおもしろかった。どこがおもしろかったか書く。
パート2はマフィアの二代目ボスになった主人公と、
その父親の青年時代が同時並行で描かれる。
パート2のあらすじも細かくはよくわからなくてネットで調べたのだが、
サイトによって紹介されているストーリーが違うので
以下自分がそうだと思った物語をそれこそ真実であると思って書く。
初代ゴッドファーザーは少年時代のシチリアでマフィアに兄と母を殺されている。
アメリカに逃亡してなんとか妻子を得てまじめに食品雑貨店に勤務していた。
ところが、ここでもマフィアが現われ職を追われてしまう。
マフィアが自分の甥を働かせろと店主に命令したからクビになったわけである。
で、バイクタクシーの運転手になったけれども、またマフィアが現われる。
日の稼ぎから数割をみかじめ料(上納金)として払えと言うのだ。
青年は仕事仲間と相談する。マフィアなんかに金を渡す必要があるのかどうか。
仲間は払おうと言う。
若き初代ゴッドファーザーは「理不尽だ」と憤る。
「それが世の中だ」と仲間は青年をさとす。世の中、そんなもんよ。
むかしから現代までわれわれの大半は、
早いものは学生のうちから世の中の理不尽に気づく。
みんな無意識のうちに「それが世の中だ」とあきらめおのれの天からの分け前を知る。
世の中、そんなもんだ。あきらめよう。どうしようもないものはどうしようもない。
しかし、兄と母を殺された青年はうんざりだと思う。理不尽な世の中にはうんざりする。
ならば、どうしたらいいのか。
その威張っているマフィアをぶっ殺してしまえばいいではないか。
どうして他人を殺してはいけないのか。
なにが隣人を愛せだ。笑わせるな。自分が生き残るためなら他人を殺してもいいだろう。
一切れのパンしかなかったらそれを他人に与えるなんておかしい。
他人からパンを奪ってでも人は生きるべきだ。
命は大切だという。だから死ぬな、殺すなという。
しかし、ふたつの命がともに生きられないのなら自分が死ぬべきか、他人が死ぬべきか。
命が大切だというのなら、
自分の命のために他人を世の中から抹消してもいいはずだ。
命が大切だというのなら、
自分の妻子のために他人に死んでもらうことも許されるに違いない。
青年は小悪党のマフィアを拳銃で撃ち殺す。
この最初の殺人がゴッドファーザーへの第一歩であった。
青年は我慢するのをやめたのである。「それが世の中だ」とあきらめるのをやめた。
生きるというのは勝つか負けるかの生存競争だ。
自分や妻子のためなら人を殺してなにが悪いか。隣人愛とかきれいごとはやめようぜ。
むかつくやつは殺してもいいんじゃないか。
「ゴッドファーザー」は1、2ともにとにかく殺人シーンが多いけれど、
その根底にある思想は断じて「汝(なんじ)の敵を愛せよ」ではない。
「ゴッドファーザー」はわれわれになにを伝えているのか。

「汝の敵を殺害せよ!」

汝の敵は絶対に許すな。汝の敵への憎しみは決して忘れるな。
世の中、本当のところは殺(や)るか殺られるかなのである。
ならば、そう気づいたのなら殺られるまえに殺るしかないだろう。
資本主義社会は企業と企業の生存競争である。
生きるか死ぬかだ。殺るか殺られるかだ。何度でも言おう。殺られるまえに殺れ。
企業のなかでも社長や重役といったポストはかぎられている。
会社の同僚は仲間なんかじゃない。
あいつが出世したらへたをしたら自分がリストラされかねないのが会社である。
会社をクビになったら妻子まで路頭に迷わせてしまうではないか。
人間関係というのは、敵か味方しかない。
だとしたら敵はどうしたらいいのか。汝の敵を愛せよ? バカ言ってんじゃないよ。
汝の敵は殺害せよ。汝の敵の息の根をとめろ。
初代ゴッドファーザーの兄や母はなぜ殺されたのか?
力がなかったからである。権力がなかったからである。弱いものは殺され損である。
弱いものは虐げられいつも貧乏くじを引かされる。
力のない弱いものはうさんくさい牧師や神父から「汝の敵を愛せよ」と教わり、
お互いの貧しさを嘆きながら「それが世の中だ」と愚痴を言うしかない。
しかし、本当にそれだけしか道はないのか。
弱いものはどんな手を使ってでも強くなるべきではないか。
どうしたら強くなれるのか。いま強がっているものを抹殺すればいいのである。
世の中は奪うか奪われるかだ。
十字架に昆虫標本のようにはりつけられた珍種のペテン師は言ったとされている。
いまも聖職者がそれを真似てうそくせえ説教をする。「貧しき者は幸いなり」と。
いな、である。貧しいものは餓死をする。貧乏人の命は軽い。
貧乏な母子は虫けらのように殺されても文句ひとつ言えないのである。
世の中は力だ。男の人生はいかに権力をにぎるかだ。
初代も二代目もゴッドファーザーは言うであろう。

「貧しきものは幸いではない!」

「ゴッドファーザーPART2」がおもしろいのは、
「親の因果が子に報う」という宿命の感覚をうまく描いているところである。
二代目ゴッドファーザーはパート2ではじつの兄まで殺してしまう。
なぜなら、兄は自分の過去の殺人行為を知っているからである。
もし寝返られたら自分の破滅につながる。
できの悪い兄と優秀なマフィアのドンである自分のどちらが生き残るべきか。
どちらかが死なねばならぬなら兄のほうが死ぬべきだろう。
この兄はダメ男なのに生意気にも自分に嫉妬していろいろ画策してきたではないか。
聖書ではカインが嫉妬から弟のアベルを殺しているけれど、
アハハ、ハハハ、ハッハッハ、兄カインよ、死ぬのはおまえのほうだからな!
しかし、二代目ゴッドファーザーは、
自分がどうしてそれをしたかわかっていないのがいい。
二代目ゴッドファーザーはなぜああも多くの人を殺されなければならなかったのか。
それは本当に二代目の罪なのか。
くそ長い映画を最後まで見た観客はそうではないことがうっすらわかるようになっている。
初代ゴッドファーザーがちんぴらマフィアを殺したから、
それが因となり縁が熟して二代目ゴッドファーザーは大量殺人という果を
どうしようもなく宿命のように引き起こさなければならなかった。
初代ゴッドファーザーは家族を幸せにするためにマフィアのボスになった。
しかし、その結果として最愛の息子が兄を殺すにいたったのである。
家族愛がある青年をマフィアのボスにして、
その結果として愛する息子が兄を殺すような羽目におちいったのである。
兄と母をマフィアに殺された青年はのちにこのマフィアを復讐として殺す。
これは兄や母といった家族を愛していたからこその殺人行為である。
人を殺さなければ表現できない愛というものがあるのではないか?
愛はそんなに清く美しいものか。愛ゆえに人は他人を殺すのではないか?
初代ゴッドファーザーが息子を愛したからこそ、
二代目は苦しまなければならなかった。
息子の罪の原因は父親の愛にあったのである。親の因果が子に報う。
ある人の人生というのは、父親がなした行ないに大きく影響される。
父親がある女を愛し孕(はら)ませたせいで子どもたちが憎しみ合うこともある。
子どもの人生は一見すると子どもが決めているように見えるかもしれないが、
本当のところは親の人生が子どもの人生を
かなりのところまで決定づけているのではないか。
二代目ゴッドファーザーが最初の殺人を行なったのは父親のためである。
初代ゴッドファーザーが兄と母を殺されるようなことがなかったら、
アメリカで人を殺すようなこともなかったと思われる。
だとしたら、殺人の罪というのは裁かれるべきだろうか?
個人に行為をなす自由などあるのか?
すべては宿命で決まっているのではないか?
子を作るというのは、おのれの宿業を新たな生命に引き継がせるということだ。
息子は父親の宿命をになって世に誕生してくる。
二代目ゴッドファーザーの妻がお腹のなかの男の子を中絶するのは象徴的だ。
もしこの男の子を産んだらば、いったいどんな男に成長することか。
すでに男の子はひとりいる。
将来兄と弟は三代目ゴッドファーザーの地位をめぐって殺し合うのではないか。
この子は産んではならない。この家系の男子の血はなにをするかわからない。
ゴッドファーザーの血はまがまがしくも呪われている。
呪われた血の美しさを描いているところがこの映画のおもしろさである。
この映画を見るとわかるのは、
うそくさい善よりも血のにおいのする悪のほうがはるかに美しいということだ。

「ゴッドファーザーPART2」でいちばんおもしろかったのは公開聴聞会シーンだ。
二代目の腹心が裏切って、過去のボスの殺人罪を暴露する証人として出廷する。
むろんのこと、権力者の二代目ゴッドファーザーはその情報を事前に察知している。
かつての腹心であり仲間に自分の犯罪行為を証言されたら身の破滅だ。
絶体絶命のピンチである。ゴッドファーザーはどうするか。
証言するかつての腹心の兄をともなって出廷するのである。
むかしの腹心はその瞬間に震えあがり証言を撤回するところが本当におもしろかった。
どういうことか。本当のことを証言したら、おまえの兄を殺すぞという脅迫だ。
二代目ゴッドファーザーのように兄を邪魔に思う弟がいれば、
証言台に立った男のように兄を慕う弟もいるのである。
一度裏切ったものはまたいつ寝返るかわからない。
映画のラストで旧腹心は兄を殺すぞとなかば脅され自殺するようすすめられる。
兄を殺すゴッドファーザーのような弟がいれば、
兄のためにみずからの命を断ってもよいと思う弟もいるのである。
この対照に気づいた観客はそういないのではないかと思われる、えっへん。
最後におかしな自慢をしてみた。
総じて本作品はキリスト教という光の影の黒々しさを、
その黒光りした美しさを描いた映画であったように思う。
これはキリスト教世界の人にしかなかなか理解されない映画ではないかと思われる。
日本人で「ゴッドファーザー1、2」をおもしろいと思えるのは、
いかにもな西洋的権威に弱い人か、よほどの宗教的センスを持った人だけではないか。
「ゴッドファーザー」はパート3まであるようだ。
これはあまり評価されていないらしいが、もののついでに近日中に視聴しよう。

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