「賭ける魂」

「賭ける魂」(植島啓司/講談社新書) *再読

→人生をおもしろく生きるには賭けるという行為がポイントになってくるはずだ。
なにものかに賭けていないと、
どんどん人生は退屈で平板なものになってくるのではないか。
1時間働いて千円しかもらえない人も、
ギャンブルをすればその千円を失ってしまうかもしれないというスリルのみならず、
その千円が10万円に化けるかもしれないという夢や興奮を持つことができ、
うまく目に見えない偶然の仕組みを看破すれば現実に千円が10万円になるのだから。
いちばん難しいのはこのときの10万円でさらにギャンブルしようとせずに、
ここで終わりと賭場をあとにして儲けを確定することらしい。
自分への投資というのは、なかなかわかりにくいギャンブルではある。
かといってグルメ雑誌が絶賛しているレストランで食事をすることが、
自分へのギャンブル的投資だと勘違いするものは少ないと思う。
賭けるというのは将来的な儲けを期待してなんらかの偶然性に身をまかせる行為だ。
著者は中国人のギャンブルを褒める。見ていておもしろいからだという。
中国人は、どうしてあれほど気風のいい賭けができるのか。

「彼らの人生観を要約すると以下のとおり。
たとえば、2年間屋台を引いてやっと200万貯めたとする。
あと3年間働けば500万となり一応の店が持てるようになる。
だが、そこからがわれわれと違うところ。
彼らはためらうことなくカジノに出かけ、200万を一気に500万にする賭けを打つ
(この賭けはそれほど不可能ではない)。
勝てば、もちろん翌月から店を持つことができるし、
負ければ、また2年間同じように働くだけ。
このあたりの割り切り方がなかなか日本人にはできないのである」(P19)


そんな危ないギャンブルはむろんのことわたしはできないし、植島啓司さんだって
そこまで人生を賭けたギャンブルはしたことがないのではないかと思う。
さて、偶然性に賭けることがギャンブルである。
未来予測のうえで人間にわかっていることは、
人間の未来予測はまあ外れることが多いということだろう。
自分がこうなるだろうと思ったようにはならないことのほうが多い。
ならば、自分をある面で捨てていたほうがうまく偶然性と波長が合うのかもしれない。

「人間は心に何か意図したら、同時にそこにスキが生まれる。
どんなに完全な計画も、人間が造ったというだけで、
どこかしら攻略可能な点が生じてしまうのだ。
何も意図せず相手を倒す、そのためにはその人自身、
他人に理解不能な生き方をしていなければならない。
安定した職場があって、帰る家庭があり、子どもがいて、
他の人々ともうまくやっている、そんな人間がギャンブルで勝てるわけがない」(P66)


対戦相手がいるギャンブルの場合、とにかく手の内を見せたら負けるという。
「どれだけ正体不明のままいられるか」で勝負が決まる。
なるほど対戦相手の正体がつかめないとこちらは不安に襲われ自滅することになろう。
どうしたら自分を正体不明なままで賭けに挑むことができるのか。

「勝負というのは「理解」されたら、即負け。
一見真実に見えるものをこしらえ、
相手がそれを信じそうになったら、直ちに壊してしまう。
相手が信じたものがつねに間違いであるかのように誘導していく。
そうやって相手をたたく。勝負というのはその繰り返し」(P72)


勝負師の自分語り(自慢話、人生来歴等)を信用してはいけないということだろう。
「あの人はこういう人間」などと相手に理解されたら即負け、おしまい、ゲームセット。
つねになにをするか自分でさえもわからない人間がギャンブルに強い。
人生をルーレットにたとえたら、大きな当たりはめったに出ないことになろう。
小さな当たりはよくでるが(偶数か奇数か)、そこで大儲けすることはできない。
このように考えると、人生で大きな当たりが出ることは極めてまれである。
ということは、ハズレるのが当たり前ということである。
人生をルーレット式に考えていたら、ハズレ続けている状態こそ大当たりへの布石になる。
またハズレ続けないと大当たりは出てこない。
繰り返されるハズレをいちいち負けだと解釈して落ち込んでいてはいけない。
ハズレを現在の自分を取り巻く運勢の波程度に認識していたら精神的に楽になる。
99回ハズレても1回大当たりが出れば、
そのうえそのタイミングでそこに大金をかけていたら勝ちなのである。
1勝99敗でも、ひとつの勝ちがデカければ人生収支のうえではOKとも言えよう。
宗教人類学者の植島は話をギャンブルから浄土信仰にまで持って行ってしまう。

「いくら勝っても負けても、そんなことに一喜一憂してはいけない。
それより、どこかで大勝負を仕掛けて
一発で勝負全体をひっくり返してしまうのだ。
当然のことながら10戦して5勝5敗なんて考えない。
むしろ1勝9敗でもかまわない。その一勝(極端にいうと、
他は1万円勝負で、それだけ1000万円勝負とか濃淡をつける)を
どのように配するかを考える。
できればそれを人生最後の勝負に賭けられたらベストかもしれない。
それによって、これまでの勝敗をゼロにしてしまうのだ。
その考え方を敷衍(ふえん)すると、
最後には「死んだら勝ち」という思想にたどり着くことにもなる。
死ぬというのは、一見すると最大の不幸に見えるかもしれないが、
実は考え方によっては、最大の歓びともなりうるのである。
「最後に最大の幸せが待っている」と思えば、
生きていること自体も肯定されるようになるだろう」(P173)


こんな危ないことを書き写しているわたしだが、パチンコひとつやったことがない。
そんなところで小さく勝ってしまったらと思うと怖いのかもしれない。
小さな勝ちは、小さな負けしか呼び込まないから比較的求めやすいのだろう。
わたしは大きく負けてもいいから、というかもう大きく負けている気がするし、
さらに大きな負けを経験してもいいから、大きな勝ちを志向したいところがある。
賭けの勝負を決めるのは偶然である。この偶然にどう向き合ったらいいのか。

「名人は偶然を制御できるとは思っていない。ただ、その不思議に酔いしれるだけ。
偶然を深く愛すると、しばしば向こうからその姿をチラッとかいま見せてくれる。
彼らは一見勝負しているように見えて、
その兆しがどのように現われるのかを楽しんでいるのである」(P192)


自分が勝ちそうだと信じる馬に金を賭けるのが競馬になるのだろう。
人生競馬でも、この人には賭けられるという人材がいるかもしれない。
この上司になら人生を賭けてもいいと思っているビジネスマンもいることだろう。
なかには自分こそ最後に勝つ馬なりと信じて自分に金を賭けるものもいよう。
あらゆる勝負はただ観戦するよりもはるかに賭けたほうがおもしろいものとなる。

(参考記事)前回の感想↓
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2323.html

COMMENT

東方不敗 URL @
04/15 22:24
. 次は、フィリップ・K・ディックの偶然世界を読んでみてくだしあ。
Yonda? URL @
04/16 10:03
東方不敗さんへ. 

有限の時間とお金の利用方法を決める際のひとつの参考にいたします。








 

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