「ゴーリキー短編集」

「ゴーリキー短編集」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→ゴーリキーはチェーホフと同時代の人なのだけれど、
現在の評価では完全にチェーホフのほうに軍配が上がっているような気がする。
女権推進者のイプセンが女性蔑視者のストリンドベリを打ち負かしたように。
いまゴーリキーの名前を出す人はいないでしょう。
チェーホフはお洒落なのに対して、ゴーリキーは底辺臭がきつくて疎んじられそう。
ゴーリキーが好きだなんて言ったら、赤旗新聞でも取ってるの? 
とか怖々と及び腰で質問されちゃうかもしれない。
ゴーリキーは熱心な共産主義者だった時代もあり、
スターリンの寵愛を受けたこともあった。
こういう事情でいまはもう流行らない作家なのかもしれない。
だが、愚見を申せば、チェーホフなんかよりゴーリキーのほうが荒々しくてよろしい。
お医者さんだったチェーホフに比して、
ゴーリキーはまともな教育を受けたこともない独学の人。
底辺労働を転々としながら言葉を持たない人たちに揉まれた作家である。
底辺の人たちは言葉を持っていないんだよね。
喜びや悲しみをうまく言葉で表現することができない。
ゴーリキーは底辺労働者のうめきのようなものを
的確に言語化した作家だったのかもしれない。
きっと文学少女がチェーホフに行って、政治活動青年はゴーリキーに向かったのでしょう。
実際、ゴーリキーは日本のプロレタリア文学に影響を与えたっていうし。
現存する作家でゴーリキー利権のようなものを持っているのは五木寛之氏になるのかな。

ゴーリキーはいいと思うけれどなあ。
暇があったら神保町と高田馬場の古本屋街をハシゴして
運にまかせてゴーリキーを買い集めてみたいくらい。
岩波文庫の「ゴーリキー短編集」の翻訳はちょっと問題ありのような気がする。
岩波文庫だからしょうがないのかもしれないけれど、訳がよくねえよ。
名短編「二十六人の男とひとりの少女」――。
ターニャが地下の囚人さんたちにパンをもらったところの訳がおかしい。
岩波文庫ではターニャがパンをもらって「狡そうに笑っ」たと書いてある。
別の訳では「いたずらっぽく笑って」となっており、こちらのほうが断然いい。
我われのかわいいターニャが狡そうに笑うはずがないじゃん。
岩波文庫の訳者がゴーリキーのこのすばらしい短編小説を
からきし愛していなかったことが証明されてしまったようなものである。

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