「零落者の群」

「零落者の群」(ゴーリキー/上田進・横田瑞穂訳/岩波文庫)

→安酒場のまえにある木賃宿(きちんやど/安宿)が舞台である。
ここでは大尉と呼ばれる宿主をふくめ「失うものがない」零落者たちがとぐろを巻く。
彼らは日雇いの力仕事で日銭を稼いだらすべて酒に使ってしまう。
金がなくなったらまた酒をのむための日銭を求めて沖給仕にでも出かける。
彼らが街の人から嫌われているかと言ったらそうでもない。
大尉の目はいつもどこか笑っているため愛嬌があり、なんだかんだと面倒見がいい。
なかにはこの最底辺の木賃宿を卒業するものも現われる。
大尉のおかげですよ、どうか一杯ご馳走させてください、と恩返しに来ることもある。
ふたりは目のまえの安酒場にくりだし景気よく酔いつぶれる。
翌朝二日酔いになっていたら、これをおさえるには酒しかないと再び酒場におもむく。
ついついこれを何日も繰り返してしまう。
お礼をしているほうの金がなくなったら今度は大尉が金を出して酒をのむ。
こうしてすっからかんになってしまったものは、また大尉の木賃宿の世話になるのである。
「零落者の群(むれ)」に再加入するというわけだ。
零落者のなかには教師と呼ばれる別格のこれまた人生の敗残者がいる。
教師はフリーで新聞記事を書き飛ばして、そのごとにあぶく銭をつかんで帰還する。
毎回、禁酒の誓いは破られることになる。
それでも教師は金の半分は街のスラムの子どもたちのために使う。
貧しい子どもたちにパンや果物を買ってやるのだ。
スラムの元気だが汚い子どもたちは感謝の言葉も口にせぬまま、
一目散に与えられた食物を平らげると次は教師をおもちゃにして遊ぶ。
教師は子どもたちの運命を考え始終暗い顔をしているが、
子どもたちはそんなことはお構いなしに教師の禿げ頭をぴしゃぴしゃたたいたりする。
教師は自分がなにか言葉を発したら
子どもたちを傷つけてしまうのではないかと恐れている。
夜になると教師はいつもの安酒場にしけこみ正体をなくすまで酒をあおる。
宿主の大尉と教師が「零落者の群」のなかでのツートップと言えよう。

いつの時代のどこの国でも社会の底辺では、
彼も我もみな人びとはただただ一斤のパンを求める、
それだけのために一日中こき使われ疲労困憊する。
貧乏と悲しみにうちのめされた人びとはわずかな憩いを求めて安酒場に足を運ぶ。
すると、その落ちぶれた安酒場に常連のように居座っているのが「零落者の群」である。
「零落者の群」は――。

「どんな問題についても堂々と意見をのべ、あらゆるものを茶化してしまう才能があり、
考えることが大胆不敵で、言うことが辛辣(しんらつ)で、
街じゅうの人が恐れている物の前に出ても少しも臆するところがなく、向うみずで、
こうと思ったことはがむしゃらにやってのける――零落者の群のこういった気風は、
街の人気をわかさないはずがなかった」(P263)


こいつらはまったくどうしようもないと思いながら、
その捨て鉢で自由な生き方に日々労働するものは安らぎを憶えるのだろう。
自分は古女房やガキんちょを捨てられないから、
むしろ反対に「零落者の群」が好ましく見えるようなところがあるのかもしれない。
どうしようもねえやつらのよさというのもまたあるのである。

「この人たちには一つのおかしな癖があった、というのは、
彼らは好んでお互いに自分というものを、本当の自分よりも悪く見せよう、
見せようとしていたのであった」(P250)

「この零落者の世界には一つの大きな美徳があった――
そこでは誰も無理に自分をありのままの自分以上に見せようとする者はなかったし、
また他人をそそのかして強いてそんな風にさせようとする者もいないのであった」(P301)


「零落者の群」はもはや見栄を張るという世界からは遠く離れてしまっている。
それにしても人生これからどうなるのか考えると先行きは絶望しか見えない。
かといって、過去を振り返ってもいい思い出はなにひとつとしてなく、
おのれのみじめな境遇を思い知らされるだけである。
どうしてこうなったのかもこれからどうなるかもわからず前後は闇も闇、
一面真っ暗だが、ひとつわかっていることがあるとすれば、
これからあの寒い冷たい凍える冬がやって来ることである。
過酷な運命には飼い馴らされているいるはずの「零落者の群」の凶暴性が目覚めるのは、
こんな冬が目前に迫った晩秋の夜更けである。
虐げられた人間特有の野獣のような憎しみが安酒場に充満する。

「そうすると、彼らはお互い同志で殴りあいをした。
まるで野獣のように、猛烈に殴りあった。
そしてさんざんに殴りあったあとはまた仲直りをして、飲みなおした。
あっさりした気性のヴァヴィロフ[酒場の主人]が抵当(かた)にとってくれるものを
何もかも放りだして、すっからかんになるまで飲んでしまうのであった。
漠然とした怒りと、胸をしめつけられるような切ない思いとにつつまれ、
この愚劣な生活から逃れでる道も見いだすことができないで、
彼らはこんな風にして秋の日を送り、
もっともっと過酷な冬の日が迫ってくるのを待ち受けているのであった」(P274)


そして、だれもが身構えてしまう過酷な冬がやって来る。
大尉は木賃宿のオーナーではなく、
あこぎな商人に地代と家賃を払って建物を借りているだけのただの管理人である。
幾度となく商人からは立ち退きを迫られたが、大尉と教師が力を合わせ撃退してきた。
ところが、忍び寄る冬の寒さがたたったか、相棒の教師が酒ののみすぎで死んでしまう。
あぶく銭が手に入ったため「零落者の群」が庭で酒宴を開いていたまさにそのとき、
最近すがたを見せなかった教師が危篤の状態で運び込まれ、すぐに息を引き取る。
「零落者の群」のボスである大尉は悲しんでやるもんかと強がる。

「時が来りゃ、おれだって死ぬのさ……あいつと同じようによ……
おれだって他の者と変りはねえさ。
――そりゃそうだ!――大尉はすっかり酔っぱらってしまって、
どたりと地べたに坐りこみ、大声をあげてわめいた。
――時が来りゃ、おれたちはみんな同じように死んじまうのさ……アハ、ハ、ハ!
どんな暮しをしようが……そんなことはつまらねえことさ!
おれたちはみんな同じように死んじまうんだからな。
人生の目的というやつは、つまりここにあるんだ。
おれの言うことは本当なんだぜ。
要するに人間は、死ぬために生きてるってわけなんだからな。
そうして、みんな死んでいくんだ……もしそうだとすると、
人間どんな暮し方をしたところで、結局、同じこっちゃねえか?
どうだ、おれの言うとおりだろう。マルチヤノフ?
さあ、もう一杯飲もう……生きているうちにせめて酒でも飲んでだ……」(P341)


翌朝は季節の変わる日であった。
教師という相棒がいなくなってしまった大尉は敵の術策にはまり警察官に連行される。
早晩、この木賃宿も取り壊されることだろう。
教師は死に、大尉は警察に連行され、「零落者の群」は散り散りになる。
ひとつの季節がこの日に終わったと後年、安酒場で語られることだろう。
その場に居合わせた呑兵衛はきっとだれもが、
むかしこの酒場の常連だった「零落者の群」を懐かしく思い出すはずである。

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