「映像夜間中学講義録 イエスタデイ・ネヴァー・ノウズ」

「映像夜間中学講義録 イエスタデイ・ネヴァー・ノウズ」(根本敬/K&B)

→ふつうさ「見えないものを見る」ってイイ事とされているじゃないですか。
くだらねえ通俗的成功者とかがいかにも訳知り顔で言いそうな気配がぷんぷんする。
ほかの人が見えないものを見ることが成功の秘訣です、
とかドヤ顔、ドヤ声であいつらは言うだろう。
でもね、だけどさ、「見えないものを見る」というのは狂っているということと同義なんだ。
そうでしょ? ふつうの人が見えないものが見えちゃったら、
それはおかしいよと多数派から排除されてしまう。
見えないものが見えたことを口にしなければ排斥されないのだろうけれども、
実際そういう見えないものが見える人というのは、ここだけの話まあおかしいことが多く、
このため言わなきゃいいものを見えないものが見えたことを公言してしまうわけ。
そんなことをするから危険視されて周囲から疎まれる結果になってしまうのに。

ふつうの人が見えないものを見てしまうというのは妄想パワーが強いということ。
具体例で話そう。バイト先の話。
いつだったか4ラインのほうで、パート女性が大声でヒステリックに泣き叫ぶ声が聞こえた。
異世界の住人が出すような異常な声でわくわくしたものである(←え? わくわく?)。
古株パートのAさんに聞いたら、社員とパートがトラブったらしい。
「よくあることよ」って言われたけれど、えええ、こんなことがよくあるの?
「おもしろい職場ですね」と言うしかなかった。
その翌日だったか、数日後だったか。
ライン(流れ作業)でわたしのとなりに見たことのない女性が入った。
いま書籍や雑誌を日本各地に出荷する倉庫でバイトしている。
で、そのくだんの女性の本の箱への入れ方がめちゃくちゃなのねえ。
こんなことを書いても一部関係者にしかわからないでしょうけれど、
型番20の箱に文庫を縦に3つ並べるという荒業を自信たっぷりに女性はする。
そういえばずっとまえにも一度だけこの本の入れ方を見たことがあったと気づく。
こうしてわたしの妄想は暴走して、
いま横にいる女性こそ先日大声で泣き叫んだ人に違いない。
この人には触れちゃいけないんだ。たぶんこちらの被害妄想でしょうけれど、
わたしもまたバイト先でアレな人のように上から思われている気がする。
上から「毒をもって毒を制す」をやられているのではないか。
きっと試されているに違いない。火薬のにおいがする。ふふふ、この地雷は踏まないぞ。
こんなことを考えたらおかしくてたまらなくなった。
本当のことを知ったら、なんでもなかった。
横の女性は泣き叫んだ人とは別人で、最近新しく入った人だったというだけ。

ここからが難しいというか、おもしろいというか。
いわゆる妄想に生きていたほうがそれなりにハラハラやドキドキを味わえるわけだから。
現実なんか知らないほうが劇的な生を楽しめたと言えなくもないわけ。
「見えないものを見る」っていうのは、
コクのある人生を送るために必要なことかもしれない。
しかし、現実を取り違えているわけだから、ある種の近所迷惑を起こしかねないのも事実。
陰謀説とかもそうだよねえ。
フリーメーソンがどうだとか、なにか悪者がいてこの世を支配されているという妄想。
そういう妄想を生きている人は、本人はだよ、周囲ではなく本人は楽しいのだと思う。
医学的に絶対回復不可能な盲目の人が新興宗教に入って、
熱心に勤行したらかならず目が見えるようになると信じているのは、
本人にとっては救済になっているのだけれど、周囲からしたら痛々しいことこの上ない。
かといって、新興宗教の人だけがおかしいわけではなく、我われもまたおかしい。
我われもまた起業したら幸せになるとか、自分は平均寿命まで生きられるとか、
そういう現実ならぬ夢のようなもの(つまり妄想)を信じて生きているわけだから。
とりあえず正社員になって、結婚して子どももいればゴーカクみたいなさ。
しかし、こっちのほうは広く共有されている物語(妄想)のため、
むしろこちらを信じていたほうが生きやすいということはあると思う。
とはいえ、いくら正社員でも家族がいても、人生つまらないものはつまらない。
かえって、まっとうに生きれば生きるほど人生はどんどん退屈になっていくのではないか。
まっとうなアダルト人生を生きていると、子どものような興奮や刺激を味わえなくなってしまう。

そこで改めて「見えないものを見る」技術が問題となってくるわけだ。
ユングが発見し、河合隼雄が日本に紹介したシンクロニシティという考え方がある。
シンクロニシティは共時性や同時性とも呼ばれる、意味のある偶然の一致である。
シンクロニシティの怪しいところは、当事者にはどれだけ深い意味があっても、
周囲の人にはほぼ理解してもらえない偶然の一致であることだ。
統合失調症(精神分裂病)の人はシンクロニシティを感じやすい。
あらゆる偶然に意味づけしてしまい、
その小さな意味が本人のなかで積み重なることで追跡妄想や監視妄想になる。
集団ストーカーとか言っているアレな人も間違いなくそうでしょう?
だれもあんたのことなんて気にしていないのに、
シンクロニシティなんてことを考えると
知らない人の咳払いにまで意味を読み取ることになってしまう。
で、ここが難しいというか、おもしろいというか、
本当のところはその咳払いにも自分との関連で意味や理由があるかもしれないことだ。
それを集団ストーカーというありきたりな物語に収束させるのではなく、
偶然を偶然のまま味わうことで自分だけの物語を作れたらおもしろいのではないか。
「見えないものを見る」というのは精神医学的にはかなり危ないけれど、
危険なことほどスリルがあって日常の退屈を吹き飛ばしてくれるのではないか。

本書の著者の根本敬の求めているのは、どこまで自覚的かはわからないけれど、
上記のような偶然を生かしたおもしろいことの発見にあるような気がする。
著者はこんなことを言う。

「オカルト的なもの全般から、霊だの前世だの来世だの輪廻転生、霊界の類やら、
神仏から宇宙意志まで、非・科学的とされるもの総ての否定を大前提にしてもですね、
数学的な確率論だとかを以てしても、説明のつかないワザワザな偶然、
それも、いちいち手の込んだ出来すぎた偶然の一致が余りにも多すぎるのは
何故だろうかって、よく考えるんです」(P64)


それは根本敬さんが狂っているからとも、無意識に開かれているからとも言えよう。
はっきり言って発狂直前にいるのだろうが、
特殊漫画やらなにやらを表現することでかろうじて、
まだこっちの世界に踏みとどまることができているのだと思う。
シンクロニシティというのはプラスの面も非常にあるのだろう。
シンクロニシティということを考えると、つまらない人生が少しばかり楽しくなってくる。
それどころかシンクロニシティこそ本当の人生の道しるべかもしれない。

「――偶然と偶然がネットワークを拡張して、必然に結実していく過程ってのがあって。
網のね、その網の結び目のあのギュッとした感じ。
あんな具合に、偶然って、密集してるところには密集してんですよ。
偶然が起こらないとか、それに気付かないってのは、その結び目に居ても、
占いと違ってタダだからって、
街頭のティッシュ配りから受け取ったって扱いしかしてないんじゃないかな。
さもなきゃ、結び目に居ないって事でしょう。
「オカルト」や「スピリチュアル」の餌食になってもいけないけれども、
偶然が降りかかって来れば来る程、行き着く先は地獄でも天国でも、構わないけど、
とにかくそれは「合格」なんだよ。
通過点かもしれないけれど、「今、いるべき場所」なんだと思う」(P66)


この感覚は当方とてもよくわかるけれども、わからない人にはわからないと思う。
たとえば、こういう話。ある特別な日にたまたまある店に入ったとき、
流れていた曲がとても自分との関連の強いもので、
そういう偶然のことに見えない世界の存在を確信して深く感動する、みたいなさ。
根本敬のおもしろさは、
シンクロニシティの行先は天国だけではなく地獄もまたあると言っているところ。
シンクロニシティは祝福されたバラ色をしているのではなく、
いやそういう面もあるのだが、反面まがまがしい暗黒面もまた持ち合わしている。
スピリチュアルな人はみんな自分こそ人生の主役と思っているわけでしょう?
でも、じつのところはそうではないかもしれない。

「目の前に、自分の身辺に次々と所謂シンクロニシティが続けざまに起こっても、
必ずしも、ソレって何も自分のために起こってるとは限らないって事だね。
磁石に釘ひっつけて、それに砂鉄が引き寄せられるでしょ。
あんな具合に、自分のシンクロが、実は、
磁石は他にあって、釘とか砂鉄かも解んない」(P81)


これはすごいことを言っているのね。
みんなどっかで自分が中心になってシンクロニシティが起こっていると思っている。
しかし、本当はそうではないのではないか。
自分が磁石で偶然を引き寄せているなんてとんでもない話で、
磁石は別のところにあって、あらゆる偶然はそこに向かっているのかもしれない。
あなたやわたしは磁石ではなく、釘や砂鉄のような存在かもしれない。
だとしたら、磁石になっているのはなにか。
根本敬は「因果力」の強い人が
あらゆるシンクロニシティの源になっているのではないかと指摘する。

「とにかく、身辺で、人類が滅びるまでの長い、最終捕食者争いをしているとも云え、
それ念頭に、自分に起こったシンクロが、結果、自分を飛び越え、
誰が一番、得をするかを考えると、身辺でのそこで起こってる、まあ、ドラマのね、
その回の主役は誰か、又、一番強い因果力の持ち主が誰なのか、解ります」(P83)


わたしがいままでの人生で出逢ったなかで、
いちばん因果力が強かったのは大学時代の恩師の原一男先生である。
この人に逢っちゃったから、こうまで人生で落ちぶれてしまったとも言えよう。
同時にこの人に逢わなかったら、どれほど退屈な人生を送っていたのかとゾッとする。
人生で逢う人とはかならず逢ってしまうのだろう。
原一男さんの因果力にまさに砂鉄のようにわたしは引き寄せられてしまったところがある。
因果力の強い人というのはカリスマのことだと思う。
一般的にわかりやすい例をあげたら、
いまの日本でもっとも因果力が強いのは創価学会の池田大作名誉会長ではないか。
この人に逢わなかったらと思っている日本人の数をカウントしたらどのくらいになるのか。
池田大作さんに逢ったがために、人生が変わった人が無数にいるはずである。
池田大作さんや創価学会の周辺ではとにかくシンクロニシティが起こるような気がする。
因果力の強弱というのは、持って生まれたもので努力してどうこうなるものではないと思う。
みなさまも考えてみたらおもしろいのかもしれない。
いったい自分の因果力はどれほどだろうかと。
因果力の強い人は周囲に影響を及ぼしてしまう。
いい影響だけではなく、むしろそんなものは少なく、
実際は迷惑をかけることのほうが多いのではないか。
にもかかわらず、我われは因果力の強い人にどうしようもなく引かれていってしまう。
シンクロニシティを生きる道しるべになんかすると、因果力にさらわれてしまう。
因果力のどうしようもない働きで、ある人とある人はどうしようもなく出逢ってしまう。
出逢った人間同士はかならず別れると決まっている。これもまた因果力ゆえかもしれない。
仏教ではこれを「会者定離(えしゃじょうり)」という。
我われは目に見えないどうしようもない力によってこの世に誕生して、
たまたま偶然にだれかと出逢い別れ、そしていつかは絶対にわからないが、
これまた目に見えないどうしようもない力によってこの世から去っていかなければならない。
ならば、「見えないものを見る」のもまたおもしろいのかもしれない。
「見えないものを見る」ことで地獄に行くかもしれないけれど、それでもいいのなら。

*本書の内容を難しく書いている大乗仏典に「華厳経」というものがある。
お暇ならどうかお読みになってくださいませ↓。
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COMMENT

URL @
04/10 23:13
. その先が天国だろうと地獄だろうと「合格」と見なすというのは、懐深い人生観ですよね。
決して耳触りのいい話ではありませんけれど。
Yonda? URL @
04/12 11:01
夜さんへ. 

なんか天国って退屈しそうですよね。地獄の修羅場とか経験してみたいなあ、女と。








 

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