「ディスコミュニケーション」

「ディスコミュニケーション」(植島啓司・ 伊藤俊治/リブロポート)

→関西大学助教授の新進気鋭の学者と美術評論家のあつ~い新文化論。
植島啓司さんもバロウズだのベケットだのボルヘスだのを
知的俗物丸出しで語っていた時代があったんなあ。1988年の話である。
ふたりともなにか新しくて難しいことを必死になって話そうとしているのが笑える。
世界中のコミュニケーションがどうのとあつ~く遠くを見ていたけれど、
彼らは現在のようなインターネット世界の到来をまったく予想できていなかった。
話は脱線するが、これからインターネットはどうなっていくのだろう。
インターネットは歴史上これまでなかった前例のない先の読めない道具なのだ。
一方通行のテレビやラジオはもう限界が知れてしまったが、
だれもが世界に発信でき、だれとでも交信できるインターネットの未来の予測はつかない。
考えてみれば30年まえからしたら、いまわれわれはすごい時代を生きている。
30年後に果たしてインターネットはどうなっているだろうか。
ネットは新しすぎてまだ法整備もままならないからかなり自由なことができるだろう。

もうそろそろ因果性から未来を予測するという姿勢を改めてもいいのかもしれない。
なるべく多くの情報を集めてそこから因果性をもとに未来を予測するよりも、
たまたま偶然知りえた情報のみを信じて未来の(因果性ならぬ)偶然性に
賭けるという方法で生きてみるのもおもしろいのではないか。
くだけたことを言えば、どれだけ多くの健康情報を集め
実践しても長生きできるかはわからない。以下は、たぶんそういうことを言っている。

「一時挫折があったのは、コンピュータによって
因果性のネットワークをさらに厳密化でき、それに基づいて因果性のルールを
もう少し丹念に追えば、未来予知の方法としてはもっと一層正確なものが
見出されるというような錯覚が生まれてからは、
なおさらその傾向が助長されています。
しかし、逆にそういう因果性の概念とか確率とかを排除するところからしか
新たな未来予知の展望は生まれてこないのです。
つまり、ぼくたちに必要なのは、可能な限り多様な情報を整序する機能ではなく、
きわめて限定された情報の組み合わせから多様なプログラムを
生み出す機能なのです」(P244)


わかりにくい表現だが、いくら情報を集めてコンピュータに計算させても
競馬で100パーセント勝つことはできないでしょ? って話をしているわけ。
いくら競馬新聞とにらめっこして因果性の物語をつくっても競馬では勝てない。
競馬のみならず人生というギャンブルでも
情報の過多や因果性、確率論はあまり意味をなさないのではないかという指摘である。
みんな確率論で平均寿命まで生きられると信じているだろうけれど、
あれはあくまでも確率論と因果性が虚構した夢のようなもので、
実際は年を取れば取るほどわれわれの人生は偶然性に振り回されていくわけだから。
そうそう、いまはライターの植島啓司だが、むかしは宗教人類学者を自称していた。
植島啓司は宗教のふたつの傾向性をこう説明する。

「もともと宗教というのをすっきり考えていくと、宗教には根本的に二つの傾向がある。
一つは自分を自分自身からできるだけ遠くへ遠ざけるということですね。
できるだけ自分から遠い場所へと向ける動き。
もう一つは自分とは全く異質なものが自分の体内に入ってくる、
つまり、自分自身とは異なるものを呼び込むことなのです。
これは言葉を換えて言うと、最初のほうは解脱というんですよね。
後のほうは救済ということになります。
それらは宗教の二つの典型的な形態として考えられるんじゃないかと思います」(P102)


1.解脱=自分から遠ざかる
2.救済=自分とは異なるものを呼び込む
これをわかりやすく言い換えたら、要するに修行するか祈祷するかってこと。
修業してなるべく無欲っぽく聖人ぶろうとするか(解脱)、
煩悩(ぼんのう/欲望)はそのままでなにかにお祈り(おすがり)するか(救済)。
われわれは祈るというのが楽でいいと思う。
自力でしんどい修行して血まなこに勝利や成功を目指すのもいいのだろうけれど。
しかし、われわれは祈るというだけで世界を変えているとも言いうる。
というのも、祈るってことは人間以上のものが世界にはあると認めることなんだから。
未来予測で唯一人間にわかっていることが、
「完全な未来予知は絶対にできない」というシンプルな矛盾なのがおもしろい。

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