「天使のささやき」

「天使のささやき 宗教・陶酔・不思議の研究」(植島啓司/人文書院)

→現在は売れないフリーライターにまで落ちた植島啓司が、
関西大学教授時代に書いた論文集とのことだが、どこからどう見てもエッセイ集である。
あるいは大学教授がエッセイを書いたら論文というあつかいになるのかもしれない。
だらだらした散漫な本書をよんでひとつ思ったことがある。
「正しい」ことの源泉は狂気にあるのではないだろうか。
われわれがなにが「正しい」かを見極めようとするとき、結局行き着くのが権威である。
たとえば、新聞に書いてあるから「正しい」。
新聞の記事は東京大学教授の裏付けがあるから「正しい」。
ところが、どんな「正しい」ことも10年後にはくつがえされる危険がないとは言えない。
その意味でどの「正しい」も相対的な正当性しか持っていない。
いっぽうで絶対的な「正しい」ものがあると信じる人たちがいる。
たとえば南無阿弥陀仏の系統なら最終的には法然や善導の権威的言葉に到達する。
南無妙法蓮華経ならば日蓮やチギ、法華経の言葉に行き着こう。
最後は(本当は言っていないのだが)釈迦の口に権威が委託される。
キリスト教ならイエスが権威の源泉だろうが、イエスはどう見ても狂人である。
釈迦は狂人というほど動的ではないが、統合失調症後の廃人状態とも言えなくもない。
世界をこちら側(正常)と向こう側(異常)に分けるならば、
向こう側に行ける人だけが絶対的な「正しい」ものに触れることができるのだろう。
狂え。ただひと言、狂え。
権威の借り物ではない絶対的に「正しい」ものを見たければ狂うしかない。
狂うことで「向こう側の世界」に行くしかないのだろう。
狂うとは世界を観察するのをやめて、世界のただなかに勇気を持って入っていくこと。

「あっさりと世界の側に誘拐されてしまうのだ。
それこそ「エクスタシー」の語源でもあるが、滅茶苦茶であること、
空騒ぎ、無法、さかしま、激情、破壊、乱交パーティ、耽溺行為など、
思考の働きを意図的にストップさせて、
すっぽり向こう側に我が身を委ねること。
もうひとつの親和性」(P12)


狂うとは時計を捨てることだろう。朝7時に起きて、夜8時に帰ってくるのをやめる。
1日働いたら7~8千円稼げる(安いなあ)という規則性を認めない。
千円が十万にも百万にもなる世界が狂っている世界である。いわゆるギャンブルだ。
ギャンブルを通じて人は退屈な正常から狂騒的な異常世界に参入することが可能になる。

「ギャンブルでは、ひとは自分の欲望の大きさを推し量ることができる。
いったい自分はどれくらい勝ちたいと思っているか。
いくら勝てば満足するのか。
そのために、どのくらい犠牲を払う覚悟ができているのか。
それを知ることが、自分を知るということだ」(P158)


死んでもいいと全財産をあるギャンブルに投入できたらどれほど興奮するか。
一か八かのギャンブルほどおもしろいものはなかろう。
先の知れた世界から未知の世界に入っていくためには賭けをする必要がある。
大きなものを賭けるとき、人間に可能なのは信じることだけだろう。
そのときいったいわれわれはなにを信じたらいいのか。

「すなわち、一見偶然の積み重なりに見えるものでも、それは別の角度から見れば、
必然的に起こったことであり事柄でもあり、
どんなに確率的に不可能な事柄でも、この世に起こりえないことはない、
ということである」(P177)

「この世ではまったく起こりえないような因果関係の連鎖だって、
それが起こりえないことを証明するのは不可能なのだ」(P178)


ああ、陶酔の世界、不思議の世界、穢(けが)れの世界を見てみたい。
通常、異界からの旅人は来たと思った瞬間、そうだとわからぬうちに消えていく。
狂的人物は定住して日常生活を行なうのが困難なのだろう。

「イエスと悪霊は、単に符号が(+)か(-)かだけの違いで、
両者がともに対立するのはゲラサの人々であり、
そして、ゲラサの人々にとっては、
イエスも悪霊もともに忌むべき存在で、畏怖の対象なのである」(P200)


なにかおかしな人物が村にやってきて騒動が起こり、
その新参者が去ることでひとつの季節が終わるというのは典型的な劇のパターンだ。
うまく群れていたら人は狂わない。
そこには安定や日常、平和はあるだろうけれど、陶酔や陶然、熱狂はない。
ごくたまにだれかが死ぬことで日常に穴が開き劇的昂揚が生まれる。
しかしそれもわずか数日の儀式で鎮静され、また静かな日常に戻っていく。
もてもてで病的賭博、アルコール依存症に近い植島啓司は言う。

「陶酔とは死との合体だ。
われわれは生命体として、つねに死と共存するかたちで生きている。
免疫系の仕組みを見るまでもなく、われわれの内部には死がひそんでいるのである。
そうした内的な死に目覚めること、それこそエクスタシーの本来の意味なのである。
だが、われわれは死から目を背けることによって平坦な日常にしがみつこうとする。
なんという愚かなこと!」(P232)


こんな自己陶酔した文章を書いていた関西大学教授は、
のちにみずからが大学の定職を追われ、なんの肩書もないライターになることを知らない。
そして、そうなったときにはじめて「偶然のチカラ」「生きるチカラ」といった
名作エッセイを書くこともまた当時関西大学教授だった植島啓司は知らない。

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