「三十光年の星たち」

「三十光年の星たち」(宮本輝/新潮文庫)

→読後、吐き気をもよおしたカルト的とも言いうる長編小説である。
何度も強調して断っておくが、ただたんに小説がカルト的だと言っているだけで、
著者の入信している創価学会がカルトであると言っているわけではない。
運がいいのか悪いのか学会員とはこれまでの人生でまったく縁がなく、
創価学会がカルトなのかどうかはわからない。

さて、吐き気をもよおすほどに気持が悪い小説だったのである。
2週間まえに読了した本だが、いまでもときおり内容を思い出し吐き気を感じるくらいだ。
どうしても自分のほうが「正しい」という自信を持てず、
この2週間のあいだ何度もメモした部分を読み返したものである(謙虚だなあ)。
主人公は30歳の無職男性。
三流私大を卒業後に小さな会社を転々として、いま恋人と起業したところ。
ところが、革製品を売る商売はうまくいかず借金をかかえる身になった。
そこに75歳の「先生」が現われ金を貸してやる代わりに青年を奴隷あつかいする。
この「先生」がとにかく偉いという設定らしいのだが、なんで偉いのかよくわからない。
大金を持っているというのが、おそらくいちばんの偉い理由だろう。
それから自分とおなじような成り上がり者の金持とコネがたくさんあるらしい。
性格はとても気難しく、いきなり金を借りている弱い立場の青年を怒鳴りつけたりする。
75歳の「先生」は群れるのが好きで、
自分のシンパと一緒に青年を巧みにマインド・コントロール(洗脳)する。
しだいに青年は自分のあたまで考える能力を失いはじめ、
「先生」への絶対的服従を誓うようになり、
道ばたでいきなり柔道の技で投げられたにもかかわらず感謝の念をいだくほどになる。
自分のあたまで考えるということを完全に放棄した青年は、
「先生」に言われるがまま
後継者のいない怪しげなB級グルメレストランの店長におさまる。
休日いっさいなしで朝6時に起きて深夜1時、2時まで働く生活を送るようになる。
なんのためか? なんのためにわざわざそんなしんどい生活を送るのか?
30歳の青年にとってもはや「先生」の教えを疑うなんて思いもよらないことだ。
「先生」は言った。30年後のおまえの姿を見せてみろ。
30年後に本当の「人生の勝負」がはじまるのだから。
わかりやすく言えば、30年後に他人と比較して「おれは人生で勝利したぞ」
と喝采をあげるためにいま「先生」のしもべとして365日早朝から深夜まで働け。
「先生」は自分が絶対に正しいと確信して金のない低学歴の青年を叱り飛ばす。

「三十年後の自分を見せてやると決めろ。
きみのいまのきれいな心を三十年磨きつづけろ。
働いて働いて働き抜け。叱られて叱られて叱られつづけろ」(上巻P334)


30年後に訪れる「人生の勝負」以外のことは考えるな。
考える暇があったら働け。もっと働け。いや、もっとできるだろう? 限界を超えろ!
なんだ、その反抗的な目はアホンダラ、金も学もない若僧のくせに。
叱られたら「ありがとございます」だろう。叱られたら感謝するんだよ、この貧乏人が。
おい、クソガキ、おまえ金をなんぼ持ってるんだ?
30年後におれのような人生の勝利者になりたかったら叱られて喜べ。
「先生」は絶対に正しいのだから、おまえは奴隷のように働いて叱られて感謝しろ。
遊ぶ? そんな無駄なことをしている時間がおまえにあるのか? 
30年後に人生で負けてもいいのか?
どうしておまえは反抗的な目をするんだ。考えるな。おれの言うことは正しいんだから。

「やれ、と言われたことを、やれ。
こんなことをして何になるんですかなんて、いちいち訊(き)くな。
なんでこんなことをさせられたのかは、何年かあとになってわかる」(下巻P130)


おまえは絶対に間違っている。なぜなら「先生」は絶対に正しいからだ。
自分をどこまで犠牲にして「先生」のためになにをできるか考えろ。
なぜ「先生」は偉いかなんて考えるな。
「先生」は年寄りで金持だからおまえよりも絶対的に偉く賢いんだから疑うな。
裕福な老人は低学歴で貧乏な若者を怒鳴りつけ反省をうながせる。
「三十光年の星たち」は毎日新聞に連載された小説だ。
いまや若者はほとんど新聞を読まず、いっぽう老人はあきれるほど新聞が大好きである。
新聞は正しい。宮本輝は正しい。ならば、新聞を読んでいる老人も正しい。
なぜ新聞が正しく偉いのかといえば、
紫綬褒章作家で芥川賞選考委員の宮本輝が小説を連載しているからである。
なぜ宮本輝が正しく偉いのかといえば、天下の大新聞社に認められているからである。
宮本輝は正しい。新聞は正しい。新聞を読んでいる老人は正しい。
新聞連載小説「三十光年の星たち」では老人が不遇な若者に反省せよという。
どう反省すればいいのか。

「俺が、いまの自分に不遇という言葉を使えば何物かに強く叱責されるだろう。
何かをめざして耐えるとか、つらい修業に身を投じるとか、
そんなことから逃げつづけて、俺は二十代を無為にすごしてきた」(上巻P184)


いま不遇な若者は自己責任なのだから不満など口にしたらぶっ飛ばずぞ。
反省したのちに働いて働いて働いて、そして叱られて叱られて叱られるがよい。
「先生」に叱られたら「ありがとうございます」だからな。叱責されたらありがとうだ。
ディープなファンのあいだで有名な
池田大作と宮本輝の「無言の叱責」事件というものがある。
創価学会会長(当時)の池田大作は文筆で評価されることを強く望んでいた。
ところがそれはかなわず、弟子の宮本輝が芥川賞を取ってしまったのだから、さあ大変。
池田大作は芥川賞作家の宮本輝に嫉妬して幼児的な完全無視をしたわけである。
宮本輝は最初、へへん、池田大作もこの程度の男かと本当のことにうっすら気づく。
しかし、池田大作および創価学会から見放される恐怖は、
ちょっと想像しただけでも人格が崩壊してしまうレベルのものだったのだろう。
低学歴で当時はまだ金をあまり持っていなかった宮本輝は庶民的な平伏を見せる。
池田大作先生は自分の慢心を見破ったから、あのような冷たい態度を取ったのだ。

「先生」は正しい。

宮本輝が心を入れかえたら池田大作先生が声をかけてくれるようになったという。
このときの経緯を宮本輝は「無言の叱責」という短文に書き残している。
もちろん、池田大作先生への恭順を示すためにである。
老作家の宮本輝はよほど書くことがなくなったのだろう。
(学会員ではない)一般人の憫笑を誘いかねないこのエピソードを、
美談めいたものとして「三十光年の星たち」にコピーしている。
骨董屋の見習いが「先生」の命令に逆らって無視されるという気持が悪い話である。
その見習いが自分で考えるのを放棄して、
「先生」は絶対的に正しいのだと考えるようになったら「先生」はやさしくしてくれた。
しつこいが、この小説のテーマであると思うためにまたおなじことを書く。

「先生」は正しい。

これは出世するための秘訣でもあるのである。
人間平等なんて嘘八百の話で、出世するためには上から認めてもらうしかないのである。
身もふたもないことを書くと、世の中は金を持ったやつと持っていないやつがいる。
権力を持った人と権力を持っていない人にわかれる。
クソみたいに下世話なことを書けば、
偉い人、正しい人とは権力や金を人より多く持った人のことである。
有名人の子どもならそうではないが、生まれが賤しい人間は
どの世界でも出世したかったら偉い人から引き上げてもらうしかない。
権力者の周辺には奴隷のような追従者が多く見られるのはこのためだ。
「先生」が正しいことはゆめゆめ疑ってはならないのである。
なぜなら「先生」は「先生」だから正しいのだ。
「先生」であることは正しいことを証明しているのである。
どういうことかと言えば、「先生」もその「先生」から引き上げてもらったということ。
「先生」の「先生」が正しかったから「先生」もまた絶対的に正しい。
おそらく最初の「先生」は狂人に近かったはずである。
なぜなら自分が絶対的に正しいなどと確信を持てるのは狂人寸前だからである。

しかし、ここまでお読みくださったみなさまは思われるかもしれない。
果たして「先生」は本当に偉く正しいのだろうかと。
概して「先生」は正しいことが多いというのもまた事実なのである。
実際、日本の伝統文化(伝統芸能)は師弟のあいだで継承されている。
そうなると新しいものは出てこようがないということになるのか。いな、である。
現実として日蓮の伝統仏教から、
いまや日本を完全に支配した巨大新興宗教団体の創価学会が誕生しているではないか。
「三十光年の星たち」にはツッキッコのスパゲティというゲテモノ料理が登場する。
イタリアのことをなにも知らないおばさんが新発明したインチキのパスタである。
これが庶民に大好評だったというのだから、まるで創価学会である。
カルト小説「三十光年の星たち」には一箇所だけ救いがある。
強制的にゲテモノ料理屋の店長に任命された青年がふと疑問に思う瞬間である。

「いや、それよりも何よりも、俺はツッキッコのソースの味を知らないのだ。
どんな香りでどんな味なのか、想像もつかないのだ。
もし今夜、初めて味見したソースを俺がうまいと感じなかったらどうなるのだ。
いや、佐伯平蔵[先生]がうまいと言ったのだから、絶対にうまいはずだ」(下巻P118)


自分の舌で味わうのはやめて「先生」の舌で味わおう。
自分の目で見るのはやめて「先生」の目で見よう。
自分の耳で聞くのはやめて「先生」の耳で聞こう。
自分のあたまで考えるのはやめて「先生」のあたまで考えよう。
自分の言葉を口にするのはやめて「先生」の言葉を使い回ししよう。
なぜなら――。

「先生」は正しい。

新聞小説「三十光年の星たち」を読んで吐き気をもよおしたと書いた。
これは身体的レベルで拒否感を示した、いや、心動かされたからだと思う。
人生の大勝利者である宮本輝は「正しい」ことを「三十光年の星たち」から教わる。
偉大なる宮本輝先生のおっしゃるとおりだと今後は心を入れかえることにする。
これからはグルメ評論家の絶賛するものをなるべく口にしようと思う。
映画評論家がほめている新作映画をできるだけ観に行きたいものである。
権力者が評価しているクラシック音楽や古典芸能に可能なかぎり触れていきたい。
これからは、これからは――。
くだらぬ自分の感想など捨てて権威ある「先生」のおっしゃることを信じて生きていく。
今日はわたしの人間革命記念日だ。宮本輝先生、ありがとうございます。
宮本輝先生の叱責はわが胸の底を揺り動かしましたぞ。

きちがいのニーチェがこんなことを言っている。

「すぐれた教育者は、
教え子が師に逆らってあくまで自分自身に誠実であろうとすることを、
誇りにしてよい場合があることを知っている」


(参考)「ニーチェからの贈りもの」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2613.html

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