「一遍辞典」

「一遍辞典」(今井雅晴:編/東京堂出版)

→労作だとは思うが、著者が一遍の根本思想を理解していないことに驚く。
「正しい」かどうかは結局、肩書勝負になるから「正しい」のは著者だろうけれど。
踊り念仏を始めた鎌倉時代の坊さん、一遍のやばさは自殺を肯定したところだ。
正確には、自殺など存在しないとした。
自死遺族の悲嘆というのは強烈なものだが、
これを癒すものがあるとすれば一遍の仏法しかいまのところ考えられない。
南無阿弥陀仏の救いとはどういうことか?
死んだら極楽浄土に往生できるという、ただそれだけのことである。
だったら、早く死んだほうがいいって話でしょう?
法然も親鸞もなんだかんだいって南無阿弥陀仏に徹しきれなかったのではないか。
ふたりともやたら長生きしているから、
こいつらにとって念仏は商売道具でしかなかったのではないかとさえ邪推してしまう。

一遍の名言に「とく死なんこそ本意なれ」というものがある。
「早く死ぬのが本望だ」という意味だ。
死んだら阿弥陀経に描かれている極楽浄土に往生できるのなら、
「とく死なんこそ本意なれ」は必然の帰結と言えよう。
いまの日本の一般常識では自殺はよくないものとされている。
著者は通俗的な常識に縛られて狂的な一遍の信仰をまるで理解していない。
当時はおそらく自殺などという言葉はなく、捨身往生と言われていた。
身を捨てて極楽浄土に往生することである。
今井雅晴博士は言う。

「鎌倉時代後期に全国の布教活動をした一遍のまわりには、
古代以来の捨身往生肯定の世界が広がっていたようである。
一遍はこの世界に身を置きつつも、
捨身往生は救済につながるものではないと否定している」(P141)


どこにそんなことが書かれているのか、ぜひぜひご指摘いただきたい。
本書には著者の住所が書かれていたが、
「もてない男」の小谷野敦さんではないが、手紙を書いたら返事が来るだろうか?
一遍が捨身往生を肯定していたと解釈できる部分ならいくらでもある。
今井雅晴博士はなぜか法然や日蓮を持ち出してくる。

「ところで法然や日蓮ら、鎌倉新仏教の祖師たちは、
一様に捨身往生を否定している。
その理由は、第一に、彼らは現世における命を尊重していること、
第二に、彼らは他力の信仰を標ぼうしていること。
みずから命を断つことによって極楽往生しようというのは、
あくまでも自力行とみなさなければならないからである」(P141)


え? 日蓮の仏法は他力ではなく、法華経に帰れという自力信仰ではないか?
日蓮が現世における命をそこまで尊重していなかったという証拠もある。
以下は、日蓮が信徒に書いた手紙の一節である。

「とにかくに、死は一定なり[死は決定している]。
其時[絶命時]のなげきは、たうじ(当時)[元寇や飢饉]のごとし。
をなじくは[どうせ死ぬのだから]、かりにも法華経のゆへに命をすてよ。
つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ」


さらに今井雅晴博士はみずから命を断つのは自力行だと書いている。
博士は一遍の他力信仰をまったく理解しておられないのだろう。
木に実がなり熟してそれが落ちるのは、自力ではなく他力(自然)でしょう?
花が咲き散るのも自力ではなく他力である。
果実が熟し落ちたり花が散るのと捨身往生(自殺)はおなじなのである。
自殺というのはじつは自殺ではなく、花がその命を終えて散っているようなもの。
散る「とき」が来たら散るほうがよけいな延命を施されるよりもよほどいい。
「青が散る」美しさは「散る」ことによっているのである
しつこいようだが、花が散るのは自力ではなく他力である。
一遍の和歌にこういうものがある。

「さけばさきちるはおのれと散(ちる)はなのことわりにこそ身は成(なり)にけれ」
(咲くときは咲き散るときは散る花、そういう自然の理に自分は従いたい)


いくら自殺したって未遂に終わってしまう死ねない人がいるのを著者は知らないのか?
自分で自分を100%殺すことなどできるはずがないのである。
すべては他力だと信じられたら捨身往生(自殺)を遂げるものは、
彼(女)の宿業ゆえなのだからまったく自力の行ないではない。
一遍は富士川で入水往生したあぢさかの入道を絶賛している。
にもかかわらず、一遍をまるで理解していない博士はこんなことを書く。
今井雅晴氏にとっては一遍仏法は自分が真に「生きる」ためのものではなく、
出世や商売のための道具に過ぎなかったことがよくわかる。

「富士川で入水往生したあぢさかの入道の行為は、
決して誰にでも認められるものではない。
一遍の答えである「たゞ念仏申してし[死]ぬるより外は別事なし」
における〝死”が、単純な肉体的な死でないことは明白だろう。
これを入道は肉体的な死と勘違いした」(P28)


わたしは勘違いしているのは今井雅晴氏のほうではないかと思う。
氏は日本語を読めないのだろうか。一遍はこう言っているのである。

「又云、およそ一念無上の名号にあひぬる上は、
明日までも生(いき)て要事なし。
すなはちとく死なんこそ本意(ほい)なれ。
然るに、娑婆(しゃば)世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、
死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終し損ずるなり。
仏法には、身命を捨(すて)ずして証利を得る事なし。
仏法にあたひなし。身命を捨(すつ)るが是あたひなり。
是を帰命と云(いう)なり」


一遍は法然や親鸞よりもさらに過激な信仰を持ったカリスマだったのである。
いまこの瞬間に死んでもいいなんてやつがいたら、ビビらないものはいないだろう。
この迫力にひかれて一遍につきしたがった男女が時衆と呼ばれる人たちだ。
みんな一遍と一緒にいると楽しくて、思わず踊りだしてしまうものもいたのだろう。
本当に狂ったやつというのはおもしろいし、
深く傷ついた人を癒すのは「逝っちゃった」信仰なのだと思う。
一遍はこの世に生きながらすでにあの世に「逝っちゃった」人だったのだろう。
一遍は教科書にも載っている偉人だから「長生きはやっぱりいいわねえ」
などと言うと思ったら大間違いだぜ、そこのおばさん。一遍は51歳で死んだ。

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