「一遍上人語録 付・播州法語集」

「一遍上人語録 付・播州法語集」(大橋俊雄:校注/岩波文庫) *再読

→むかし暇にまかせて「一遍上人語録」を百回以上読んだことがある。
そうなると、ほとんどすべて内容を覚えてしまう。
その段階までいって一遍の思想を自分の言葉で書いてみたくなった。
2013年8月4日に書いた「一遍上人語録」の感想が以下である。

「一遍上人語録」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3321.html

ああ、だれもしないでしょうがクリックなんてなさらないで結構ですよ。
うちのブログの最長記事ですから、よほどの暇人以外は読めないと思います。
目が痛くなるからきっと健康にもよくない。
さて、もうあのときの感想ですべてを書き尽くしてしまったような気がするのである。
いまわたしに自信のようなものがあるとしたら、
鎌倉時代のマイナー仏僧である一遍を自分ほど理解しているものはいまいという、
ある種の錯覚(誤解/うぬぼれ)のためといってもよい。

2015年になって「一遍上人語録」について書きたいことはなにかあるのか。
いまわたしは多くの人たちと一緒にアルバイトとして書籍倉庫で働いている。
そうなると一遍の言葉が彼(女)らにはとっては意味がないことに気づく。
わたしが救われたような言葉はほかの人たちにはまったく意味がないのだと思う。
とはいえ、だれも読んでいないブログで語りかけたいとも思ってしまう。
一遍という人はなかなかいいことを言っているのだから。

わかりやすく言うならば、「最後の目」で見てはどうか、と一遍は言っているのだと思う。
難しい言葉をすべてはしょったうえで自分の言葉で説明すれば「最後の目」で見る。
明日ここのバイトを辞めるんだと思って職場の光景を見たらどれほど美しく見えるか。
もうこの人ともあの人とも会わないと思ったら、どんな嫌いな人でも許すことができる。
やたら重いだけのオリコンももう持つことがないのだと思うととても懐かしくなる。

感傷といえば感傷なのだが、一遍の南無阿弥陀仏はそのような感傷だと思う。
究極の真実のひとつは、人はいつ死ぬかわからないということである。
まさかないとみな信じているだろうけれど、
あなたやわたしだって明日死んでしまうかもしれないのである。
明日は来ないかもしれないのである。交通事故、心臓発作、無差別殺人いろいろある。
そう考えてみれば、いまのこの瞬間に見ている光景がどれほど美しく、
ありがたいものに思えるか。
もうこの光景を未来永劫見ることができないかもしれないのである。
そのときいつも行くスーパーの店員、職場の同僚がとても美しく見えないだろうか。
ささいな日常の細かなものがすべて「ありふれた奇跡」に思えないだろうか。

「死」というものを強く強く意識して生きるのが一遍の南無阿弥陀仏なのだと思う。
「死」からこの世を見る。一遍の南無阿弥陀仏とは「死」のことである。
いまのわたしが一遍の思想を一行で要約したら「善悪を捨てよう」になる。
われわれは常に善悪を考えるようにできている。
ついつい善をしたいと思ってしまう。あいつは悪人だと裁きたくなってしまう。
しかし、「死」から見たらなにが善でなにが悪かなんてわからなくならないだろうか。
どうせ死んでしまうのに、あくせく金を稼いでどうする。
どうせ死んでしまうのに、あいつは悪人だから会社を辞めさせろと上に告発してどうなる。
どうせ死んでしまうのに、おれは紫綬褒章作家まで登りつめたと自慢してどうなる。
おれはトヨタの社長だと言っても、あたしは大物芸能人の妻よと言っても、
みなに平等に訪れる「死」から見たらそれがなんになろうか。

しかし、そんなことを言えるのはお気楽な世捨て人くらいというのもまた「正しい」。
人は生きていかなければならないし、
生きていくというのは富や美、出世や健康を求める行為にほかならない。
とはいえ、そういうものをあきらめてしまう生き方もあるのである。
職場のある先輩から人生来歴をうかがい、
この人はわたしなんかよりはるかに
一遍の南無阿弥陀仏をわかっていると感激したものだ。
「わずらわしい人間関係はいやだ」とその人は言った。
一遍が好きだった空也という坊さんの言葉にこういうものがある。

「名を求め[名声・肩書を欲し]衆を領すれば[人の上に立てば]身心疲れ、
功を積み[がんばって]善を修すれば[世間的にいいとされることをしたら]
希望(けもう)多し[この世への期待が大きくなるがどうせ報われない]。
孤独にして境界なきにはしかず[孤独に徹し人と自分を比べないのが一番]。
称名して[念仏して]万事をなげうつにはしかず[すべてを捨てるのがいい]」(P132)


とはいえ、それがなかなかできないのが人間というものなのだが。
一遍だってなんだかんだいって最後には名声を得ているのである。
出世を本当に求めなくなったら出世してしまうようなところがあるのかもしれない。
しかし、どうせ出世したところで人間は孤独である。
結婚したっていくら友人がいたところで人はみんなひとりぼっちだ。
一遍の和歌にこういうものがある。

「おのづから相あふ時もわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」(P59)

人生の出会いや別れが「おのづから」であるという考え方がまずいい。
人に出会ったり別れたりするのは、
偶然でも必然でもなく「おのづから(自然)」なのかもしれない。
そして、どんなにいい人に出会っても「おのづから」別れてしまう。
そうかと思ったら「おのづから」べつの人と出会うこともあるかもしれない。
しかし、結局のところ人間はだれしも「ひとりはいつもひとりなりけり」――。

明日死んでしまうかもしれないと強く思うことだ。
実際そうならないとも限らないのだから。
どうしてみんな自分が平均寿命まで生きられるなんて信じているのだろう。
不摂生な生活をしているから、あと数年くらいだと思っている。
正しくは思っているではなく、あと数年で「おのづから」死にたい。
一遍の思想は、「死」こそもっとも幸いという逆転発想である。
南無阿弥陀仏と唱えたら死後にこの世よりもはるかにいいところに往ける。
そう考えると踊りだしたくならないだろうか。
明日死んでしまうかもしれないと考えたら、
今日会う人たちや目にする光景がどれほど美しく見えるか。
どうせ人は死ぬのだし、死んだら極楽に往けるのなら、
いまの苦しみや辛さなど屁ほどのものでもない。
人はみんな死ぬ。死んだら天皇も社長も富裕層も貧困層も底辺もなーんにもなくなる。

懸命に南無妙法蓮華経と唱えて現世における出世や勝利を求めるのもいいが、
人生長くてもたったの百年で、
死んでからは百年どころではない長い長い時間が待っているのかもしれないのだ。
しかし、南無妙法蓮華経もまたいいと思う。
どうしてたった一回きりのこの人生で幸福を願わずにいられようか。
成功して勝利して人の上に立つのはいい気分だろう。
そっちもまた「正しい」のだと思う。
一遍の思想は「正しい」ことや「善悪」は自分にはわからないというものだった。
なにもかもわからないことを示すために一遍は南無阿弥陀仏と言った。
明日死んでしまうかもしれないのだから、一遍は楽しく笑い、そして踊った。
おそらくAKBの元祖であろう踊り念仏の発案者として広く知られているのが一遍である。

COMMENT

東方不敗 URL @
02/21 21:47
Yonda?さんへ. 命どぅ宝。

平良とみさん 「お金よりももっと大切のなものが命なんだよ」
平良とみさん 命どぅ宝 沖縄戦 そして今 - YouTube
www.youtube.com/watch?v=l7nb8xkA598
Yonda? URL @
02/24 00:52
東方不敗さんへ. 

お金よりも命よりもたいせつなものがあると、
わたしはどこかで考えております。
そうであってほしいとも。
劇的な興奮などがその一例かもしれません、
よくわかりませんけれど。








 

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