「江分利満氏の酒・酒・女」

「江分利満氏の酒・酒・女」(山口瞳/徳間文庫)

→江分利満とはエブリマン、つまり我われ大衆のことである。
名前からは性別がわからないが、
男性作家の山口瞳はみずからを江分利満とおとしめた。
むろん、山口瞳がエブリマン(大衆)なわけがなく、
大企業のサントリーの社員の身で直木賞まで受賞した大、大、大成功者なのだが。
あるいは江分利満ぶるのが成功する秘訣なのかもしれない。
こうして実名で悪口を書けるのは山口瞳がとっくに死んでいて、
ひとり息子のお坊ちゃんも現在ではそれほど権力を持っていないようだからである。

いまは干されているが復活も近いと噂される、
銀座での豪遊が大好きな某大物司会者もとにかく電波上は庶民ぶっていた。
エリートサラリーマンでのちに人気作家になった山口瞳も
銀座で遊ぶのが好きだったらしい。
銀座で派手に遊んでいたところ、
当時の文壇権力者の梶山季之にたいへんひいきにしてもらい、
雑誌連載多数の梶山の鶴の一声で
はじめて書いた小説で直木賞作家になったという(P46、P54)。
自分は小説家になりたいなど一度も思ったことはないと書いているが嘘である。
死後に公開された夫人へのラブレターで異常なまでの作家願望が語られている。
まあ、人間はそんなもんだが、
人生がこうもうまくいく人もいるかと思うと錯覚には違いないがかすかな希望が持てる。

惚れるということがいかに重要か。
山口瞳は梶山季之にひいきにしてもらったから出世できたのである。
梶山季之は山口瞳を好いた。好くとはわけがわからない行為である。
山口瞳も自分の「好き」にたいへんこだわった作家だった。
ナンシー関や中村うさぎの元祖が「男性自身」の山口瞳である。
好きになるとは、どういうことか?

「……私にとっては、焼酎とラーメンのほうが、
フランス料理店のエスカルゴよりも食物としては上等だということになる」(P149)


自分が好きなものを好きでいつづけることがどれほど難しいか。
エブリマン(みんな)があまり好きではないものを、
好きだとこだわりつづけ、どこが好きかを語りつづけるのがどれだけ価値のあることか。
なにかを好きになる、惚れるということがどれほど生きる原動力になるか。
なにかを好きになることのないものはさみしいのではないかとさえ思う。
いまからでも遅くない。自戒を込めながら発言するが、なにかを好きになろう。
だれかを好きになろう。
意図してできるものではないが、だれかに惚れてみたいじゃないか。

「芸術とは何か、小説とは何か、ということも、
古来、くりかえし反問されるのであるが、
同様にして、女とは何か、という設問も難問であると思う。
芸術とは何かという設問では、結局は、惚れてしまえばそれまでよ、
ということで終わってしまうことが多い。
そのあたりも、女とは何かに似ている」(P162)


性別などどうでもよくなりむかし梶山季之は山口瞳に惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものに惚れた。
梶山季之は山口瞳の書くものをもっともっと読みたいと思った。
だから、当時売れっ子作家の梶山季之は
周辺の編集者に山口瞳という男の書くものはすばらしいと吹聴してまわったのである。
この人の書くものをもっと読みたい。
だれかひとりにでも熱狂的に惚れられるというのが作家の才能というものだろう。
好かれるのが才能だと書いたみたいだが、好くのも才能である。
ビジネスライクの正反対の態度が人を好くということだ。人を嫌うということだ。

COMMENT

URL @
02/17 18:38
惚れるというのは. 男にせよ女にせよ犬にせよ作品にせよ
事故や天災に似ていると思います。
Yonda? URL @
02/18 08:00
犬さんへ. 

望んでも思い通りにはならないということですね。








 

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