「仮名手本忠臣蔵」

「仮名手本忠臣蔵」(竹田出雲・三好松洛・並木千柳/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→さて、日本人に大人気という忠臣蔵である。
ネット上に解説はあふれているだろうし、
日本人で話をまったく知らない人はいないだろうから、
ことさらなにか付け加えたいとは思わないのだが、それでも感想めいたものを。
「仮名手本忠臣蔵」はとにかく長いんだ。
ところが、新潮日本古典集成は、親切気取りか関係者の博識自慢か、
くそ細かい校注を原文のうえに掲載しやがっている(してくださっている)。
こういう芝居台本は一気に読まないと意味がないから、
江戸時代の文章くらいなら馴れたからいけるだろうと「仮名手本忠臣蔵」限定で
校注はほとんどすべてすっ飛ばして原文と逐語訳のみで早読みした。
細かく読んでいないからときおりだれがだれだがわからなくなったが、
まあ最後に復讐する物語だろうという甘えめいたものを支えに読了したしだいである。

やはり読んでいる最中は日本人だからか、切々と胸に響く物語だとは思った。
しかし、読後1週間も経つとひねくれたことを書きたくなるのである。
忠臣蔵が好きというのは、どこかやばいのではないだろうか。
というのも、われわれみんなが復讐の物語を生きているような気がするからである。
仕返しとか、かたき討ちというのは逆恨みめいていて、どこか精神病的ではないか。
かくいうわたしも復讐の物語をいま現実に生きているから、
そういう自分が忠臣蔵という鏡に映ってしまい、その結果客観的に自分が見えてしまい、
ちょっと気持悪くないかと思わぬところもないのである。
だれかにいつか復讐してやるという物語を生きるのは不健全ではないだろうか。
とはいえ、みなさんもそうではありませんか?
人生で許せないやつというのがいて、いつかそいつを見返してやるとか思っていません?
親が許せない、あの教師が許せない、いじめられたトラウマを忘れられない。
上司のあのひと言は絶対にパワハラで、いつか復讐してやる、みたいな(笑)。
いや、そういう物語を生きていたほうが、
空虚な人生よりもコクが増していいという考え方もできるのだろうが。

こんな奇妙なことを考えてしまったのは、
ファンである精神科医の春日武彦氏の影響だと思う。
氏の著作「しつこさの精神病理」の一節がよみがえってきて仕方がなかった。

「おそらく、復讐が成功しても思ったほどのカタルシスは訪れなかったり、
こんな奴に仕返しをしても自分の心が汚れるだけだと
急に馬鹿馬鹿しくなってしまったり、反動で空虚感や抑うつ気分に囚われたり、
いったい自分の人生は何のためにあるのだろうと悩んだり、
そんな具合に気持ちはむしろ暗く沈みこむ方向にシフトするのではないだろうか」(P74)

「言い方を変えるなら、復讐という行為にはどことなく品のなさが漂う」(P76)


ちょっとドキッとするような精神科医の言葉ではないか。
いや、忠臣蔵は自分のための復讐ではなく、
主君のためのいわば忠義による復讐だからいいのだと言われるかもしれない。
たしかにそうではあるけれども、しかし忠臣蔵の気味の悪さは消えない。
あんまり大きな声では言えないけれど、忠臣蔵の世界は創価学会に似ている。
「亡き戸田先生の弔い合戦だ」とか、「池田先生のために戦わないのか」とかさ。
忠臣蔵は政治団体やヤクザにも通じる「散る桜」めいた恐ろしさがないだろうか?
なーんかさ、自分たちは絶対に「正しい」と信じて徒党を組む人たちは怖くないか?
外国人にはよく理解できない日本人の愛社精神はまさしく忠臣蔵と言えないか?
いやな話だが、たとえばわたしが赤穂浪士人のひとりだったら、
めんどくせっとか思って集団行動に参加しなかっただろうなあ。
「仮名手本忠臣蔵」は事実そのままではなく、
フィクションだからいいという説もありうるだろう。

忠臣蔵のいいところもたくさんある。
みなさんはそこを嫌うのかもしれないが、忠臣蔵は死の美化が強い。
死というのは敗北ではあるのだが、にもかかわらず、ではなく、
このために美しいという死への賛歌が忠臣蔵の世界にはある。
死は終焉なのだが、だれかの死はあとに影響を残すという基本姿勢がある。
ある個人の死というものを契機に世界が変わっていくのだという、
死のプラス面へのまなざしが忠臣蔵からは感じられる。
死は終わりではなく死から始まるものもあるという世界観を忠臣蔵は持っている。
有名な塩治判官(浅野内匠守)の切腹シーンを見てみよう。
塩治判官は一瞬の激昂からクレージーにも
公式な場所でむかつくライバルを刺し殺そうとして愚かにも失敗する。
日本社会ではメンバーおのおのがどんな理不尽にも耐え忍び、
決して和を乱してはならないにもかかわらず不届きな騒動を起こしたのである。
当然、将軍さまから切腹とお家断絶の処罰がくだる。
いさぎよく塩治判官が腹を掻っ切ったまさにその瞬間、
主君を慕う家老の大星由良助(大石内蔵助)が駆けつける。
腹から血を流しながら判官は由良助に言う。

「[判官]「ヤレ由良助 待ちかねたわやい」。
[由良助]「ハア御存生の御尊顔を拝し、身に取つてなにほどか」。
[判官]「オオわれも満足満足。定めて子細聞いたであろ。エエ無念。
口惜しいわやい」
[由良助]「委細承知つかまつる。この期(ご)におよび。申し上ぐることばもなし。
ただ御最期の尋常[立派なさま]を。願はしう存じまする」。
[判官]「オオいふにやおよぶ」ともろ手をかけ。[刀を]ぐつぐつと引き回し。
苦しき息をほつとつき。
[判官]「由良助。この九寸五分[刀]は汝へ形見。わが鬱憤を晴らさせよ」と。
切先にてふえ[のど笛]はね切り。血刀(ちがたな)投げ出しうつぶせに。
どうどまろび息絶ゆれば。御台[正室/妻]をはじめ並みゐる家中。
まなこを閉ぢ息を詰め 歯を食ひしばり控ゆれば。
由良助にじり寄り。刀取り上げおしいただき。血に染まる切先を。うち守り守り。
無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句 五臓六腑にしみわたり。
さてこそ末世に大星が。忠臣義心の名をあげし 根ざし[原因]は。
かくと知られけり。」(P199)


塩治判官は並み居る家老や妻の目の前で切腹しているのである。
切腹は自殺と言ってしまえば自殺に過ぎないが、どこか芝居っ気のある自殺と言えよう。
周囲の目を気にしながら、おのれの人生劇の終幕を演じてみせているようなところがある。
自分の死を演出していると言ってもよい。
「仮名手本忠臣蔵」はたしかに復讐劇なのだが、一同なかなか復讐しようとしない。
このためだろう。塩治判官の切腹をなぞるように、
芝居の半ばで勘兵という男がこれまた周囲の目を意識していさぎよく腹を切っている。
いのしし狩りをしていてあやまって義父を殺してしまったと思ったがゆえの切腹だ。
腹を切っている最中にそれが誤解であることがわかるるため無念の切腹になる。
しかし芝居的にはみな(観客ふくめて)に主君への忠義をよみがえらせ、
再度復讐を喚起するための切腹である。
繰り返すが、切腹というのはたいそう芝居ががったまこと演劇的な自殺方法だ。
そして「仮名手本忠臣蔵」限定でならこう言ってもいいだろう。切腹は美しい。
そのうえ、この芝居において切腹における死は、
みなの行動を規定する(復讐!)意味合いを強く持っている。

わたしは母親に目の前で飛び降り自殺された過去を持っているが、
「仮名手本忠臣蔵」を読んで思うのはあれは切腹のようなものだったのだろう。
「ケンジ」と名前を呼ばれ上を見たら9階からいきなり母が飛び降りてきて死んだ。
いまでもまったく意味がわからず神仏を恨んでいるところがあるけれど、
あれを切腹と考えるという物語の解釈もなくはないのだろう。
一般的に自死遺族は身内の自殺者のことを恥じるが、
武士の家族は切腹したものを恥じるどころかむしろ誇りに思うだろう。
忠臣蔵が日本人に人気があるということは、
みなどこかで潜在的に自殺を美しいと思う感受性を持っているのかもしれない。
さて、塩治判官は復讐せよと言い残して切腹した。
復讐しろ、怨念を晴らしてくれというのは、じつのところ切腹してくれというお願いだ、
それは大星由良助もよくわかっている。

「よう思うて見れば、仕損じたらこのはうの首がころり。
仕おほせたら跡で切腹。どちらでも死なねばならぬ」(P239)


忠臣蔵のメンバーは創価学会のように勝利するために決起したのではないのである。
一致団結してプロジェクトを成功させようとしているわけではない。
最後は切腹して汚名をそそぐためにわざわざ重い腰を上げている。
美しく死ぬために忠臣蔵のメンバーは連帯してひとつの目標に向かっている。
結局どちらがいいのか?
安穏と長生きすればそれだけで、ただそれだけでいいのか?
たとえ早死にしようとも劇的に春の桜のように華々しく散っていったほうが
美しいのではないか? 生きるというのは、いったいどういうことなのか?
忠臣蔵が好きな日本人というのは、おそらく平穏な日常を送る生活者だろう。
名誉の死とか劇的な興奮、スリル、生きがい、死にがいよりも平和な生活を好む。
逆説的に自らがそうであるからこそ観客は忠臣蔵劇を愛するのかもしれない。
わかりやすく言えば、毎日退屈でつまらないなあ。
忠臣蔵のようにぱあっと意味のあることをやって美しく人生を閉幕したい。
忠臣蔵を見ているあいだだけはそのように思う。
とはいえ、芝居が終わったら現実に引き戻される。
いや家族が健康ならそれでいい。仕事が順調ならそれでいい。
家族がいなくても仕事で出世の見込みがなくても、
生きていればいい、生きているのはありがたい、ありがたいと自分をごまかす。

庶民の本音は、忠臣蔵の人たちをバカにしているのかもしれない。
あんなことをするなんてバカよねえ。
しかし、あなたが「仮名手本忠臣蔵」や赤穂浪士の役を振られたらどうするのか?
人は人生芝居の配役をまったくもって選べない。
われわれだって大星由良助(大石内蔵助)の役を振られたら
ああするほかないのではないか?
シェイクスピアの「ハムレット」も復讐劇という点においてのみ忠臣蔵と似ている。
父を殺されたハムレットは、いまは義父となった国王に復讐すべきかどうか迷う。
ハムレットは最終的に意志的というよりもむしろ偶然の流れで復讐を果たす。
忠臣蔵が計画的に復讐を敢行したのとはそこが異なる。
ともあれ、家内安全や長寿を美徳とする一般常識と
正反対の人生観を忠臣蔵は有している。
そんな芝居が国民的人気作となっているのは不思議なようで不思議ではない。

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