「傾城八花形」

「傾城八花形」(錦文流/土田衛:校注/新潮日本古典集成「浄瑠璃集」)

→「傾城八花形(けいせいやつはながた)」は江戸時代の浄瑠璃作品。
浄瑠璃とは日本式の人形芝居で大衆芸能だったが、のちに歌舞伎に人気を奪われた。
歌舞伎はいまでも大衆娯楽としてにぎわっているが、
いっぽうで浄瑠璃は(カネにならない)古典芸能に成り下がった。
「傾城八花形」いうのはやたらマイナーな作品らしく、
ネットで検索してもあらすじさえ出てこないのだから参ってしまう。
この記事はネット上にはじめて公開された「傾城八花形」の紹介である。
なにやら筋がポンポン飛ぶためまとまりがなく、しかし長いのでかなり読みにくかった。
おそらく学生は読まずにネットでうちのブログを発見してシメシメと思うことだろう。
意地悪だからミスリードしてやりたくもなるけれど、
困ったときは相身互いゆえかんたんなストーリーを記しておく。

ひと言で説明すれば、バカ殿のご乱心くらいでいいのではないか。
きれいな遊女(高級娼婦)に夢中になったバカ殿さまが傲慢にも忠臣を勘当する。
そこが不幸のきっかけで腹黒い部下の裏切りに遭い家を乗っ取られる。
悲惨なのはお殿さまからリストラされた忠臣である。
職をなくしたのみならず悪いことは続くもので眼病になってしまう。
カネがないので嫁を遊郭(フーゾク)に売ることになるのだが、
斡旋(あっせん)する人にだまされ9割のカネを中抜きされてしまう。
しかし、契約書があるからと泣く泣く嫁は遊郭に売られていく。
バカ殿さまはなんとか命だけは取られず逃げ延びる。
人生、悪いことばかりばかり続くものではない。
いちおうバカ殿さまは善玉で逆臣は悪役だから、最後は善が悪を滅ぼす。
忠臣は遊郭に売られた妻と再会する。
妻は一時的に狂っていたので使い物にならず売春婦なのに客を取っていなかった。
とはいえ、買われた身だから売春宿の主人とのあいだでトラブルになる。
ここでラッキーにもむかし忠臣に世話になったという商人が居合わせ、
あのときの恩返しということでカネをすべて払ってやる。
さて、この一行とバカ殿さまはたまたま再会して主従のよりを戻す。
そこにまたまた逆臣一行が登場して、バカ殿さまたちは晴れて復讐を果す。
最後は殿さまも元の身分に戻り悪は成敗され、めでたしめでたしという物語である。

こうしてストーリーを書いてみると、まあくだらないというひと言に尽きるのではないか。
とはいえ、浄瑠璃は歌舞伎とおなじで当時の大衆娯楽だったのである。
たとえるなら、いまはもうなくなったらしいが火曜サスペンス劇場みたいなものである。
そもそもからして少数派のインテリを相手にした芸術作品ではない。
ならば、この程度のものでも当時のお客さんは満足してカネを落としたのだろう。

悪口ばかり書いていても詮ないので、よかったところを紹介しよう。
この物語の発端はなにか?
殿の愛妾(高級娼婦)である伏屋が美しすぎたのがドラマの起こりである。
逆臣はなんとかこの美女をものにしたいと思って主人に反逆したのだ。
タイトルの傾城(けいせい)とは美女あるいは遊女という意味。
城を傾けるほどの美女だから傾城と言われている。
主人を追放した逆臣は伏屋をものにしたいと何度も口説く。
おだてだり、なだめすかしたりする。しかし、伏屋は殿さまいちずである。
どうして人の気持は思い通りにはならないのだろうか。
ここで成り上がった逆臣はひとつ思い知らせてやろうと
伏屋を火責めの私刑にかけようとする。
そんなことをしたらかえって反対の結果になるのは火を見るよりも明らかなのに、
あえてそういうことをしてしまう逆臣の「もてない男」ぶりがたいへんよろしい。
個人的な感想を書くが他人の恋人や女房に横恋慕するのはとてもいい。
かなわぬ恋というのがまずいいではないか。
女を自分のものにしたいという理由からライバルを失墜させる小狡さもいい。
そして、自分はその女を好きなのに、
にもかかわらず反対に自分を毛嫌いする女を折檻したり、
拷問にかけたりするのは人生にまたとない快楽のような気がする。
折檻されて苦しみに耐えている美女というのはとても欲望をかきたてられる。
拷問の準備を整え縄にかけた美女をまえにして「もてない男」は憎々しげに言う。
このセリフがとてもよかった。

「ヤレ胴欲もの[薄情もの] 人でなし。
おのれ[おまえ]を見そめしこのかた しばしも忘るる暇(いとま)なく。
たいこ[仲介者]にふきこみ宿屋を頼み 大分の金を費(ついや)し。
さまざま心をくだきつつ 呼べども呼べども出合はず。
このたびさいはひ葛之丞[忠臣] 勘当うけしを時こそと。
義を捨て主人を追ひ払ひ。貪欲心をおこせしも 皆これおのれゆゑにてあり。
しかるをつれなく振舞ふは。
友綱[主人]に思ひ深くのぼりつめたるゆえなりき」(P35)


このため、おまえをいまから火責めの刑に処すというのである。
火の上を歩かせる拷問にかけてやる。
縄でしばられた伏屋は燃えさかる火のうえにかけられた橋を素足で渡らされる。
足裏の皮がやけどでただれても伏屋は健気に耐えてこんなことを言う。

「いかなる辛さにあふとても いとしいかあいし人をすて。
おのれが色になびかうか。殺さば殺せ未来まで。
友綱様[主人]を差し置いて ほかの色にはうつさぬ」(P36)


あんたなんかの情婦になんてなってやるもんですかと啖呵を切る美女である。
苦痛に耐えながらも自分の志を変えぬ傾城(美女)に男は激怒する。

「さてさてしぶどい女かな。
まだまだ責めが軽いゆゑ、あのごとくなるほほげたきく。
それそれ汝ら引きおろし。くくりなほして向ふなる 松の梢(こずえ)に吊り上げよ。
心中立てをはき出すは とにかく責めがたらぬぞ」(P37)


悪役の卑劣さがとにかくいい。
どうしてかこの悪役のほうが気に入ってしまい、善であるほうがバカ殿に思えてしまう。
江戸時代の大衆娯楽であった浄瑠璃の売りは嘆きになるのだろう。
いまの言葉で表現するならば、登場人物の不幸自慢が観客を刺激するのである。
なにも起こらない幸福よりも、身もだえする不幸のほうが芝居では感動的なのだ。
いま芝居では、と書いたが、あるいは芝居ならぬ実人生でもそうではないか。
観客は無意識のうちにそのようなことを芝居を見聞きしながら学ぶのだろう。
浄瑠璃の登場人物はよく自殺を図るが、そこがとてもいい。
自殺が悪なんていうのは、せいぜい終戦後に入ってきた外来思想ではないか。
遊郭(ソープ)に売られることになった元エリートの妻は嘆く。

「世が世のときは御家老の奥様 または姫君と。
お乳や乳母にかしづかれ 末末の者どもには。つひに姿も見せぬ身が。
かく賤(しづ)の女となりけるさへ。世にもかなしく思ひしに
ゆゑなき物に騙られて。夫にも子にも引きわかれ
君傾城[遊女]に売られつつ。諸人に恥ぢを晒(さら)さんこと
あるべきこととは思はれず。
世に神仏はおはせぬか いかなる因果ぞ聞かせてたべ。
さりとてはなう末長殿[夫] 生きてたがひに面(おもて)を晒し。
世の嘲(あざけ)りにならんより いつそわらはを刺し殺し。
娘も手をかけ 御腹を召されうとは[切腹しようとは]おぼさずや」(P63)


おめおめ生き残るよりも体面を重んじて一家心中したほうがましではないか。
夫はどう答えるか。契約書を交わしたから、おまえはもう売春宿の商品だ。
他人さまのものに手をかけたら罪になろう。
そのうえいま眼病で目がよく見えぬ。
うっかりおまえを殺し損ねたら罪人として罰せられ末代までの恥となる。
このため、おまえを刺すことはできぬと夫は言うのである。
妻は嘆く。死ぬことさえできないのか。

「死ぬるだにも死なれぬは、過去生々にて いかなりし。
悪事をなしたる報いぞと」(P64)


根本にあるのは何度も生まれ変わりを繰り返してきたという輪廻転生の思想だ。
この信仰さえあれば、よほどの不幸も納得がいくということである。
また前世や前々世という考えがあればこそ、あっさり自殺もできるのである。
なぜなら「過去生々」があるならば、かならず来世も来々世もあることになろう。
どうして現代では「過去生々」の「悪事をなしたる報い」という、
前近代的とされる考えが消え失せてしまったのか。
おそらく現状肯定的で未来志向的ではないところが嫌われたのだろう。
しかし、とてつもない不幸は「過去生々」のせいにするしか
おさめどころがない気がするのだが。
ともあれ、この不幸な夫婦も最後には幸福になるから、
観客たる下層民は「恐怖と憐憫の情」(アリストテレス)を刺激されたうえで、
なおかつ終幕では勧善懲悪の結末にホッと胸をなでおろしたことだろう。

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